映画評「青春群像」

☆☆☆★(7点/10点満点中)
1953年イタリア映画 監督フェデリコ・フェリーニ
ネタバレあり

ここ十数年(特にBSハイビジョン統合後)甚だだらしなくなったNHK-BSが珍しく気の利いた放映をした。こういう映画をかつてのようにバンバン放映してくれたら受信料も勿体なくない。

」(1954年)と「カビリアの夜」(1957年)の好評により、1959年日本にも輸入されたフェデリコ・フェリーニ初期の青春群像劇である。これほど内容をよく表した邦題もなかなかない。

イタリア北部の町リミニにくすぶる若者5人のお話で、中心となるのは一番若くて堅実そうなモラルド(フランコ・インテルレンギ)だが、出番が多いのは彼の妹でミス・コンテストで優勝した美人サンドラ(レオノーラ・ルッフォ)を孕ませて出来ちゃった婚をする悪友ファウスト(フランコ・ファブリッツィ)。
 ところが、こやつメフィストフェレスに魅入られたか(ファウストだけにね)、出会った女性に片っ端から声を掛け、勤め始めたばかりの宗教関係の萬屋(?)の雇い主夫人にちょっかい出そうとしたのがばれて首になり、あろうことか店から天使像を盗む。結局これもばれるが、赤ん坊が誕生したのでうやむやになった後、またまた女遊び。これに気付いてさすがに落ち込んだサンドラが失踪騒ぎを起こして初めて堅気になる。

その他、有名な劇団長におかまを掘られそうになる劇作家志望レオポルド(レオポルド・トリエステ)、姉に小遣いをせびって賭け事に精を出すアルベルト(アルベルト・ソルディ)、歌が上手いのが唯一の取り得であるリカルド(リカルド・フェリーニ)の、可笑しくも悲しい挿話の数々がリアリズム基調で綴られている。

僕が本作を初めて観たのは後期フェリーニの作品が盛んに公開されていた1980年代高田馬場の映画館で、その時は「8・1/2」(1963年)以降の詩的幻想的なタッチとは随分違うものだなあと思ったが、今回見直すとその萌芽が既にあることに気付いた。カーニバル場面の終焉部分や天使像を海辺に立てるワン・カットなどである。

彼らは全員が三人称で語られるので形式上語り手は作者と考えられるが、恐らくは三人称に擬した一人称であって、実質上フェリーニ自身を投影したにちがいないモラルドであろう。リミニ(フェリーニの出身地)に留まり変化のない人生を生きていく他の四人と違って、彼だけが閉塞的な気分に満ちた町を出て行くという幕切れからそう推測したくなるのである。

後年の傑作群の凄みはさすがにないにしても、捨てがたい佳作と言うべし。

フェリーニを知らない自称映画ファンも増えたじゃろう。

この記事へのコメント

Bianca
2015年11月07日 22:18
オカピーさんこんばんわ。
「青春群像」と言うタイトルから、未来に向かう清新なイメージを受けるのは、私の独りよがりでしょうか?彼等はそろいもそろってだらしなかったり、抜けていたり、まあ青春の実像とはそういうものかもしれませんね…。80年代に高田馬場でご覧になったとのこと。パール座でしょうか?早稲田松竹?
ねこのひげ
2015年11月08日 08:06
モラルド=フェリーニ。
まあ、そうでしょうね。まあ、青春というのはグデグデとしたもんですよ。
フェリーニの若かりし頃を映像にしたんでしょうね。
若大将的な青春群像は現実にはあり得ないわけで。
『あんなに持てたわけないじゃん!』と加山雄三さんも言ってましたね。
オカピー
2015年11月08日 18:52
Biancaさん、お久しぶりです。

>タイトル
この邦題は内容を的確に表していますが、逆に邦題から内容を予想すると肩すかしをくらいますよね。

>高田馬場
パール座で、「魂のジュリエッタ」と併映でした。
足繁く通ったのは駅から少し離れた早稲田松竹ですが。

当時住んでいたのは大塚で、池袋文芸坐までは歩いて行ったものです。
オカピー
2015年11月08日 19:02
ねこのひげさん、こんにちは。

実際のフェリーニは10代でローマに出ているので、もっと溌剌としたと想像しますが、周囲はこんな連中が多かったのであろうし、ローマに出た後の彼にも怠惰な時が少なからずあったのでしょう。それが「甘い生活」という傑作にむすびついたのではないか、と無責任にも考えております^^
2016年12月18日 13:33
オカピーさん、こんにちは、
初めて「青春群像」を観ました。
この作品の後の「道」や「カビリアの夜」より、フェリーニらしい作品のような気がしましたよ。舞踏会のシークエンスや舞台一座の同性愛の座長なんて、往年のフェリーニの原点なのではないでしょうか?
評論家の渡辺祥子さんは、ドロンの「高校教師」が、この「青春群像」を踏まえて作られた、なんて言い切っています。確かに「高校教師」を観ると私もフェリーニが浮かんでくるんですが、一般にはヴィスコンティとの関連ばかり言われていますので、「ホントかな?」と思いながらも、渡辺祥子のコラムを読んだときはほっとしました。
フェリニー二は、少年鉄道員なんか登場させて、やっぱり50年代のイタリアン・リアリズムだなあ、なんて思ってしまいます。ラスト・シークエンスはとても情緒的で、トリュフォーやゴダールだと批判的になりそうなシーンですけれど、ここは批判してほしくない私の大好きシーンでした。
では、また。
オカピー
2016年12月18日 20:58
トムさん、こんにちは。

>道」や「カビリアの夜」より、フェリーニらしい
断然そうです。
日本の一般ファンには「道」がフェリーニの代名詞ですが、フィルモグラフィーを紐解けば、情が前に出た「道」は異色作かもしれませんね。

>渡辺祥子さん・・・「青春群像」を踏まえて作られた
フェリーニを一本も観たことがない中学時代に観ただけなので、比較のしようがないのですが、イタリア映画であるし、リアリズム派のズルリーニの作品なので、そうかもしれないなとは思います。
 DVDが出ているので、衛星放送に出て来なければ、いずれ買うしかないでしょうか。死ぬまでに・・・もう一度愛して(笑)・・・ではなく、もう一度観ないと。

>トリュフォーやゴダール
僕は、双葉師匠の受容の広さに影響を受けているので、彼らは狭量に過ぎる気がしますね。
 トリュフォーは映画監督として大好きなので、批評家としての狭量が残念。まあ後年大分反省したらいいので、許しますが(笑)

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