映画評「甘い生活」
☆☆☆☆☆(10点/10点満点中)
1960年イタリア映画 監督フェデリコ・フェリーニ
ネタバレあり
パオロ・ソレンティーニ監督「グレート・ビューティー/追憶のローマ」はフェデリコ・フェリーニのこの傑作を現代に作り直すという意図が明確に感じられて非常に興味深かった。かの作品に限らず、本作から引用または本作に言及する作品は少なくないので、早めに再鑑賞してブログに掲載しようと思いつつ、174分という長尺につきなかなか実行できないでいた。
さて、40何年か前中学生(若しくは高校生)の時初めて本作を観た。確か土曜日昼の、前編・後編で2回に分けての放映だった。勿論、人生経験も映画鑑賞歴も限られた十代半ばで理解できる程生易しい作品ではなく、最後のえいの場面だけが記憶と印象に残った。数年後大学生の時フィルムセンターで本作と再び対峙し、依然解らない部分も多かったものの、かなりピンと来たのだった。
フェリーニとしてはネオ・レアリズモのタッチが残る前期最後の作品にして、「8・1/2」(1963年)に始まる個人史的なファンタジー作品群への予感も覚えさせる過渡期の作品と、僕は思っている。
以下、暫しストーリー略述にお付き合いのほどを。
目指した作家になり切れずゴシップ記者に甘んじているマルチェッロ・マストロヤンニは、古風な愛情で彼を束縛したがっている婚約者イヴォンヌ・フルノーを愛しながら、富豪令嬢アヌーク・エメと戯れ、アメリカの映画女優アニタ・エクバーグにつき合い、ローマ郊外の聖母マリア騒動に繰り出す、といった“甘い生活”を続けている。
彼自身はそんな生活を変えたいと思うが、目標としてきた友人アラン・キュニーが子供と心中したことで切れた凧のようになって、知人女性の婚約解消祝いの乱痴気騒ぎを起こし、騒ぎにも飽きた朝まだき、近くの海岸で悪臭を放つ死んだエイを見出す。
この悪臭を放つ魚は彼自身である。仲間の一人は「生きている」と言い、もう一人は「死んで三日は経つ」と言う。実際には腐臭であろうが、彼若しくは彼らは生きたまま悪臭を放つのである。多分、それが、フェリーニが考える、神を恐れず虚無に埋没する現代人の実像なのである。
かかる象徴性は色々あるが、その場面に続く渚での無垢な少女(彼が作品を書こうとした店のウェイトレス)とのやりとりもそうであろう。懸命に何かを言っている彼女の声は波の音で全く聞こえず、海水に隔てられ近づこうにも近づけない。多分主人公が作家を目指していた若い頃の健全な、それどころか倦怠に苛まれていてもそれに抗っていた直前の態度にすら戻れないことを意味していると思う。
開巻直後のヘリコプターによるキリスト像運搬、中盤の聖母マリア騒動など、宗教に関する諧謔、皮肉な視点もフェリーニらしい。これらと主人公の関連で解るのは、主人公が無神論者を気取りながらキュニーに連れられて入った教会で見出す希望も、キュニーの死により一抹の泡と消える、ということ。本作は現代人の悲劇である。
大学時代この作品に感銘したのは、入学一年目に挫折して半年間学校に行かず怠惰を決め込んでいた自分と重なるように見えたから。完全に理解できないまでも、「凄い映画だな」とインパクトを受けたのだった。俄然頑張る気になり、二年目からは専攻に関しては克己した。残念ながら、卒論テーマが見つからず、代替えの単位取得の為(わが大学は卒論は必須ではなく、単位による代替えが利いた)もう1年留年して親に迷惑を掛けた、という後日談がある(笑)。
高校時代からの友人K君は淀川長治先生主催「東京映画友の会」の会計をやっていたので、かの会から結婚式に届けられた祝辞は古今の映画タイトルに溢れていた。その中でも「甘い生活」はよく憶えている。
1960年イタリア映画 監督フェデリコ・フェリーニ
ネタバレあり
パオロ・ソレンティーニ監督「グレート・ビューティー/追憶のローマ」はフェデリコ・フェリーニのこの傑作を現代に作り直すという意図が明確に感じられて非常に興味深かった。かの作品に限らず、本作から引用または本作に言及する作品は少なくないので、早めに再鑑賞してブログに掲載しようと思いつつ、174分という長尺につきなかなか実行できないでいた。
さて、40何年か前中学生(若しくは高校生)の時初めて本作を観た。確か土曜日昼の、前編・後編で2回に分けての放映だった。勿論、人生経験も映画鑑賞歴も限られた十代半ばで理解できる程生易しい作品ではなく、最後のえいの場面だけが記憶と印象に残った。数年後大学生の時フィルムセンターで本作と再び対峙し、依然解らない部分も多かったものの、かなりピンと来たのだった。
フェリーニとしてはネオ・レアリズモのタッチが残る前期最後の作品にして、「8・1/2」(1963年)に始まる個人史的なファンタジー作品群への予感も覚えさせる過渡期の作品と、僕は思っている。
以下、暫しストーリー略述にお付き合いのほどを。
目指した作家になり切れずゴシップ記者に甘んじているマルチェッロ・マストロヤンニは、古風な愛情で彼を束縛したがっている婚約者イヴォンヌ・フルノーを愛しながら、富豪令嬢アヌーク・エメと戯れ、アメリカの映画女優アニタ・エクバーグにつき合い、ローマ郊外の聖母マリア騒動に繰り出す、といった“甘い生活”を続けている。
彼自身はそんな生活を変えたいと思うが、目標としてきた友人アラン・キュニーが子供と心中したことで切れた凧のようになって、知人女性の婚約解消祝いの乱痴気騒ぎを起こし、騒ぎにも飽きた朝まだき、近くの海岸で悪臭を放つ死んだエイを見出す。
この悪臭を放つ魚は彼自身である。仲間の一人は「生きている」と言い、もう一人は「死んで三日は経つ」と言う。実際には腐臭であろうが、彼若しくは彼らは生きたまま悪臭を放つのである。多分、それが、フェリーニが考える、神を恐れず虚無に埋没する現代人の実像なのである。
かかる象徴性は色々あるが、その場面に続く渚での無垢な少女(彼が作品を書こうとした店のウェイトレス)とのやりとりもそうであろう。懸命に何かを言っている彼女の声は波の音で全く聞こえず、海水に隔てられ近づこうにも近づけない。多分主人公が作家を目指していた若い頃の健全な、それどころか倦怠に苛まれていてもそれに抗っていた直前の態度にすら戻れないことを意味していると思う。
開巻直後のヘリコプターによるキリスト像運搬、中盤の聖母マリア騒動など、宗教に関する諧謔、皮肉な視点もフェリーニらしい。これらと主人公の関連で解るのは、主人公が無神論者を気取りながらキュニーに連れられて入った教会で見出す希望も、キュニーの死により一抹の泡と消える、ということ。本作は現代人の悲劇である。
大学時代この作品に感銘したのは、入学一年目に挫折して半年間学校に行かず怠惰を決め込んでいた自分と重なるように見えたから。完全に理解できないまでも、「凄い映画だな」とインパクトを受けたのだった。俄然頑張る気になり、二年目からは専攻に関しては克己した。残念ながら、卒論テーマが見つからず、代替えの単位取得の為(わが大学は卒論は必須ではなく、単位による代替えが利いた)もう1年留年して親に迷惑を掛けた、という後日談がある(笑)。
高校時代からの友人K君は淀川長治先生主催「東京映画友の会」の会計をやっていたので、かの会から結婚式に届けられた祝辞は古今の映画タイトルに溢れていた。その中でも「甘い生活」はよく憶えている。
この記事へのコメント
監督ゴージャス、役者ゴージャス、観る者は
ただ映像の中にゆったり漂っていればいい。
映画ファンとしては何と幸せなことでしょう。
その「グレート・ビューティー〜」、
今度ちゃんと観なくちゃね^^
僕はたまたま自分の態度に少し重なるところを見出して感銘したわけですが、フェリーニは本来そういう面で評価するタイプではないですよね。
リアリズム時代から奔流の如く溢れていたイマジネーションを楽しむ。平均値は低くても才人は図抜けていたイタリア映画界の中でも稀有な才能でしたよね。80年代に入って批評家が若返って、作品のレベルは依然高かったのに余り評価されなくなったのが残念でした。
>グレート・ビューティー〜」
要素をひっくり返しているところもありますが、「フェリーニのローマ」の要素も多分にまじえて、なかなか興味深い作品でしたよ。
北朝鮮のどなたかみたいにあそこまでの腐臭は放ちたくないですがね。
北朝鮮の将軍様を褒め称える文言を聞いていると、「万葉集」の天皇(すめらみこと)に向けた長歌にそっくり。
まあ、当時の皇族は似たようなものだったろうなどと言うと、保守の人に怒られそうですが、少なくとも北朝鮮が日本より1300年くらい遅れていると感じますよ。
30年ぶりに観ましたが、やっぱりわかりにくい名作ですよね(笑)。
でも、マストロヤンニが、一挿話ずつ少しずつ腐りに埋没していく様子が分かるようになったような気がします。
セレブの人妻の割り切りと美しい女優のアンビバレント(性と無垢、周囲の無理解)などを感じることから始まって、お父さんの発作と突然の帰郷、敬愛していた友人アラン・キュニーの死に方、たくさんのショックに少しずつ慣れていっているのかな?
彼の大切なものが少しずつ無くなっていく様子を映しているのかな?と思ったんですが、どうでしょう?
ラスト・シーン、マストロヤンニは、あの無垢な少女にでさえ、もう期待したくなくなったんじゃないでしょうか?
>開巻直後のヘリコプターによるキリスト像運搬、中盤の聖母マリア騒動など、宗教に関する諧謔、皮肉な視点
とのオカピーさんの解説で、この作品の土台にある価値観「神様も意味がない現代」から始まっているアンチストーリーなのかな?と思いました。
ブルジョアの立場でブルジョアの危機を描いているから、わかりにくいんでしょうね。
全編においてブルジョアの「どん底」ですよ。きっと、フェリーニもゴーリキーを原作にして創ったんじゃないですか(笑)。
わたしの結論なんですが、一生懸命、世のため人のため、自分のために働けば腐らないで済むんじゃないでしょうか(笑)?
では、また。
>マストロヤンニは、あの無垢な少女にでさえ、
>もう期待したくなくなったんじゃないでしょうか?
僕は、腐った自身と、そうでない少女の距離感だと思います。だから、映画言語的な解釈では、声を妨害するのは波の音ではなく、距離のように思います。
>ブルジョアの立場でブルジョアの危機を描いているから、
>わかりにくいんでしょうね。
そう思います。
しかし、プロレタリアの立場でブルジョワの危機を描くのも意味を成さないような気がします。プロレタリア作家たちは、ブルジョワを何とかせんと、爪を研いでいるわけですからね(笑)。
>一生懸命、世のため人のため、自分のために働けば
>腐らないで済むんじゃないでしょうか(笑)?
僕は個人主義ですから、利他主義を大いに歓迎します。人間には本来、他人の為に何とかしようとすると自分まで幸福感を得ることができるようになっているらしい。一挙両得です^^v