映画評「おみおくりの作法」
☆☆☆☆(8点/10点満点中)
2013年イギリス=イタリア合作映画 監督ウベルト・パゾリーニ
ネタバレあり
邦画「おくりびと」を僕は大衆映画として評価した。日本の、特に昨今の大衆映画はえてして通俗に落ちて感心しないことが多いが、うまく出来た大衆映画については芸術性を目指して高い芸術度を達成した作品よりも僕は好感を覚える。そういう映画の一本だった。
邦題が同作を意識している本作は、多分に大衆映画ではない。芸術性ありきでもない代わりに、より多くの大衆を楽しませようというスタンスでは作っていない。いずれにしても、扱う職業は比較的似ていても、扱う主題は違う。
英国、孤独死を迎えた人の身辺を整理して、出来れば家族や関係者を探し当てて葬儀を行うのを仕事としている公務員(民生係)のエディ・マーサンは、ある時、自分の部屋の前のアパートに住む元軍人の老人が一人で死んだことにショックを受ける。こんなに近くなのに気づかなかったのかと。
遺品を調べるうちで出てきた彼の娘の写真に興味を覚え、いつも以上にのめり込んで案件を処理する気になる。何とか探し当てた彼の元内妻カレン・ドルーリーは「葬儀には参列できない」と言う。彼女は写真の娘の母親ではないが、彼の娘を生んでいる。ホームレスに聞いて元軍人の同僚や部下とも連絡が取れる。
そして彼が密かに会いたいと願っていた娘ジョアンヌ・フロガットともドッグセンターで会える。優しい彼女ではあるが、確執があって葬儀参列は拒否される。しかし、後日連絡があって翻意を告げられる。しかも孤独な彼にとって信じがたいことに、若く美しい彼女から食事に誘われるという大事件も伴う。嬉しさ余ってデート用のコーヒーカップを買った彼は、しかし、バスに轢かれて死んでしまう。
彼の葬儀は、皮肉にも、彼の最後の努力が実り娘ジョアンヌを始め少なからず関係者の集まった葬儀の横で、誰一人にも見送られずに行われる。娘は父の葬儀にマーサンの姿が見当たらないことを不審に思うが、気づかないまま墓地を去っていく。しかし、墓地から誰もいなくなった後、彼の墓石の周辺に彼が世話した人々の霊が集まって来る。
この映画に主観ショットは殆どない。客観ショット即ち神の視線で成り立っている。しかし、最後のショットは、神の主観ショットである。霊を見るのは我々にはファンタジーであるが、神には実際の風景である。
僕はそんなことを思って、目頭を熱くしつつ、この幕切れを観ていた。孤独の彼が死んで知己に恵まれた。多分彼の上司は死んだ後孤独であろう。良かったねえ、という思いで観ていたのだ。
同時に、その経緯で浮かび上がるのが孤独死を迎える人々が英国で少なくない事実。全ての先進国が迎えている現実だ。一人で死んでいく人が尽く孤独を感じるわけではないし、それで良いと言う人も多いだろうが、社会を明るくする為にはやはりこうした事例が少ないに越したことはない。
映画の作り方は小津安二郎に近い。特に、それが感じられるのが、同じアングルでのちょっとした差異である。教会の棺の右手前に神父、左奥にマーサンがいる開巻直後のショットに対し、終幕の同じアングルのショットではマーサンだけがいない。或いは、買った墓地で横たわるショットと、道路で横たわるショットの対比。両者とも彼の魂のいるショットといないショットの対比となっている。誠に小津的な画面構成である。
ショットを切り替えた時に違う人物が画面の同じ位置にいるのも印象に残る。映画をショットで観る人には、イマジナリー・ラインの観点から言って、これはかなり特殊なのだ。助詞「を」が来ると思ったら「が」が来る感じである(実際には本作の場合それを強く感じさせていない)。
「おくりびと」ほど大衆的ではないので世評はどうかと思ったが、日本でもなかなか好評らしい。
監督はウベルト・パゾリーニ。
主人公が空を見上げることが多いのは死への意識、多分に死への渇望によるものだろう。キリスト教徒にとって死後の世界も生きている今と直線的に繋がっている。だから輪廻転生を否定する。
2013年イギリス=イタリア合作映画 監督ウベルト・パゾリーニ
ネタバレあり
邦画「おくりびと」を僕は大衆映画として評価した。日本の、特に昨今の大衆映画はえてして通俗に落ちて感心しないことが多いが、うまく出来た大衆映画については芸術性を目指して高い芸術度を達成した作品よりも僕は好感を覚える。そういう映画の一本だった。
邦題が同作を意識している本作は、多分に大衆映画ではない。芸術性ありきでもない代わりに、より多くの大衆を楽しませようというスタンスでは作っていない。いずれにしても、扱う職業は比較的似ていても、扱う主題は違う。
英国、孤独死を迎えた人の身辺を整理して、出来れば家族や関係者を探し当てて葬儀を行うのを仕事としている公務員(民生係)のエディ・マーサンは、ある時、自分の部屋の前のアパートに住む元軍人の老人が一人で死んだことにショックを受ける。こんなに近くなのに気づかなかったのかと。
遺品を調べるうちで出てきた彼の娘の写真に興味を覚え、いつも以上にのめり込んで案件を処理する気になる。何とか探し当てた彼の元内妻カレン・ドルーリーは「葬儀には参列できない」と言う。彼女は写真の娘の母親ではないが、彼の娘を生んでいる。ホームレスに聞いて元軍人の同僚や部下とも連絡が取れる。
そして彼が密かに会いたいと願っていた娘ジョアンヌ・フロガットともドッグセンターで会える。優しい彼女ではあるが、確執があって葬儀参列は拒否される。しかし、後日連絡があって翻意を告げられる。しかも孤独な彼にとって信じがたいことに、若く美しい彼女から食事に誘われるという大事件も伴う。嬉しさ余ってデート用のコーヒーカップを買った彼は、しかし、バスに轢かれて死んでしまう。
彼の葬儀は、皮肉にも、彼の最後の努力が実り娘ジョアンヌを始め少なからず関係者の集まった葬儀の横で、誰一人にも見送られずに行われる。娘は父の葬儀にマーサンの姿が見当たらないことを不審に思うが、気づかないまま墓地を去っていく。しかし、墓地から誰もいなくなった後、彼の墓石の周辺に彼が世話した人々の霊が集まって来る。
この映画に主観ショットは殆どない。客観ショット即ち神の視線で成り立っている。しかし、最後のショットは、神の主観ショットである。霊を見るのは我々にはファンタジーであるが、神には実際の風景である。
僕はそんなことを思って、目頭を熱くしつつ、この幕切れを観ていた。孤独の彼が死んで知己に恵まれた。多分彼の上司は死んだ後孤独であろう。良かったねえ、という思いで観ていたのだ。
同時に、その経緯で浮かび上がるのが孤独死を迎える人々が英国で少なくない事実。全ての先進国が迎えている現実だ。一人で死んでいく人が尽く孤独を感じるわけではないし、それで良いと言う人も多いだろうが、社会を明るくする為にはやはりこうした事例が少ないに越したことはない。
映画の作り方は小津安二郎に近い。特に、それが感じられるのが、同じアングルでのちょっとした差異である。教会の棺の右手前に神父、左奥にマーサンがいる開巻直後のショットに対し、終幕の同じアングルのショットではマーサンだけがいない。或いは、買った墓地で横たわるショットと、道路で横たわるショットの対比。両者とも彼の魂のいるショットといないショットの対比となっている。誠に小津的な画面構成である。
ショットを切り替えた時に違う人物が画面の同じ位置にいるのも印象に残る。映画をショットで観る人には、イマジナリー・ラインの観点から言って、これはかなり特殊なのだ。助詞「を」が来ると思ったら「が」が来る感じである(実際には本作の場合それを強く感じさせていない)。
「おくりびと」ほど大衆的ではないので世評はどうかと思ったが、日本でもなかなか好評らしい。
監督はウベルト・パゾリーニ。
主人公が空を見上げることが多いのは死への意識、多分に死への渇望によるものだろう。キリスト教徒にとって死後の世界も生きている今と直線的に繋がっている。だから輪廻転生を否定する。
この記事へのコメント
イタリア人の感性というか感覚に日本人と似たところがあるのかな。
>イタリア人
特に1950年代の庶民的なモノクロ映画群には、そのまま日本人が演じても全く通ってしまいそうな作品が多かったですねえ。
頭のどこかに、先祖のローマ人が持っていた一神教的な考えが刷り込まれているのかなあ。