映画評「凶悪」
☆☆☆(6点/10点満点中)
2013年日本映画 監督・白石和彌
ネタバレあり
世に言う「上申書殺人事件」の映画化。2005年に明らかになった事件(事件自体は1999~2000年に発生)である。
【明潮24】という月刊雑誌の記者・山田孝之が、最高裁での審議を待つ死刑囚ピエール瀧から、事実上の主犯でありながらのうのうと生きている不動産ブローカー、リリー・フランキーに復讐したいと、彼が指導した三つの事件を告白される。
一つは金銭トラブルを抱えた老人の焼却炉での殺人、一つは土地所有者の老人の生き埋め、もう一つは保険金目当てのウォッカ殺人である。
このうち老人の身元が特定できるウォッカ殺人事件だけが最終的に立件され、ブローカーの逮捕に結びつくのであるが、それまでは認知症の母・吉村実子を糟糠の妻・池脇千鶴に任せきりの山田記者の悪戦苦闘ぶりを描く。編集長に「記事にはできない」と却下されたにも拘わらず取り憑かれたように調査を続け、その結果編集長を翻意させ、最初は軽くあしらおうとした警察を動かすわけである。
本作は実話を基にしたフィクション化と謳っているが、そういう映画に限って「実話である」と謳っている作品より余程実際に近かったりする。
本作において明らかにフィクションと解るのは記者の家庭の描写。本作の原案となったノンフィクションを構成した雑誌【新潮45】の一記者の私生活がその中で紹介される理由がない。
それにしても日本は他人に気を遣う文化であることよ。アメリカ映画であれば、【新潮45】も犯人たちも全て実名で出すであろうに。それが出来ないことが、多分に、日本の実話ものがアメリカのそれに迫力において及ばないと感じることが多い所以である。
バイオレンスがもたらす後味の悪さについても、十数年観てきた韓国のそれより、砂を噛むようなざらつき感が薄い。薄味の後味の悪さ・・・何のことかよく解りませんが(笑)。それでも実話故の得も言われぬ不愉快さは十二分にある。しかるに、インパクトがその潜在性ほど発揮できていない感じがするのである。“先生”と呼ばれる不動産ブローカーが山田記者に彼の死刑願望(≒殺人欲望)を指摘する幕切れに恰好をつけすぎている印象があるからかもしれない。
映画的には、山田記者が最後の事件が起きた家を覗いているうちにカメラが内部に入ることで時間が遡及して事件が再現され、これが暫し続いた後、やがてカメラを構える記者がブローカーを撮るところで現在に戻る、という部分が断トツに優れている。新人・白石和彌監督の感覚が光った部分だ。
山田記者が認知症の母を抱え、健気な細君が限界に近づく様子を加えた脚本の工夫も見逃せない。この家庭の場面が調査部分の緊張感を途切れさせるという批判もあるが、僕はまるで逆の意見である。それ自体は必ずしも間違いとは言えないものの、健気な人妻が「(お義母さんが)死んでほしいと思うこともある」と言うように次第に追い詰められ狂気に近づく描写を入れることで、特に最後の家族の殺害依頼がこの超高齢化社会においてはそれほど特殊でないことを示し、事件の普遍性即ち作品の社会性を打ち出すのである。高齢化社会が生み出す介護の問題にピントが合うのである。
ピエール瀧(扮する人物)も、リリー・フランキー(扮する人物)も、殺人狂には違いないが、狂気のタイプが違うような気がする。前者は悪どいことを繰り返すうちに道徳観が鈍磨したタイプ、後者は生まれついての性格異常者、なのではあるまいか。個人的には後者が断然怖い。そして、二人ともそんな悪党を演じて誠に好調。
身の毛もよだつ尼崎の事件。短い再現ドラマにはなったが、誰か本格的に映画化しないだろうか。フィクションの恐怖映画など目ではないですぞ。
2013年日本映画 監督・白石和彌
ネタバレあり
世に言う「上申書殺人事件」の映画化。2005年に明らかになった事件(事件自体は1999~2000年に発生)である。
【明潮24】という月刊雑誌の記者・山田孝之が、最高裁での審議を待つ死刑囚ピエール瀧から、事実上の主犯でありながらのうのうと生きている不動産ブローカー、リリー・フランキーに復讐したいと、彼が指導した三つの事件を告白される。
一つは金銭トラブルを抱えた老人の焼却炉での殺人、一つは土地所有者の老人の生き埋め、もう一つは保険金目当てのウォッカ殺人である。
このうち老人の身元が特定できるウォッカ殺人事件だけが最終的に立件され、ブローカーの逮捕に結びつくのであるが、それまでは認知症の母・吉村実子を糟糠の妻・池脇千鶴に任せきりの山田記者の悪戦苦闘ぶりを描く。編集長に「記事にはできない」と却下されたにも拘わらず取り憑かれたように調査を続け、その結果編集長を翻意させ、最初は軽くあしらおうとした警察を動かすわけである。
本作は実話を基にしたフィクション化と謳っているが、そういう映画に限って「実話である」と謳っている作品より余程実際に近かったりする。
本作において明らかにフィクションと解るのは記者の家庭の描写。本作の原案となったノンフィクションを構成した雑誌【新潮45】の一記者の私生活がその中で紹介される理由がない。
それにしても日本は他人に気を遣う文化であることよ。アメリカ映画であれば、【新潮45】も犯人たちも全て実名で出すであろうに。それが出来ないことが、多分に、日本の実話ものがアメリカのそれに迫力において及ばないと感じることが多い所以である。
バイオレンスがもたらす後味の悪さについても、十数年観てきた韓国のそれより、砂を噛むようなざらつき感が薄い。薄味の後味の悪さ・・・何のことかよく解りませんが(笑)。それでも実話故の得も言われぬ不愉快さは十二分にある。しかるに、インパクトがその潜在性ほど発揮できていない感じがするのである。“先生”と呼ばれる不動産ブローカーが山田記者に彼の死刑願望(≒殺人欲望)を指摘する幕切れに恰好をつけすぎている印象があるからかもしれない。
映画的には、山田記者が最後の事件が起きた家を覗いているうちにカメラが内部に入ることで時間が遡及して事件が再現され、これが暫し続いた後、やがてカメラを構える記者がブローカーを撮るところで現在に戻る、という部分が断トツに優れている。新人・白石和彌監督の感覚が光った部分だ。
山田記者が認知症の母を抱え、健気な細君が限界に近づく様子を加えた脚本の工夫も見逃せない。この家庭の場面が調査部分の緊張感を途切れさせるという批判もあるが、僕はまるで逆の意見である。それ自体は必ずしも間違いとは言えないものの、健気な人妻が「(お義母さんが)死んでほしいと思うこともある」と言うように次第に追い詰められ狂気に近づく描写を入れることで、特に最後の家族の殺害依頼がこの超高齢化社会においてはそれほど特殊でないことを示し、事件の普遍性即ち作品の社会性を打ち出すのである。高齢化社会が生み出す介護の問題にピントが合うのである。
ピエール瀧(扮する人物)も、リリー・フランキー(扮する人物)も、殺人狂には違いないが、狂気のタイプが違うような気がする。前者は悪どいことを繰り返すうちに道徳観が鈍磨したタイプ、後者は生まれついての性格異常者、なのではあるまいか。個人的には後者が断然怖い。そして、二人ともそんな悪党を演じて誠に好調。
身の毛もよだつ尼崎の事件。短い再現ドラマにはなったが、誰か本格的に映画化しないだろうか。フィクションの恐怖映画など目ではないですぞ。
この記事へのコメント
アメリカでは9・11の時の唯一成功しなかったユナイテッド航空のドキュメンタリー映画が作られましたけどね。
日本ではオウム事件があるのに誰も映画を作ってませんからね。
顰蹙をかっても作ろうという気概のある人間がいないと町山さんも言ってました。(*_*)
>ユナイテッド航空
もう数年も経っていたのに「被害者のことを考えない人非人」などと作者や褒めていた批判していた狭量な方もいました。
桑田佳祐が「TSUNAMI」を歌いたいと言ったことに対し、同じことを言った人も知っています。
バカじゃなかろうかと思いますね。恐らく桑田の真意は「そういう時代が早く来ると良い」ということだったでしょうに。そうでなくても、自分の歌を歌いたいと思うのは人情でしょう。僕に言わせれば、そんなことを言う人の方が人非人ですよ。
>オウム事件
加害者を追ったドキュメンタリーはありましたけど、劇映画としては無理だろうなあ。
被害者どころから、加害者のことも考えすぎてしまう。
>町山さん
正しいです(笑)
日本では、歌舞伎の忠臣蔵も実名ではない形で芝居にしているので、劇にしてしまうとどうしても事実そのままではなくなりますから、そのあたりはちょっと間を置く流儀になるのかもしれないし、それはそれでわるくないと思ったりします。映画観て実話が基だとそのまんまに受け取る人も多いのでね。
>歌舞伎の忠臣蔵も実名ではない形で芝居にしている
同じ事を僕の会社の先輩が仰っていましたよ。
しかし、あれは結果的に幕府批判に繋がり、作者がお縄にならない為ですよね。
現在のそれとは違いますが、ただそれが伝統になった可能性は否定できません。
日本でも映画監督が強気になった時代があり、「真昼の暗黒」「松山事件」といった映画が、まだ罪が確定していない事件を実名で扱っていました。
あるいは「小説 吉田学校」では政治家等が実名で出てきました。
それからむしろ日本映画は弱気になりました。
ドキュメンタリーを別にして、日本映画では政治家が実名が出て来ることはないと思います。
>映画観て実話が基だとそのまんまに受け取る人も多いのでね。
それが問題でしてね。
観客のリテラシーを高めないといけないわけです。しかるに、僕の印象では、国民の平均ではアメリカ人より日本人のリテラシーのほうが高い気がするのですがね。
「松山事件」ではなく「松川事件」でした。
どちらも冤罪事件で、非常に紛らわしいです。