映画評「さや侍」
☆☆(4点/10点満点中)
2011年日本映画 監督・松本人志
ネタバレあり
2012年に松本人志第2作「しんぼる」と共にWOWOWで放映された時に録画したまま3年以上放置しておりました。「しんぼる」で完全に肌に合わないと思ったからかもしれない。
一応お話から述べていきましょう。
江戸時代、妻の病死により無気力になって脱藩した侍(能見隆明)が、ある藩で捕えられ、母親の死以来笑わなくなった若君(清水柊馬)を芸事で笑わせることができれば無罪放免、さもなくば死罪という“三十日の業”を課される。一日一芸、三十回の機会がある。
という次第で繰り広げられるのが、自身がTVでやっているらしいバラエティー番組(彼の番組はまたもに観たことが一度もない)の一発芸のオンパレードで、これを映画という媒体、しかも時代劇というオーソドックスな枠のうちに見せたいというのが作家としての野心であったのだろう。
それだけではさすがにお話が成立しないので、父親の無気力を強い言葉で叱咤激励する健気な娘(熊田聖亜)が父親の芸に打ち込む姿に父親が紛れもない侍であることに気付き、或いは見張り番の二人(板尾創路、柄本時生)がほだされて一緒に知恵を絞り、その心意気がやがて町人を共感の渦に巻き込んでいく、という人情劇を構成する作戦に出る。それが一応奏功して「前の二作より解りやすい」という世評を得ている模様。
松本人志という作家としてのスタイルは映画の中で異化効果を見せることにある。大体のところはメタフィクションという言葉で説明がつく異化効果であるが、本作の場合は自身のコント番組を時代劇の中で再現するという楽屋落ちにより構成されている。楽屋落ちもメタフィクションと言うことができると思うから、本作もまたやはりメタフィクションによる異化効果に立脚する作品と言って概ね間違いないだろう。
全体として、実験性という意味では前二作に及ばないものの、その代わり一般的な映画として観客に投げかけるものはより強い。ただ、一発芸を時代劇で次々と見せる、という野心(というより匠気か?)にバカバカしさを禁じ得ず、余り褒める気になれない。
舞台を昔にしたからと言って必ずしも時代劇となるわけではない。
2011年日本映画 監督・松本人志
ネタバレあり
2012年に松本人志第2作「しんぼる」と共にWOWOWで放映された時に録画したまま3年以上放置しておりました。「しんぼる」で完全に肌に合わないと思ったからかもしれない。
一応お話から述べていきましょう。
江戸時代、妻の病死により無気力になって脱藩した侍(能見隆明)が、ある藩で捕えられ、母親の死以来笑わなくなった若君(清水柊馬)を芸事で笑わせることができれば無罪放免、さもなくば死罪という“三十日の業”を課される。一日一芸、三十回の機会がある。
という次第で繰り広げられるのが、自身がTVでやっているらしいバラエティー番組(彼の番組はまたもに観たことが一度もない)の一発芸のオンパレードで、これを映画という媒体、しかも時代劇というオーソドックスな枠のうちに見せたいというのが作家としての野心であったのだろう。
それだけではさすがにお話が成立しないので、父親の無気力を強い言葉で叱咤激励する健気な娘(熊田聖亜)が父親の芸に打ち込む姿に父親が紛れもない侍であることに気付き、或いは見張り番の二人(板尾創路、柄本時生)がほだされて一緒に知恵を絞り、その心意気がやがて町人を共感の渦に巻き込んでいく、という人情劇を構成する作戦に出る。それが一応奏功して「前の二作より解りやすい」という世評を得ている模様。
松本人志という作家としてのスタイルは映画の中で異化効果を見せることにある。大体のところはメタフィクションという言葉で説明がつく異化効果であるが、本作の場合は自身のコント番組を時代劇の中で再現するという楽屋落ちにより構成されている。楽屋落ちもメタフィクションと言うことができると思うから、本作もまたやはりメタフィクションによる異化効果に立脚する作品と言って概ね間違いないだろう。
全体として、実験性という意味では前二作に及ばないものの、その代わり一般的な映画として観客に投げかけるものはより強い。ただ、一発芸を時代劇で次々と見せる、という野心(というより匠気か?)にバカバカしさを禁じ得ず、余り褒める気になれない。
舞台を昔にしたからと言って必ずしも時代劇となるわけではない。
この記事へのコメント
本職はバーテンダーだそうであります。
金が余ったからといって安易に映画などを作らんでほしいでありますね。
それでは、映画の中と実際が同じだったわけですね。
正に異化効果そのものだなあ。
>安易に映画など
よく映画を知っている方でも、門外漢は作らない方が良いと言うのが僕の立場。
ファッション・デザイナーまで映画を作った時代がありましたね。