映画評「映画 ビリギャル」
☆☆☆(6点/10点満点中)
2015年日本映画 監督・土井裕泰
ネタバレあり
坪田信貴という小さな塾の塾長が書いた長いタイトルのノンフィクションは知っていた。慶応大学に合格するために偏差値を30から70に上げるという話だ。
大学を受験したりお子様が大学を受験した方ならお解りでありましょうが、同じ総合偏差値70前後でも私立の早大・慶大と国立の東大・京大・一橋大とでは意味が違う。東大は大昔からずっと五科目、二つ弱い科目があったら致命的で、そこが私大と全然違うのだ。苦手科目のある人にとって上の三国立大学はかなり難しい。
二科目・三科目でも偏差値70というのは簡単に出せる数字でないことは確かで、それ以上に偏差値30というのが凄い。偏差値40ならある程度点を取らないと出ないが、偏差値30なら多分全教科ほぼ0点でも出る数字ではないだろうか?
さて、映画のほう。
エスカレーター式に高校・大学に進める私立中学に入ったさやか(有村架純)は、やっと出来た友達の影響で勉強を全くせずに過ごすうちに学年最下位の学力となる。高2の時喫煙の非行の疑いでエスカレータ式の進学が難しくなった為、母親(吉田羊)が勤めを掛け持ちして小さな塾に通わせてくれる。やる気を起こさせるのが上手い講師・坪田(伊藤淳史)に乗せられ、かくして、偏差値70が必要な慶応文学部と総合政策学部(僕らの頃はなかったぞ)合格を目指す。
というのが物語の骨子で、彼女のやる気を引き出すのは坪田講師(実際は塾長)だが、それを強めるのは自身の夢を息子に託し娘を鼻から馬鹿にする父親(田中哲司)や、人の希望を打ち砕く言動しかしない学級担任(安田顕)への反骨精神である。彼らをぎゃふんと言わせたいだけなのである。こうなった時、人は存外強い。
孤独ではあるがなかなか利発そうな小学生時代と比べて、高校時代の彼女の常識のなさは恐るべしで、「聖徳太子」を「せいとくたこ」と呼んで太っているので“たこ”と呼ばれている可哀想な女の子を想像したり、北と南も知らなかったり(姉贔屓の妹にすら馬鹿にされる)と、笑わせてくれる。
息子に自分の希望を託す父親や掛け持ちで働く母親との関係などは構図的に平凡で、それが彼女の頑張りに繋がっていくのもスポ根もののヴァリエーションに過ぎないが、夫々の心情に僕はぐっと来るものがありましたよ。
批判ばかりしてきた土井裕泰監督の作品でこういう経験は初めてなので、映画としては凡々たるものでも★一つくらい余分に進呈する気にさせられた。
家と塾での勉強の為に学校で居眠りすることへの批判を読んだが、実際には、塾と学校の関係を皮肉っているようで面白く見られる。少なくとも生徒の足を引っ張るような先生が教える学校においては十分「あり」であろう。
受験はしなかったが、本作の母子のように、映画友達K君が受験するので付き合って慶応大学の三田キャンパスを見学しに行ったことはある。結局彼は一橋に進学したが、ワイフは慶応出身だ。
2015年日本映画 監督・土井裕泰
ネタバレあり
坪田信貴という小さな塾の塾長が書いた長いタイトルのノンフィクションは知っていた。慶応大学に合格するために偏差値を30から70に上げるという話だ。
大学を受験したりお子様が大学を受験した方ならお解りでありましょうが、同じ総合偏差値70前後でも私立の早大・慶大と国立の東大・京大・一橋大とでは意味が違う。東大は大昔からずっと五科目、二つ弱い科目があったら致命的で、そこが私大と全然違うのだ。苦手科目のある人にとって上の三国立大学はかなり難しい。
二科目・三科目でも偏差値70というのは簡単に出せる数字でないことは確かで、それ以上に偏差値30というのが凄い。偏差値40ならある程度点を取らないと出ないが、偏差値30なら多分全教科ほぼ0点でも出る数字ではないだろうか?
さて、映画のほう。
エスカレーター式に高校・大学に進める私立中学に入ったさやか(有村架純)は、やっと出来た友達の影響で勉強を全くせずに過ごすうちに学年最下位の学力となる。高2の時喫煙の非行の疑いでエスカレータ式の進学が難しくなった為、母親(吉田羊)が勤めを掛け持ちして小さな塾に通わせてくれる。やる気を起こさせるのが上手い講師・坪田(伊藤淳史)に乗せられ、かくして、偏差値70が必要な慶応文学部と総合政策学部(僕らの頃はなかったぞ)合格を目指す。
というのが物語の骨子で、彼女のやる気を引き出すのは坪田講師(実際は塾長)だが、それを強めるのは自身の夢を息子に託し娘を鼻から馬鹿にする父親(田中哲司)や、人の希望を打ち砕く言動しかしない学級担任(安田顕)への反骨精神である。彼らをぎゃふんと言わせたいだけなのである。こうなった時、人は存外強い。
孤独ではあるがなかなか利発そうな小学生時代と比べて、高校時代の彼女の常識のなさは恐るべしで、「聖徳太子」を「せいとくたこ」と呼んで太っているので“たこ”と呼ばれている可哀想な女の子を想像したり、北と南も知らなかったり(姉贔屓の妹にすら馬鹿にされる)と、笑わせてくれる。
息子に自分の希望を託す父親や掛け持ちで働く母親との関係などは構図的に平凡で、それが彼女の頑張りに繋がっていくのもスポ根もののヴァリエーションに過ぎないが、夫々の心情に僕はぐっと来るものがありましたよ。
批判ばかりしてきた土井裕泰監督の作品でこういう経験は初めてなので、映画としては凡々たるものでも★一つくらい余分に進呈する気にさせられた。
家と塾での勉強の為に学校で居眠りすることへの批判を読んだが、実際には、塾と学校の関係を皮肉っているようで面白く見られる。少なくとも生徒の足を引っ張るような先生が教える学校においては十分「あり」であろう。
受験はしなかったが、本作の母子のように、映画友達K君が受験するので付き合って慶応大学の三田キャンパスを見学しに行ったことはある。結局彼は一橋に進学したが、ワイフは慶応出身だ。
この記事へのコメント
賢さというのはある意味不幸でもあります。
母親が教師たちに言っていたように、元々は頭の良い子だったのでしょうね。
でなければ、1年半の勉強であそこまで行けるはずがない。
この作品、わたしは気に入っていて以前に用心棒さんにお薦めして記事をアップしてもらった経緯があります。公開時にも観にいきましたよ。
団塊世代の受験戦争、共通一次・センター入試の導入、ゆとり、脱ゆとり、これから大学入試改革でのセンター方式の見直し、と時代を経て、受験勉強や大学のブランドは見直されてきたし、今後も見直されていくように思いますが、いずれにしても、この関門をどうくぐるのかで、また、どう制度を整えるのかで、人の人生から国の在り方まで影響力を持つことはこれからも変わらないでしょうね。
単純に考えれば、若者が知性(力)を磨いていくことができるような受験制度になっていけばいいんですけれどねえ・・・?
>・・・夫々の心情に僕はぐっと来るものが・・・
わたしは、自分を諦めていた落ちこぼれの若者が、自分の可能性を信じることができるようになっていくテーマが、とても素敵だったと思いました。
多くの子どもたちが、そのことに気づけるようになると、良い国になると思うんですけれどね。慶応、早稲田でなくても、マーチでも教育大でも3流の地方国立(私立)でも・・・今の自分を脱皮できる努力ができる若者がもっと増えていけばなあ・・・。
「・・・真理が我らを自由にする・・・」((国立国会図書館法前文)中井正一)
では、また。
個人的なことを言えば、僕らは1970年代一番詰め込み教育をされていた時代に中学・高校生活を過ごしていたわけで、記憶力に自信のあった僕は寧ろそれを享受していました。
1990年代に「ゆとり教育」が騒がれた時に疑問を呈した方で、後年その反動で「脱ゆとり」となった時に「それ見たことか」と思わないでもなかったですが、「ゆとり教育」にもメリットはあったようで、本当は碌に検証もせずに朝令暮改的に進める文科省のスタンスのほうが問題ではないかと考えますね。上手く見直せれば、それがベストなわけですが、日本人は功を急ぎすぎる。
だから、政府の方針か、文科省の考えなのか知りませんが、大学文系の見直しなどという短絡的な意見が出てきて、今ですらビジネスマンの哲学・文学的教養が西洋人に比べて薄いのに、グローバリズムが益々広まっていく中、支障をきたすのではないかとも言われていますね。専門外なので何とも言えませんけど、映画の内面を理解できない人の溢れていることを考えれば、文学・哲学はもっと重視されても良いくらいと思います。
>知性
というのは結局考える総合力であって知識の集合体ではないでしょう。それには哲学・文学は大事と思うのですがねえ。
50を過ぎてカントやヘーゲルを読みましたけど、難しいながら考えることの面白さが詰まっているように思えましたよ。
今の大学生、哲学科以外の学生は読まないのでは?
>自分の可能性を信じる
どうも昨今日本の政権は、若者たちを型にはめようとしている気がします。型にはめられた若者たちが増えれば、政権は安泰ですが、長い目で見れば国力の衰退に繋がりかねないと、人類数千年の歴史に当たった時に、思うのですがねえ。
>碌に検証もせずに朝令暮改的に進める文科省のスタンス・・・
オカピーさんの疑問・批判を100%支持します(笑)。何のためにゆとり教育を導入したのか。あほかと思いますよ。そもそも、あいまい過ぎる「ゆとり教育」のシステムに対応するための制度設計に現場の教師もついて行けなかったと思いますし、何より子どもを成長させる制度だったのでしょうか?
>昨今日本の政権は、若者たちを型にはめようと・・・
これは、むかしからそうだったのでしょうけれど、国民も政権も近年だんだん資質・能力が劣化してきていますよね。人文科学の否定、人権の制限・・・、冗談にしかならないことが現実化しそうですけれど、わたしはここでも楽天的です。人類の進化はどうしたって止められるものではありませんから、これらは一時的なことだと思うのです。
>50を過ぎてカントやヘーゲル・・・
実はわたしも、昨年、カントの「永遠平和のために」、ルソーの「社会契約論」、フランクルの「夜と霧」、フロムの「自由からの逃走」など、読みました。
過去にここまで考えていた人がこんなにたくさんいることに気づき、今わたしが考えることは何もないと思っています(笑)。
はっきり言って、先人が考えてきたことによって、概ね人類は現代の種々の課題は乗りきれますよ。今更新しいイデオロギーなど最小限でいいのだと思います。現代に生きている幸福を享受しようではありませんか(笑)。
では、また。
>人類の進化は・・・これらは一時的なことだと思うのです。
同意です。
現在進化論を巡って論争中(笑)の“エホバの証人”の方(新聞の集金人なので毎月必ずやって来ます)が、以前「人類は(創造以来)悪くなっている」旨仰っていたので、「人類は【3歩進んで2歩戻る】を繰り返して確実に進歩していると反論したことがありますよ。
国際連盟と国際連合の違いを見ても明らかと思います。
>新しいイデオロギー
もう要らないと言ってもいいかもしれませんね。
我が家は生まれる前から(?)権力監視の傾向が強い東京新聞を読んでいるので、悲観的になってしまうのですが、国際的監視の強い現在ですから、戦前のレベルまで落ちることはあるまいと、最近は結構開き直っています。