映画評「市民ケーン」
☆☆☆☆☆(10点/10点満点中)
1941年アメリカ映画 監督オースン・ウェルズ
ネタバレあり
1973年の「スクリーン」誌で、早世した映画批評家・筈見有弘氏が数年前世界の評論家の投票の結果1位になった作品と紹介しているのを知って僅か数年後にTVで実物を観ることができた。多分NHKの【世界名画劇場】だっただろう。
ワクワクして観、優れた映画であることは解ったが、主人公のダイイング・メッセージ「バラの蕾」の表徴するものが何であるか当時の僕には解ったようでいながら何かもやもやが残る感じですっきりしなかったのを憶えている。
ということで、今回WOWOWのオースン・ウェルズ監督作品特集における放映を鑑賞。多分4回目である。
新聞王ハーストをモデルにしたとも言われる主人公の新聞王ケーン(ウェルズ)が死ぬ。ある新聞社がその一生をニュース映画にしようとするが面白くもなんともない。それでは彼が最後に吐いた言葉「バラの蕾」の意味を探ってみようと記者トンプスン(ウィリアム・アーランド)が派遣され、ケーンがオペラ歌手として育てようとした若い前妻スーザン(ドロシー・カミンゴア)、少年時代からの後見人である銀行家が残した資料、彼の子分バーンスティン、方針の違いから決別した新聞社の同志リーランド(ジョセフ・コットン)、再びスーザンそして遺産整理をしている執事を探訪するが、結局「バラの蕾」の正体は彼らには解らない。
というお話の構成、即ち謎解きの為の歴訪スタイルが(洒落みたいだが)後世に相当影響を与えたであろうことは、近年の邦画「永遠の0」など少なくないことからも分かる。かの作品の原作者・百田尚樹氏はこの映画を見て触発されたのではないかと思えるほど似ていて、そうでないにしてもこの作品の手法が間接的に伝わってきたことの証左ではないだろうか。
本作を映画監督デビュー作とする若きウェルズ(25歳)は、相似する画面を繋いで場面を転換するマッチ・カット(音声による一種のマッチ・カットにより、時を十数年飛ばす部分が印象的)や、オーヴァーラップを巧みに使って流麗にお話を綴っていく。
そのオーヴァーラップで最も印象に残る場面を紹介しておきたい。本作の映画技術史上最大の功績と言っても良いパン・フォーカス(画面の近距離・中距離・遠距離全てにピントが合う撮影)で、画面左前方でケーンがタイプを打っていると因縁のあるリーランドが右奥に現れる場面である。パン・フォーカスが最も効果的に使われた圧倒的な縦の構図にうっとりしている間もなく、タイプするケーンを右に置いて老衰で入院中の現在のリーランドを左に重ねるオーヴァーラップで場面を転換するのである。半世紀近く映画を観てきた中でも映画芸術的にここまで感銘させられたケースはそれほどない。
さて、物語の面では、やはり「バラの蕾」について考えなければならない。
記者が結局この言葉の謎を解き明かせないのでマクガフィンで終わるのかと思いきや、最後にはっきりする。晩年彼は一度この言葉を使っている、グラス・ボール(中で雪が降っているように見えるガラス玉)を持って。彼はずっと母親(アグネス・ムーアヘッド)と別れた雪の日に思いを馳せていたのである。それが確実に解るのが幕切れで焼かれてしまうソリで、その表面に大きく印刷されていたのが「バラの蕾(ローズバッド)」の文字。
一言で言えば、本作は「母を恋うる記」であった。息子を思うがゆえに母親に捨てられて人に愛を与えることを出来なくなった彼が、女性たちに母親の代理を求める形で一方的な愛情関係を強要、結局妻二人とは離別することになり、孤独の一生を送った悲劇的なお話と理解するのが妥当であるようである。
アグネス・ムーアヘッドはTV「奥さまは魔女」のお母さん。
1941年アメリカ映画 監督オースン・ウェルズ
ネタバレあり
1973年の「スクリーン」誌で、早世した映画批評家・筈見有弘氏が数年前世界の評論家の投票の結果1位になった作品と紹介しているのを知って僅か数年後にTVで実物を観ることができた。多分NHKの【世界名画劇場】だっただろう。
ワクワクして観、優れた映画であることは解ったが、主人公のダイイング・メッセージ「バラの蕾」の表徴するものが何であるか当時の僕には解ったようでいながら何かもやもやが残る感じですっきりしなかったのを憶えている。
ということで、今回WOWOWのオースン・ウェルズ監督作品特集における放映を鑑賞。多分4回目である。
新聞王ハーストをモデルにしたとも言われる主人公の新聞王ケーン(ウェルズ)が死ぬ。ある新聞社がその一生をニュース映画にしようとするが面白くもなんともない。それでは彼が最後に吐いた言葉「バラの蕾」の意味を探ってみようと記者トンプスン(ウィリアム・アーランド)が派遣され、ケーンがオペラ歌手として育てようとした若い前妻スーザン(ドロシー・カミンゴア)、少年時代からの後見人である銀行家が残した資料、彼の子分バーンスティン、方針の違いから決別した新聞社の同志リーランド(ジョセフ・コットン)、再びスーザンそして遺産整理をしている執事を探訪するが、結局「バラの蕾」の正体は彼らには解らない。
というお話の構成、即ち謎解きの為の歴訪スタイルが(洒落みたいだが)後世に相当影響を与えたであろうことは、近年の邦画「永遠の0」など少なくないことからも分かる。かの作品の原作者・百田尚樹氏はこの映画を見て触発されたのではないかと思えるほど似ていて、そうでないにしてもこの作品の手法が間接的に伝わってきたことの証左ではないだろうか。
本作を映画監督デビュー作とする若きウェルズ(25歳)は、相似する画面を繋いで場面を転換するマッチ・カット(音声による一種のマッチ・カットにより、時を十数年飛ばす部分が印象的)や、オーヴァーラップを巧みに使って流麗にお話を綴っていく。
そのオーヴァーラップで最も印象に残る場面を紹介しておきたい。本作の映画技術史上最大の功績と言っても良いパン・フォーカス(画面の近距離・中距離・遠距離全てにピントが合う撮影)で、画面左前方でケーンがタイプを打っていると因縁のあるリーランドが右奥に現れる場面である。パン・フォーカスが最も効果的に使われた圧倒的な縦の構図にうっとりしている間もなく、タイプするケーンを右に置いて老衰で入院中の現在のリーランドを左に重ねるオーヴァーラップで場面を転換するのである。半世紀近く映画を観てきた中でも映画芸術的にここまで感銘させられたケースはそれほどない。
さて、物語の面では、やはり「バラの蕾」について考えなければならない。
記者が結局この言葉の謎を解き明かせないのでマクガフィンで終わるのかと思いきや、最後にはっきりする。晩年彼は一度この言葉を使っている、グラス・ボール(中で雪が降っているように見えるガラス玉)を持って。彼はずっと母親(アグネス・ムーアヘッド)と別れた雪の日に思いを馳せていたのである。それが確実に解るのが幕切れで焼かれてしまうソリで、その表面に大きく印刷されていたのが「バラの蕾(ローズバッド)」の文字。
一言で言えば、本作は「母を恋うる記」であった。息子を思うがゆえに母親に捨てられて人に愛を与えることを出来なくなった彼が、女性たちに母親の代理を求める形で一方的な愛情関係を強要、結局妻二人とは離別することになり、孤独の一生を送った悲劇的なお話と理解するのが妥当であるようである。
アグネス・ムーアヘッドはTV「奥さまは魔女」のお母さん。
この記事へのコメント
この名作についてですが、小林信彦のエッセイで、小林が「?」となった点をポーリン・ケイル女史だけが指摘していた! と触れている、冒頭の「?」となり得る場面。老いた主人公が「バラの蕾」とつぶやいて、どさっと倒れる(ベッドから落ちたんでしたか)。その後、物音を聞きつけた人が寝室のドアを開けて入ってきて主人公が死んでいるのを見つける、という出だし、ここで、それじゃ主人公の最後の言葉「バラのつぼみ」は誰が聞いたんだ? という。小林もケイルも、観客は知っているからその後自然と物語は続いていくし、ミスはミスなんだけどこだわるのも野暮だろう、これも映画のマジックかなあ、としていて、粘着してつついたりはしていません。でも、まあ細かく見ている人もいるんだなあ、言われてみればそうだなあ、と感心した記憶があります。
友人と二人で観て溜め息物でした。
>観客は知っているから
そう言われれば、そうですね。案外盲点(笑)
サスペンスであれば問題(映画のウソ)でしょうが、この「(誰も知らなくても)観客は知っている」という考えは一般映画を考える時大事なことかもしれません。
いつか映画論の中で使いたいですね(笑)
痺れる映像でしたよね。
この後「ディス・イズ・オーソン・ウェルズ」という短編ドキュメンタリーを観て、ウェルズ先生をさらに勉強してみようと思っております。