映画評「殺しのドレス」
☆☆☆★(7点/10点満点中)
1980年アメリカ映画 監督ブライアン・デ・パルマ
ネタバレあり
ヒッチコッキアンを自称する映画作家は少なくないけれど、映画そのもので御大に最接近したのはブライアン・デ・パルマだろう。後年大作も任されるようになるが、僕はヒッチコックから本歌取りした初期の彼が好きである。日本での評価を決定的にしたという記憶のある本作は、大学時代映画館で見て以来35年ぶりの再鑑賞。
シャワーを浴びているアンジー・ディキンスンがエロ行為に耽っているところを何者かに襲われる。解釈上これは現実ではないのだが、彼女が夫に性的不満を覚えていることとその為に走った行為の結果を暗示している。以下その現実版。
精神科医マイケル・ケインのクリニックに通っている彼女が診察後、美術館で男探しみたいなことをし、昼下がりの情事にふけるが、その帰りのエレベーターで金髪の女性にナイフで殺されてしまう。
この殺し方を始め、主演と思われた有名女優を前半のうちに殺して映画から退場させたり(ヒッチコックが“燻製にしん”と称する手法)、恐いシャワー・シーンを見せたり、「サイコ」(1960年)を大いに真似し再構築している。“金髪の女性”が女装であることはすぐに解るが、暫くはケイン医師の患者であるとミスリードされることになる。
この事件を目撃してしまうのが若い娼婦ナンシー・アレン。彼女は犯人の“女”に追われる可哀想な被害者なのに刑事デニス・フランツから半ば容疑者として脅迫され、素人探偵の真似事を強要される。
そんな彼女に協力するのが母親アンジーを失って後悔しきりのキース・ゴードン君で、ナンシーはケインに診てもらうふりをして情報収集を企てる。それを少年がジェームズ・スチュワートよろしく双眼鏡で眺める、というのは「裏窓」(1954年)からの戴き。庭も「裏窓」っぽいが、ここで活躍するのは犬ではなく“金髪の女性”である。金髪のかつらは御大の遺作「ファミリー・プロット」(1976年)(黒髪カレン・ブラックが偽装に使用した)からの拝借なのかもしれない。
大旧作であり、この手のお話に慣れた現在の観客ならかなりの確率で予想が付くはずと思うが、大団円部分は伏せておくことにする。そして、それに続くファースト・シーンに対応するラスト・シーンは容易に想像がつく自作「キャリー」(1976年)幕切れの拡大版。デ・パルマの趣味を知らずとも現在の観客なら騙されまい。
ヒッチコックの技術の見せ方に比べるとデ・パルマは露骨であり、そこに限界もあった。ヒッチコックがホームランを連発するスラッガーであるならば、デ・パルマは外野手の間を抜ける鋭い当たりを打つ好打者という印象を受ける所以である。或いは、メジャーでは通用しないマイナーのスラッガーと言ってもいいかもしれない。
そうした表現の一例となりそうなのが、構成上あれほど長く見せる必要のない美術館のくだり。学生時代、この場面に酔わされて千鳥足で帰った(嘘です)くらいだが、画面が大分小さいTVではこの陶酔感を再体験するのはなかなか難しい。手袋を取って隣に座った男に指輪のはめられた手を見せるのは、性的快感を得たいが躊躇いもある彼女の複雑な心境を描いているのだろうか?
(この時代には一般的になっていなかった言葉だが)性同一性障害に多重人格が合体するとこうなる、というお話。
1980年アメリカ映画 監督ブライアン・デ・パルマ
ネタバレあり
ヒッチコッキアンを自称する映画作家は少なくないけれど、映画そのもので御大に最接近したのはブライアン・デ・パルマだろう。後年大作も任されるようになるが、僕はヒッチコックから本歌取りした初期の彼が好きである。日本での評価を決定的にしたという記憶のある本作は、大学時代映画館で見て以来35年ぶりの再鑑賞。
シャワーを浴びているアンジー・ディキンスンがエロ行為に耽っているところを何者かに襲われる。解釈上これは現実ではないのだが、彼女が夫に性的不満を覚えていることとその為に走った行為の結果を暗示している。以下その現実版。
精神科医マイケル・ケインのクリニックに通っている彼女が診察後、美術館で男探しみたいなことをし、昼下がりの情事にふけるが、その帰りのエレベーターで金髪の女性にナイフで殺されてしまう。
この殺し方を始め、主演と思われた有名女優を前半のうちに殺して映画から退場させたり(ヒッチコックが“燻製にしん”と称する手法)、恐いシャワー・シーンを見せたり、「サイコ」(1960年)を大いに真似し再構築している。“金髪の女性”が女装であることはすぐに解るが、暫くはケイン医師の患者であるとミスリードされることになる。
この事件を目撃してしまうのが若い娼婦ナンシー・アレン。彼女は犯人の“女”に追われる可哀想な被害者なのに刑事デニス・フランツから半ば容疑者として脅迫され、素人探偵の真似事を強要される。
そんな彼女に協力するのが母親アンジーを失って後悔しきりのキース・ゴードン君で、ナンシーはケインに診てもらうふりをして情報収集を企てる。それを少年がジェームズ・スチュワートよろしく双眼鏡で眺める、というのは「裏窓」(1954年)からの戴き。庭も「裏窓」っぽいが、ここで活躍するのは犬ではなく“金髪の女性”である。金髪のかつらは御大の遺作「ファミリー・プロット」(1976年)(黒髪カレン・ブラックが偽装に使用した)からの拝借なのかもしれない。
大旧作であり、この手のお話に慣れた現在の観客ならかなりの確率で予想が付くはずと思うが、大団円部分は伏せておくことにする。そして、それに続くファースト・シーンに対応するラスト・シーンは容易に想像がつく自作「キャリー」(1976年)幕切れの拡大版。デ・パルマの趣味を知らずとも現在の観客なら騙されまい。
ヒッチコックの技術の見せ方に比べるとデ・パルマは露骨であり、そこに限界もあった。ヒッチコックがホームランを連発するスラッガーであるならば、デ・パルマは外野手の間を抜ける鋭い当たりを打つ好打者という印象を受ける所以である。或いは、メジャーでは通用しないマイナーのスラッガーと言ってもいいかもしれない。
そうした表現の一例となりそうなのが、構成上あれほど長く見せる必要のない美術館のくだり。学生時代、この場面に酔わされて千鳥足で帰った(嘘です)くらいだが、画面が大分小さいTVではこの陶酔感を再体験するのはなかなか難しい。手袋を取って隣に座った男に指輪のはめられた手を見せるのは、性的快感を得たいが躊躇いもある彼女の複雑な心境を描いているのだろうか?
(この時代には一般的になっていなかった言葉だが)性同一性障害に多重人格が合体するとこうなる、というお話。
この記事へのコメント
ナンシー・アレンは好きでした、このころがピークだったんでしょうかね。その後あまり見なくなったような(私が知らないでいるだけなのか)
>地下鉄
関係のない不良黒人にもからまれて、やっと逃げきって地上に出たと思ったら、また金髪女(後で別人と分かる)。冴えていましたね。
>サテリコン
映画館で一度、TVで二回ほど見ていますが、どう類似するのか解らない。
オセーテ(笑)
>一瞬犯人が映る
はいっ、彼女がわざと落として反対側の手袋を拾います。
>一部オタク向けのマンガ
本当のグラマーではなく、コンパクト・グラマーといった感じ(笑)
>ナンシー・アレン
その後「ロボコップ」シリーズで頑張りましたが、その他の出演作は殆どお蔵入り(日本劇場未公開)ですね。
最後に観たのはジョージ・クルーニーが主演した「アウト・オブ・サイト」で、全くの端役でした。これも18年も前になります。現在66歳だそうです。
これは殺しの場面が怖いのであんまり見ませんが。
最近は「パッション」で初期のテイストを見せてくれて楽しかったです。オカピーさんは7点つけていましたね。
局部的なものになりますが、主人公男子二人が主がいなくなったお屋敷に入ると召使だったらしい黒人の女の子がいてちょっとおっかけっこみたいにして遊ぶ場面、壁に絵があって、おっかけるときに目に入ってくる、記憶の中でだから見返すとそれほど似てないかもしれませんね(笑)。
サテリコンは、主人公二人が美術館みたいな場所で絵を見ている場面もあって(これは劇中の人物がこの劇の世界の枠組みを見るみたいな、メタ的な場面になっていたような)、そういうのもあって思い出したのかも。
デ・パルマは好きなのに余り再鑑賞していなかったなあ、と思いつつ最近は一本ずつくらい再鑑賞しています。まだ少ないですけどね。
「パッション」は仰るように初期のテイストがありましたね。ヒッチ先生の遺作「ファミリー・プロット」を思い出させるところが本作と共通していました。
しかし、よく僕の採点を憶えていましたね(@_@)
記憶力にびっくりデス。
ああ、何となく思い出しましたよ。
昨年原作を読んだので、その記憶も少し頼りにして・・・
「サテリコン」はもう30年以上観ていないので、再鑑賞したい作品の一本です。
ヒチコック作品のオマージュがちりばめられていて楽しかったですね。
最後のオチには驚かされました。
いまではよく使われる手ですがね。
デ・パルマは、「アンタッチャブル」を作るまでヒッチコックのオマージュ作品が続いて楽しませくれましたね。
>最後のオチ
今の観客はそういう点に関しては利口になりましたからね。特に「シックス・センス」以降・・・