映画評「愛を積むひと」
☆☆☆(6点/10点満点中)
2015年日本映画 監督・朝原雄三
ネタバレあり
エドワード・ムーニー・ジュニアの小説「石を積む人」の舞台を米国から北海道に移して映画化。
実務しか能がなくて経営に行き詰って工場を畳み、妻・樋口可南子との思い出のある北海道の美瑛町の洋館に移り住んだ初老の佐藤浩市が、妻に言われて庭に石塀を手作業でこしらえることになり、造園会社の従業員・野村周平に手伝ってもらう。
高校に進学できなかった若者は、以前の不良仲間に強要されて留守中の筈のこの家に強盗の案内をする。不良仲間は、持病が発生してとんぼ帰りしてきた主婦と出くわして昏倒させて金品を持ち逃げする。少年は罪悪感から恋人の杉咲花を連れてきて色々と手伝わせるが、妻は心臓病を悪化させて死んでしまい、その後不良仲間が盗んだ物品の一つ真珠のネックレスが夫婦にとって精神的に貴重なものであると知って少年は益々居たたまれなくなる。
やがて主犯の逮捕により少年も留置されることになるが、葬式後次々と出てくる妻の“遺書”に則って佐藤は、仕事を失った彼を家に住まわせ、引き続き仕事の手伝いをさせる。そんな折ガールフレンドというより恋人の妊娠を巡ってゴタゴタが起き、佐藤は少年と彼女の家の間を仲裁役を買って出る。結局少女の義父・柄本明の判断に基づき彼女は出産することが許され、不良少年と蛇蝎の如く嫌われていた野村君も一年間の牧場奉公を条件に事実上の婿認定となる。
こうした出来事が重なるうちに佐藤は妻子ある男性との事件以来不仲になっていた娘・北川景子と和解する。
正に僕の世代のお話であり、真面目すぎて頑固で不器用で無口な様子が僕とそっくりな主人公を見ているだけで涙が出てきてじーんとさせられるが、概ね好評の中にあって(日本では)不自然な設定という否定的意見もある程度首肯できる。ただ、こんな人や人生が絶対ないかと言われれば「否」と言いたい。
先日見たイギリス人のベニシア・スタンリー=スミスさんが現在の日本人が殆どはかないもんぺを穿いているように、日本人が北海道で石塀作りをするのは不自然ではあっても不思議ではない。黒澤明が翻案映画「白痴」(1951年)の舞台にしたように北海道には異国のムードがある。
それに類する意見の中で、しかし、強盗に入った少年とあのような関係に入る人はいない、という意見には全く首肯できない。こんな人は世に少なくない。
自己の利益を顧みないで活動する保護司を見よ。原爆を落とされた日本の国民が、他の国民に比べて、アメリカに対して謝罪を求める割合が少ないという現象を見よ。逆にその意見が正しいとしたら、一度でも罪を起こした人は一生浮かび上がれないのではないか。余りに潔癖症的に過ぎ、厭世的に過ぎる。
その正否はともかく、妻による夫操縦術をテーマとする本作の通奏低音を成しているは、実は「(罪を)許すこと」である。主人公が少年を憎まない理由は本来ない。不倫で相手の家庭を困らせた娘を真面目すぎる父親は許せない。そんな父を自分も苦しんだ娘は許せない。娘を孕ませた不良少年を娘の両親は許せない。しかし、各々の事情や心情が互いに解ればその怒りの鉾は案外容易に鞘に収まる。人間はそうあるべきではないか、というのが主題の一つである。原作者がキリスト教の国の人だからであろう。
常々言っているように、映画には表現上の理由やレトリックの為に嘘がたくさん用いられる。映画作家は主題を効果的に表現する為になるべく不自然にならないよう工夫を凝らして極力大きな嘘をつく。人によってその感じ方が違うからそれが微妙なレベルにある本作のような作品に当たると、極端な意見もまま出てくる。心情としては理解できる。しかし、ごく普遍的なテーマをごく当たり前のお話を通して打ち出すのは殆ど不可能に近い。それを解ってやらないと映画の作り手が可哀想である。
日本人はこういうタイトルが好きだねえ。敢えて言いませんが、似たタイトルの洋画や邦画がありましたね。そうそう、あれですよ。
2015年日本映画 監督・朝原雄三
ネタバレあり
エドワード・ムーニー・ジュニアの小説「石を積む人」の舞台を米国から北海道に移して映画化。
実務しか能がなくて経営に行き詰って工場を畳み、妻・樋口可南子との思い出のある北海道の美瑛町の洋館に移り住んだ初老の佐藤浩市が、妻に言われて庭に石塀を手作業でこしらえることになり、造園会社の従業員・野村周平に手伝ってもらう。
高校に進学できなかった若者は、以前の不良仲間に強要されて留守中の筈のこの家に強盗の案内をする。不良仲間は、持病が発生してとんぼ帰りしてきた主婦と出くわして昏倒させて金品を持ち逃げする。少年は罪悪感から恋人の杉咲花を連れてきて色々と手伝わせるが、妻は心臓病を悪化させて死んでしまい、その後不良仲間が盗んだ物品の一つ真珠のネックレスが夫婦にとって精神的に貴重なものであると知って少年は益々居たたまれなくなる。
やがて主犯の逮捕により少年も留置されることになるが、葬式後次々と出てくる妻の“遺書”に則って佐藤は、仕事を失った彼を家に住まわせ、引き続き仕事の手伝いをさせる。そんな折ガールフレンドというより恋人の妊娠を巡ってゴタゴタが起き、佐藤は少年と彼女の家の間を仲裁役を買って出る。結局少女の義父・柄本明の判断に基づき彼女は出産することが許され、不良少年と蛇蝎の如く嫌われていた野村君も一年間の牧場奉公を条件に事実上の婿認定となる。
こうした出来事が重なるうちに佐藤は妻子ある男性との事件以来不仲になっていた娘・北川景子と和解する。
正に僕の世代のお話であり、真面目すぎて頑固で不器用で無口な様子が僕とそっくりな主人公を見ているだけで涙が出てきてじーんとさせられるが、概ね好評の中にあって(日本では)不自然な設定という否定的意見もある程度首肯できる。ただ、こんな人や人生が絶対ないかと言われれば「否」と言いたい。
先日見たイギリス人のベニシア・スタンリー=スミスさんが現在の日本人が殆どはかないもんぺを穿いているように、日本人が北海道で石塀作りをするのは不自然ではあっても不思議ではない。黒澤明が翻案映画「白痴」(1951年)の舞台にしたように北海道には異国のムードがある。
それに類する意見の中で、しかし、強盗に入った少年とあのような関係に入る人はいない、という意見には全く首肯できない。こんな人は世に少なくない。
自己の利益を顧みないで活動する保護司を見よ。原爆を落とされた日本の国民が、他の国民に比べて、アメリカに対して謝罪を求める割合が少ないという現象を見よ。逆にその意見が正しいとしたら、一度でも罪を起こした人は一生浮かび上がれないのではないか。余りに潔癖症的に過ぎ、厭世的に過ぎる。
その正否はともかく、妻による夫操縦術をテーマとする本作の通奏低音を成しているは、実は「(罪を)許すこと」である。主人公が少年を憎まない理由は本来ない。不倫で相手の家庭を困らせた娘を真面目すぎる父親は許せない。そんな父を自分も苦しんだ娘は許せない。娘を孕ませた不良少年を娘の両親は許せない。しかし、各々の事情や心情が互いに解ればその怒りの鉾は案外容易に鞘に収まる。人間はそうあるべきではないか、というのが主題の一つである。原作者がキリスト教の国の人だからであろう。
常々言っているように、映画には表現上の理由やレトリックの為に嘘がたくさん用いられる。映画作家は主題を効果的に表現する為になるべく不自然にならないよう工夫を凝らして極力大きな嘘をつく。人によってその感じ方が違うからそれが微妙なレベルにある本作のような作品に当たると、極端な意見もまま出てくる。心情としては理解できる。しかし、ごく普遍的なテーマをごく当たり前のお話を通して打ち出すのは殆ど不可能に近い。それを解ってやらないと映画の作り手が可哀想である。
日本人はこういうタイトルが好きだねえ。敢えて言いませんが、似たタイトルの洋画や邦画がありましたね。そうそう、あれですよ。
この記事へのコメント
洋画の邦題は、大昔から、特にそういう傾向があります。