映画評「雪の轍」
☆☆☆☆(8点/10点満点中)
2014年トルコ=ドイツ=フランス合作映画 監督ヌリ・ビルゲ・ジェイラン
ネタバレあり
30年ほど前ちょっとしたトルコ映画ブームがあり、そのきっかけとなったのがユルマズ・ギュネイ監督の「路」であった。それから30年余りしてかの作品と同じパルム・ドール(「路」はグランプリだが、現在のパルム・ドールに相当、現在のグランプリとは違う)を受賞したこのトルコ映画はかなりの高踏派ぶり。基本的にはオーソドックスなドラマ映画であるが、その圧倒的な会話量に辟易する御仁もいらっしゃるにちがいない。
冒頭の風景から舞台はカッパドキアと解るが、岩をくり抜いて作ったホテルを父親から譲り受けて経営、実務を代理人に任せて著述業に勤しんでいる初老男性アイドゥン(ハルク・ビルギネル)が主人公。
まず、彼の持つ家を借りている一家から家賃が貰えないことから失業中の戸主イスマイル(ネジャト・イスレーシュ)との間でいざこざが起きる。
彼はコラムの読者からある施設建設の為に寄付の要望を受けるが、小学校建設の為の寄付による支援活動を行っている若い妻ニハル(メリッサ・スーゼン)は同種の話なのに否定的な反応を示し、出戻りの妹ネジラ(デメット・アクバッグ)も同調する。二人の女性は「悪には無抵抗で対応、そうすれば悪者が改心する可能性がある」という意見でもほぼ一致する。
映画は後半、前半でじっくり示されたこれらの要素を組み合わせて展開させるのであるが、ベースはアントン・チェーホフの短編小説「妻」と「善人」らしい。チェーホフをご贔屓の作家としている僕は不本意ながら共に読んでいない。何しろ文学であるか否かを問わず全世界の古典を全て読もうとしているから時間が足りないのだ。
そうした先入観がなかった故、チェーホフよりしかつめらしい作品の性格から寧ろドストエフスキーを感じると同時に、それだけでなく、主人公を演じているビルギネルがドストエフスキーその人を演じられそうだなあと彼が出てくるたびに内容に関係ないことを考えていた。
さて、上の要素がいかにまとめられているのだろうか?
価値観の違いで尽く妻と対立しているアイドゥンはイスタンブールに逃げる前に彼女に大金を寄付する。妻はそれを学校の寄付に回さず、かのイスマイルの一家に贈呈する。しかし、彼はそれを火にくべてしまう。
彼女は夫の指摘した自分の甘さを認識することになるのだが、同時にその大金はもしかしたら彼が考えた最初の施設のための寄付になったかもしれず、彼らの価値観の差が有効に使われたかもしれないお金を灰燼にしてしまった虚しさも少し漂わす。
お金を火に投げ込む行為(ここにおいて妻が悪の立場にある)が、善と悪の対立を基調とする作者ヌリ・ビルゲ・ジェイランの包括的な哲学の一端を端的に或いは象徴的に示し、その点においてドストエフスキーらしいと言うなら、それが残す苦々しさ・虚しさはチェーホフ的と言えるかもしれない。
ドストエフスキーの晩年にロシアと戦ったトルコからこういう映画作家が出てくるのは歴史的皮肉と言うべきか。ちと大袈裟でしたかな。いずれにしてもスケールの大きな作家登場の感あり。
2014年トルコ=ドイツ=フランス合作映画 監督ヌリ・ビルゲ・ジェイラン
ネタバレあり
30年ほど前ちょっとしたトルコ映画ブームがあり、そのきっかけとなったのがユルマズ・ギュネイ監督の「路」であった。それから30年余りしてかの作品と同じパルム・ドール(「路」はグランプリだが、現在のパルム・ドールに相当、現在のグランプリとは違う)を受賞したこのトルコ映画はかなりの高踏派ぶり。基本的にはオーソドックスなドラマ映画であるが、その圧倒的な会話量に辟易する御仁もいらっしゃるにちがいない。
冒頭の風景から舞台はカッパドキアと解るが、岩をくり抜いて作ったホテルを父親から譲り受けて経営、実務を代理人に任せて著述業に勤しんでいる初老男性アイドゥン(ハルク・ビルギネル)が主人公。
まず、彼の持つ家を借りている一家から家賃が貰えないことから失業中の戸主イスマイル(ネジャト・イスレーシュ)との間でいざこざが起きる。
彼はコラムの読者からある施設建設の為に寄付の要望を受けるが、小学校建設の為の寄付による支援活動を行っている若い妻ニハル(メリッサ・スーゼン)は同種の話なのに否定的な反応を示し、出戻りの妹ネジラ(デメット・アクバッグ)も同調する。二人の女性は「悪には無抵抗で対応、そうすれば悪者が改心する可能性がある」という意見でもほぼ一致する。
映画は後半、前半でじっくり示されたこれらの要素を組み合わせて展開させるのであるが、ベースはアントン・チェーホフの短編小説「妻」と「善人」らしい。チェーホフをご贔屓の作家としている僕は不本意ながら共に読んでいない。何しろ文学であるか否かを問わず全世界の古典を全て読もうとしているから時間が足りないのだ。
そうした先入観がなかった故、チェーホフよりしかつめらしい作品の性格から寧ろドストエフスキーを感じると同時に、それだけでなく、主人公を演じているビルギネルがドストエフスキーその人を演じられそうだなあと彼が出てくるたびに内容に関係ないことを考えていた。
さて、上の要素がいかにまとめられているのだろうか?
価値観の違いで尽く妻と対立しているアイドゥンはイスタンブールに逃げる前に彼女に大金を寄付する。妻はそれを学校の寄付に回さず、かのイスマイルの一家に贈呈する。しかし、彼はそれを火にくべてしまう。
彼女は夫の指摘した自分の甘さを認識することになるのだが、同時にその大金はもしかしたら彼が考えた最初の施設のための寄付になったかもしれず、彼らの価値観の差が有効に使われたかもしれないお金を灰燼にしてしまった虚しさも少し漂わす。
お金を火に投げ込む行為(ここにおいて妻が悪の立場にある)が、善と悪の対立を基調とする作者ヌリ・ビルゲ・ジェイランの包括的な哲学の一端を端的に或いは象徴的に示し、その点においてドストエフスキーらしいと言うなら、それが残す苦々しさ・虚しさはチェーホフ的と言えるかもしれない。
ドストエフスキーの晩年にロシアと戦ったトルコからこういう映画作家が出てくるのは歴史的皮肉と言うべきか。ちと大袈裟でしたかな。いずれにしてもスケールの大きな作家登場の感あり。
この記事へのコメント
カッパドキアというだけで観てしまいました。
芸術的映画でありますな~
次はどんな映画を作ってくれるか?
大いなる期待。
日本人はこういう高級な論議はできないなあ。
旧作もあるようなので、見られると良いと思います。