映画評「最後の命」
☆☆★(5点/10点満点中)
2014年日本映画 監督・松本准平
ネタバレあり
2005年に芥川賞を受賞した中村文則の同名小説の映画化。Allcinemaは、サスペンス/ミステリーと分類しているが、ドラマである。その伝で行けば回想形式や時系列操作型のドラマは皆ミステリーになってしまう。
25歳の大学生・桂人(柳楽優弥)は、高校卒業以来久しぶりに幼馴染の裕一(矢野聖人)と会って自宅に迎え入れる。後日彼の部屋で馴染みのデリヘリ嬢(池端レイナ)が死体で発見された為容疑者となるが、部屋から裕一の指紋が多数出てきた為に釈放される。裕一は連続強姦魔として指名手配中だったのだ。
ここから映画は、桂人が何故特定の恋人を持たず触れられることを嫌うのか、裕一が何故強姦魔として追われることになったのか、その理由を探るべく彼らの小学生時代へと時間を巻き戻していく。
二人は、ホームレスたちに女性ホームレスが集団強姦されるのを目撃し、彼らに泣き叫ぶ女性に触れるように強要され、トラウマを抱くことになったのである。
本作のテーマは、人間の原罪であろう。
強姦魔ということになっている裕一が言うように、潜在的にそういう欲望を持っていたのであれば目撃体験が彼にそうした道を歩ませたことになるので、強姦は普遍的・根源的な原罪ということになり、そうでなければもっと特殊な自我による近代的な罪ということになる。
多分に「罪と罰」と「二重人格」を書いたドストエフスキーのようなテーマ設定で、事件を目撃した二人が、一方は清浄的になり、一方は罪の汚濁に身を委ねようとする、という対照的な人生を歩むことになるのが非常に興味深い。同時に、二人は一人の人間が分身したようなものと僕は感じてい、松本准平監督にも、裕一の不思議な登場の仕方によってそう思わせる狙いがあったと思う。
裕一の強姦はヤラセであって、被害者の女性たちが自分の罪を軽くさせる為の告訴であるという真相がある反面、桂人の部屋での殺人事件の真相は不明確。しかし、桂人が推測するように、二人の共通する女性の知人・香里(比留川游)が絡んでいるのかもしれない。二人と一種の三角関係にある彼女も欲望の狭間で精神を病んでいるからである。結局、裕一の自殺の後、桂人は捨て身の覚悟で社会に向かう心境になる。
こんな形而上的なお話なので、商業映画として面白く思える人は稀有と思いつつ、自分の理解が及ばず退屈だからと言って安易に【駄作】の烙印を押すのは映画を評価する態度とは言えない。映画の評価は、狙ったテーマや目的に合わせて上手く作られているかどうかで判断するべきだから、本作がドストエフスキー的に人間を罪悪観(罪悪感ではない)の観点から見つめようとしていると理解するのが正しいのであれば程々の出来栄えとは言える。
警察が裕一の友人たる桂人を見張っていると思われる中で裕一がひょこひょこ現れたりするのは現実に即して考えると妙であるが、一種の分身譚と考えれば無視しても良いのだろう。僕がこの程度の☆★に留めざるを得ないのは、もっぱら、テーマの把握自体が正しいかどうか確信が持てないからである。
「最後の人」というサイレントの名作がありますが。
2014年日本映画 監督・松本准平
ネタバレあり
2005年に芥川賞を受賞した中村文則の同名小説の映画化。Allcinemaは、サスペンス/ミステリーと分類しているが、ドラマである。その伝で行けば回想形式や時系列操作型のドラマは皆ミステリーになってしまう。
25歳の大学生・桂人(柳楽優弥)は、高校卒業以来久しぶりに幼馴染の裕一(矢野聖人)と会って自宅に迎え入れる。後日彼の部屋で馴染みのデリヘリ嬢(池端レイナ)が死体で発見された為容疑者となるが、部屋から裕一の指紋が多数出てきた為に釈放される。裕一は連続強姦魔として指名手配中だったのだ。
ここから映画は、桂人が何故特定の恋人を持たず触れられることを嫌うのか、裕一が何故強姦魔として追われることになったのか、その理由を探るべく彼らの小学生時代へと時間を巻き戻していく。
二人は、ホームレスたちに女性ホームレスが集団強姦されるのを目撃し、彼らに泣き叫ぶ女性に触れるように強要され、トラウマを抱くことになったのである。
本作のテーマは、人間の原罪であろう。
強姦魔ということになっている裕一が言うように、潜在的にそういう欲望を持っていたのであれば目撃体験が彼にそうした道を歩ませたことになるので、強姦は普遍的・根源的な原罪ということになり、そうでなければもっと特殊な自我による近代的な罪ということになる。
多分に「罪と罰」と「二重人格」を書いたドストエフスキーのようなテーマ設定で、事件を目撃した二人が、一方は清浄的になり、一方は罪の汚濁に身を委ねようとする、という対照的な人生を歩むことになるのが非常に興味深い。同時に、二人は一人の人間が分身したようなものと僕は感じてい、松本准平監督にも、裕一の不思議な登場の仕方によってそう思わせる狙いがあったと思う。
裕一の強姦はヤラセであって、被害者の女性たちが自分の罪を軽くさせる為の告訴であるという真相がある反面、桂人の部屋での殺人事件の真相は不明確。しかし、桂人が推測するように、二人の共通する女性の知人・香里(比留川游)が絡んでいるのかもしれない。二人と一種の三角関係にある彼女も欲望の狭間で精神を病んでいるからである。結局、裕一の自殺の後、桂人は捨て身の覚悟で社会に向かう心境になる。
こんな形而上的なお話なので、商業映画として面白く思える人は稀有と思いつつ、自分の理解が及ばず退屈だからと言って安易に【駄作】の烙印を押すのは映画を評価する態度とは言えない。映画の評価は、狙ったテーマや目的に合わせて上手く作られているかどうかで判断するべきだから、本作がドストエフスキー的に人間を罪悪観(罪悪感ではない)の観点から見つめようとしていると理解するのが正しいのであれば程々の出来栄えとは言える。
警察が裕一の友人たる桂人を見張っていると思われる中で裕一がひょこひょこ現れたりするのは現実に即して考えると妙であるが、一種の分身譚と考えれば無視しても良いのだろう。僕がこの程度の☆★に留めざるを得ないのは、もっぱら、テーマの把握自体が正しいかどうか確信が持てないからである。
「最後の人」というサイレントの名作がありますが。
この記事へのコメント
なくなればその種は終りでありますからね。
二人の存在は表と裏という事でしょうね。
交合は良いけれど、強姦はダメだろう、というのが現在の一般的道徳ですよね。
考える葦である人間にとって、本能のみに従う強姦は原罪なのかどうか、というのは案外難しい問題なのかも。地球上に二人しかいない男女になったら同意も何も要らない、ということになるでしょうけど(笑)