映画評「シックス・センス」
☆☆☆★(7点/10点満点中)
1999年アメリカ映画 監督M・ナイト・シャマラン
重要なネタバレあり
20世紀最後を賑やかしたこの作品は、映画評より映画論を書く気を起こさせる。
M・ナイト・シャマランの出世作で、本作の高評価の為に以降の作品が多くの場合実力より下に扱われることが多かったと思う。皆様にはお馴染みのお話ながら、簡単に表面上の物語を書いておきましょう。
児童心理学の分野で高名を馳せた精神科医ブルース・ウィリスが十年前に扱った患者に逆恨みされて凶弾に倒れる。1年後肉体的に立ち直ると、その患者に似た繊細で利発な少年ヘイリー・ジョエル・オスメントの面倒を見ることになるが、幽霊が見えるという少年と付き合ううちに、妻オリヴィア・ウィリアムズと話すことができないことに苦しむ彼は互助関係になっていく。
という物語は、親子や夫婦の愛情をテーマにしたもので、少なからぬ感動を喚起させる。しかし、その為に使った“手段”が僕は気に入らなかった。つまり画面の中で行われていることは真実であるという約束事を成り立たせる使命があるため劇映画の描写は時に挿入される主観描写以外は客観描写でなければならないのに、本作は主観描写を客観描写に見せるトリック(冷静に考えれば、夢落ちのヴァリエーションと言うべし)でお話の妙味を作り上げたからである。
しかし、初めてやったことは評価に値するし、本作だけであれば認められても良い手法とはずっと言い続けている。幽霊側から観たお話と言うこともできるわけで、この点も新味であった。
問題はどんでん返しの為にこの手法を真似する後発作品があまた作られたことで、それによって観客が信ずべき画面を信じなくなり、作者と観客の場外乱闘を引き起こしたことである。映画作家はヒッチコックのように画面内で勝負すべきなのにそれを所謂“叙述トリック”によりスクリーンの外に出してしまったのである。
以降観客がどんでん返しを前提にサスペンス映画を見るようになったから、どんでん返しが余り機能しなくなってしまったというのも問題であろう。
本作より70年前にアガサ・クリスティーが「アクロイド殺人事件」で小説においてこの技法に相当するトリックを使って読者を驚かせたのに似ている。厳密には初めてではないが、本格長編としてこれを初めて使ったかの作品は甲論乙駁を引き起こした。真似した作品も少なくはないと聞くものの、個人的に横溝正史の「蝶々殺人事件」しか知らず、悪影響は限定的(少なくとも後世に残るものが殆どない)と言って良いのではないか。翻って、映画界では「シックス・センス」の影響が収束するまでに10年近くかかっただろう。最近やっとサスペンスが再び映画的に安心して観られるようになった。
さて、本作では主人公がいるはずもない場所にいるなど冷静に考えれば解る伏線は少なからずあるわけだが、いくら丁寧に見せても映画論もしくは映画言語論的には余り意味を成さない。その辺りは提供する情報が文学よりずっと多い映画ではシビアである。シャマランは本作により一本何十億円も稼ぐ人気作家になった。しかし、本作の大成功が却って彼の将来の発展を妨げたのかもしれない。
正確には「シックスス・センス」だけどねえ。
1999年アメリカ映画 監督M・ナイト・シャマラン
重要なネタバレあり
20世紀最後を賑やかしたこの作品は、映画評より映画論を書く気を起こさせる。
M・ナイト・シャマランの出世作で、本作の高評価の為に以降の作品が多くの場合実力より下に扱われることが多かったと思う。皆様にはお馴染みのお話ながら、簡単に表面上の物語を書いておきましょう。
児童心理学の分野で高名を馳せた精神科医ブルース・ウィリスが十年前に扱った患者に逆恨みされて凶弾に倒れる。1年後肉体的に立ち直ると、その患者に似た繊細で利発な少年ヘイリー・ジョエル・オスメントの面倒を見ることになるが、幽霊が見えるという少年と付き合ううちに、妻オリヴィア・ウィリアムズと話すことができないことに苦しむ彼は互助関係になっていく。
という物語は、親子や夫婦の愛情をテーマにしたもので、少なからぬ感動を喚起させる。しかし、その為に使った“手段”が僕は気に入らなかった。つまり画面の中で行われていることは真実であるという約束事を成り立たせる使命があるため劇映画の描写は時に挿入される主観描写以外は客観描写でなければならないのに、本作は主観描写を客観描写に見せるトリック(冷静に考えれば、夢落ちのヴァリエーションと言うべし)でお話の妙味を作り上げたからである。
しかし、初めてやったことは評価に値するし、本作だけであれば認められても良い手法とはずっと言い続けている。幽霊側から観たお話と言うこともできるわけで、この点も新味であった。
問題はどんでん返しの為にこの手法を真似する後発作品があまた作られたことで、それによって観客が信ずべき画面を信じなくなり、作者と観客の場外乱闘を引き起こしたことである。映画作家はヒッチコックのように画面内で勝負すべきなのにそれを所謂“叙述トリック”によりスクリーンの外に出してしまったのである。
以降観客がどんでん返しを前提にサスペンス映画を見るようになったから、どんでん返しが余り機能しなくなってしまったというのも問題であろう。
本作より70年前にアガサ・クリスティーが「アクロイド殺人事件」で小説においてこの技法に相当するトリックを使って読者を驚かせたのに似ている。厳密には初めてではないが、本格長編としてこれを初めて使ったかの作品は甲論乙駁を引き起こした。真似した作品も少なくはないと聞くものの、個人的に横溝正史の「蝶々殺人事件」しか知らず、悪影響は限定的(少なくとも後世に残るものが殆どない)と言って良いのではないか。翻って、映画界では「シックス・センス」の影響が収束するまでに10年近くかかっただろう。最近やっとサスペンスが再び映画的に安心して観られるようになった。
さて、本作では主人公がいるはずもない場所にいるなど冷静に考えれば解る伏線は少なからずあるわけだが、いくら丁寧に見せても映画論もしくは映画言語論的には余り意味を成さない。その辺りは提供する情報が文学よりずっと多い映画ではシビアである。シャマランは本作により一本何十億円も稼ぐ人気作家になった。しかし、本作の大成功が却って彼の将来の発展を妨げたのかもしれない。
正確には「シックスス・センス」だけどねえ。
この記事へのコメント
どんでん返しは、詳細を言わなくても、「どんでん返しがある」と言っただけでネタバレ同様となってしまい、映画評を書くのに苦労するんですよね。
僕の場合は、昨今、1年くらい経ってから観るので「どんでん返しがある」くらいは言っても良いとは思います。
小林信彦氏くらいの頭があれば、「ある」と聞けば見通しが付いてしまうでしょうねえ。十数年前の僕は妙に評判になっているのは知っていましたが、「どんでん返し」とは思わなかったが、すっかり騙されました。で、小林氏とは違う意味でがっかりしました(笑)
>児童虐待
主人公の少年の母は積極的にはやっていませんが、自分が母親から冷たくされた記憶があるので、潜在的に息子を「怪物」と疎ましく思っていたところがあるようです。
それより劇中ビデオで紹介される母親による事実上の毒殺、主人公の少年への教師の言葉による虐待がほうが強烈で、ブルース・ウィリスを撃つ犯人もはっきりとは示されませんが被害者でした。
主人公の少年は、ウィリスを撃った男と違い、幽霊を介して母親の愛情を確認する。母親が自分を認めてくれたことで自分の能力を疎ましく思わなくなる。そうした流れが巧く作られていましたね。
ところが、世間的にはどんでん返しが注目の的になってしまって、主題はどこかに行ってしまった感じです。
他人に理解してもらえない苦しみ、自分が人と違っているのではないかという不安、それはかたちは違っていても、多くの人に共通する普遍的な感情の一つではないでしょうか。
この映画の霊以外の登場人物もすべて、他人と違うという孤独と疑懼を抱いています。
母親のトニ・コレットは、自分の母との不和があり、少年の担任は、隠していたはずの吃音症を指摘され激高する。
妻のオリヴィアも、パートナーを失った孤独と女性としての渇望、夫への冷めやらぬ愛情の狭間で苦しみます。
物語の終盤、担任はアーサー王の劇を通して少年と良好な関係を築き、母親は、祖母に愛されていたことを少年の能力によって知り、癒しを得ます。
たくさんの人が、それぞれの苦しみから解放され、本来の人間らしくなれる。『シックス・センス』は、その鍵なのかもしれませんね。
>癒し
最終的に明かされる祖母と母親と少年の関係が非常にうまく扱われていましたね。少年の祖母の霊との会話が、一瞬にして、この三人の相互関係における全てのわだかまりを融解する。
なかなか巧いと思いました。
映画サイトで遭遇した「少年の立場は何も変わっていない」という意見は、理解不足と思います。
シャマランはこうしたドラマ的主題を、彼独自の叙述方法により浮かび上がらせる手腕に長けていましたが、それが為に叙述のほうに関心が行き過ぎて主題に関心を持ってもらえないことが多くなり、結果的に良し悪しとなってしまったんではないでしょうか。
大どんでん返しがあるとも知らずに観に行ったので「やられた!」と思いましたよ。
感動的な話でもありましたしね。
僕もラストにはやられましたねえ。
「ある」と知っていれば、読めますが。
>感動的
人は癒しを必要としているという内容でしたね。そして幽霊もね。