映画評「スポットライト 世紀のスクープ」
☆☆☆★(7点/10点満点中)
2015年アメリカ=カナダ合作映画 監督トム・マッカーシー
ネタバレあり
2015年度アカデミー賞作品賞と脚本賞を受賞した話題作。「扉をたたく人」で“上手い”と感心した監督のトム・マッカーシーは本作と合わせて考えてみるとやはり社会派監督で、前回の「靴職人と魔法のミシン」は畑ちがいだった。
2001年ボストン、ユダヤ人マーティ・バロン(リーヴ・シュライバー)が地元紙“ボストン・グローブ”の新局長として赴任、“スポットライト”という特集記事のネタを探すうちに、神父による児童虐待事件が目に入り、デスクのウォルター・ロビンソン(マイケル・キートン)に調べるよう指示、記者マイク・レデンデス(マーク・ラファロー)やサーシャ・ファイファー(レイチェル・マクアダムズ)が駆けずり回ることになる。
色々入り組んでいる為却って詳細なストーリーは端折るしかないし、本作の場合、詳細は大して意味がない。要は、神父は結婚できないという教条とその閉鎖故にカトリック教会には児童虐待が潜在的にある事実と、2000年近くに渡って育まれたその絶大なる権威がそうした事実を隠蔽してしまう現実から、人間の罪深さに思いを馳せ、記者の多くがカトリック教徒である為にそれに対峙する難しさと闘いながら克服していく姿に感動を覚えさせる、そんな映画である。
カトリック教会に準ずる存在がない非キリスト教徒の日本人にはその巨大さが解りにくいが、毎週教会に行く習慣以上に、カトリック教会系の学校の存在が児童虐待の温床になることくらいは解る。日本にも教会の救護院での暴力や淫行を扱った「ゲルマニウムの夜」という誠に後味の悪い作品があり、アメリカでは神父による児童性的虐待の潜在性を背景に作られた「ダウト~あるカトリック学校で~」という秀作があり、併せて見ればよりピンと来るだろう。
かつて日本でも稚児を相手に同性愛にふける僧侶が少なくなかったのはよく知られている(自民党の地方議員が「日本には伝統的に同性愛の習慣がない」と言ったのは無知の極み。武家にあっても有名な「葉隠」は男色を勧めているし、「日本書紀」では冒頭の神話時代に言及があり、井原西鶴は「日本書紀」を引用して「男色大鑑」をものしている。日本ぐらい伝統的におおらかに同性愛もしくは両性愛を認めていた国はないのではないか。同性愛に厳しくなったのは、明治時代の文明開化において産業革命で労働力増加の必要性に迫られ同性愛を排斥するようになった西洋文明の影響であろう)。
ただ、稚児の場合は被害者意識のある人もいただろうし、愉悦に身を委ねる人もいただろう。この映画にも「(少年時代に)被害に遭い、(神父時代に)ちょっとしたいたずらをしたが愉悦はなかった」と一部認める元神父も出て来る。勿論、人権意識の低かった時代(の稚児)と現在の一般的児童とを単純に比較することはできないし、本作が問題としているのは、職業を問わず一定の率でいる筈の小児性愛者の問題以上に、庶民に大きな影響を与えるカトリック教会の権威のとてつもない大きさ・・・暴力的な威嚇をするマフィアや権力者とは全く違う種類の巨悪と言うべきか・・・である。それを乗り越えて行った地方新聞社の記者たちの意志の力に感動する。局長がカトリックとは恐らく無縁のユダヤ人であったことが壁を乗り越える大きな要因であったに違いない。最後の無数の電話は、彼らが乗り越えることで壁自体が崩れたことを物語る。一般人も壁を超えることができるようになったのである。
アメリカでは大統領が率先して一部マスコミを排除しようとし、日本では政府や与党が都合の悪い報道を「偏向」と称して封じ込めようとする。マスコミの諸君、権力に迎合せず、本作を見て頑張ってくだされ! 大本営発表ほど始末に負えないものはないのだから。
閑話休題。
共同で脚本も書いたマッカーシーは大げさな表現を避けて観照的に物語を進めていて、それはそれで大いに賞賛すべきだが、映画的な味わいや力感という意味ではやや不満を生ずる。脚本賞は良いとしても、作品賞としては些か物足りない。
世界終末時計がトランプの出現で進んだそうな。
2015年アメリカ=カナダ合作映画 監督トム・マッカーシー
ネタバレあり
2015年度アカデミー賞作品賞と脚本賞を受賞した話題作。「扉をたたく人」で“上手い”と感心した監督のトム・マッカーシーは本作と合わせて考えてみるとやはり社会派監督で、前回の「靴職人と魔法のミシン」は畑ちがいだった。
2001年ボストン、ユダヤ人マーティ・バロン(リーヴ・シュライバー)が地元紙“ボストン・グローブ”の新局長として赴任、“スポットライト”という特集記事のネタを探すうちに、神父による児童虐待事件が目に入り、デスクのウォルター・ロビンソン(マイケル・キートン)に調べるよう指示、記者マイク・レデンデス(マーク・ラファロー)やサーシャ・ファイファー(レイチェル・マクアダムズ)が駆けずり回ることになる。
色々入り組んでいる為却って詳細なストーリーは端折るしかないし、本作の場合、詳細は大して意味がない。要は、神父は結婚できないという教条とその閉鎖故にカトリック教会には児童虐待が潜在的にある事実と、2000年近くに渡って育まれたその絶大なる権威がそうした事実を隠蔽してしまう現実から、人間の罪深さに思いを馳せ、記者の多くがカトリック教徒である為にそれに対峙する難しさと闘いながら克服していく姿に感動を覚えさせる、そんな映画である。
カトリック教会に準ずる存在がない非キリスト教徒の日本人にはその巨大さが解りにくいが、毎週教会に行く習慣以上に、カトリック教会系の学校の存在が児童虐待の温床になることくらいは解る。日本にも教会の救護院での暴力や淫行を扱った「ゲルマニウムの夜」という誠に後味の悪い作品があり、アメリカでは神父による児童性的虐待の潜在性を背景に作られた「ダウト~あるカトリック学校で~」という秀作があり、併せて見ればよりピンと来るだろう。
かつて日本でも稚児を相手に同性愛にふける僧侶が少なくなかったのはよく知られている(自民党の地方議員が「日本には伝統的に同性愛の習慣がない」と言ったのは無知の極み。武家にあっても有名な「葉隠」は男色を勧めているし、「日本書紀」では冒頭の神話時代に言及があり、井原西鶴は「日本書紀」を引用して「男色大鑑」をものしている。日本ぐらい伝統的におおらかに同性愛もしくは両性愛を認めていた国はないのではないか。同性愛に厳しくなったのは、明治時代の文明開化において産業革命で労働力増加の必要性に迫られ同性愛を排斥するようになった西洋文明の影響であろう)。
ただ、稚児の場合は被害者意識のある人もいただろうし、愉悦に身を委ねる人もいただろう。この映画にも「(少年時代に)被害に遭い、(神父時代に)ちょっとしたいたずらをしたが愉悦はなかった」と一部認める元神父も出て来る。勿論、人権意識の低かった時代(の稚児)と現在の一般的児童とを単純に比較することはできないし、本作が問題としているのは、職業を問わず一定の率でいる筈の小児性愛者の問題以上に、庶民に大きな影響を与えるカトリック教会の権威のとてつもない大きさ・・・暴力的な威嚇をするマフィアや権力者とは全く違う種類の巨悪と言うべきか・・・である。それを乗り越えて行った地方新聞社の記者たちの意志の力に感動する。局長がカトリックとは恐らく無縁のユダヤ人であったことが壁を乗り越える大きな要因であったに違いない。最後の無数の電話は、彼らが乗り越えることで壁自体が崩れたことを物語る。一般人も壁を超えることができるようになったのである。
アメリカでは大統領が率先して一部マスコミを排除しようとし、日本では政府や与党が都合の悪い報道を「偏向」と称して封じ込めようとする。マスコミの諸君、権力に迎合せず、本作を見て頑張ってくだされ! 大本営発表ほど始末に負えないものはないのだから。
閑話休題。
共同で脚本も書いたマッカーシーは大げさな表現を避けて観照的に物語を進めていて、それはそれで大いに賞賛すべきだが、映画的な味わいや力感という意味ではやや不満を生ずる。脚本賞は良いとしても、作品賞としては些か物足りない。
世界終末時計がトランプの出現で進んだそうな。
この記事へのコメント
マスコミなんてのは政治に限らず、BPO、スポンサー、芸能事務所らに配慮しながら記事を作るので、なかなか大変な職業です。
情報という木を配慮しながら削って削って、我ら一般市民に伝えられる真実とやらは、大きな情報のほんの一欠片に過ぎないでしょう。
トランプ大統領の言葉を借りれば「偽物」ですね。
マスコミもマスコミで、理論の整合性などそっちのけで、やたらと感情的な報道が目立ちますし、もう溜め息しか出ませんよ。
愚痴みたいなコメントになってしまって申し訳ないです。
>真実
小林よしのり氏曰く、「右も左も、自分の信じたいものだけを信じる」と。
進化論を否定する創造論者は僕に言いました、「信じるものが違う」と。
事実と違って、自分が信じるものが真実なんでしょう。
つまり、真実は、元来、感情的なものだと思います。
トランプ次第で北朝鮮が在日米軍基地をめがけてミサイルを発射する可能性が少し出てきましたね。北朝鮮の設備では、沖縄めがけて発射したものが我が家に落ちるかもしれません。
明日ありと思う心の仇桜、か。
>全体に地味ですが、煽情的にしなかったところを買います。
そうですね、日本映画は感情的になりがちなので、通俗的と言われることが多いアメリカ映画ですが、こういうところはなかなか凄いです。
恐らくこの作品が受けたせいでしょうか、この後毎年のように新聞社ものが作られていて、明日上げる予定のものも実はそれ。こちらは出来栄えは物足りなかったですが、作り方は同じく至って真面目です。