映画評「白い肌の異常な夜」

☆☆☆★(7点/10点満点中)
1971年アメリカ映画 監督ドン・シーゲル
ネタバレあり

1970年代TV(断るまでもなく当時はBSなどありはしない)で一度観た。ブログを始める前に観たような気もするが記憶違いかもしれない。

南北戦争中の南部、北軍の伍長クリント・イーストウッドが負傷して森に潜んでいる時、十代の少女6名が学んでいる寄宿学校の少女パメリア・ファーディンと遭遇する。彼女は仲間に助けを求めて学園に連れ帰る。
 校長ジェラルディン・ページは近親相姦の関係にあった兄の面影を彼に見出した為に南軍に引き渡さず、男を知らない教師エリザベス・ハートマンは色気いっぱいで言葉巧みな伍長にほだされ、色気過剰なハイティーン少女ジョー・アン・ハリスは積極的に迫って来る。
 この三人が彼を巡って見えない嫉妬合戦を繰り広げ、それにより彼は色々翻弄され、ほぼ傷が治ったのも束の間パトリシアに階段から突き落され足を骨折すると、校長は、嘘か本当か、壊疽になると称して右足を切断してしまう。事実上外に出ることができず、後年の「ミザリー」を思わせる状態になる。

というこわ~いお話だが、サイコ映画という理解は少し違って、これは1940年代にブームになったニューロティック・スリラー(異常心理映画)のヴァリエーション。環境と状況が女性陣を異常な心理に追い込むのである。

主人公イーストウッドは性的魅力があって自らもプレイボーイを自認するタイプだが、彼はそれを発揮する場所を間違えた。男日照りの中年の校長、男知らずの妙齢の教師、周囲に男性がなく好奇心が助長されてしまった少女の三すくみの状態になり、悲劇を生むわけである。彼が最初に出会う思春期前のパメリアちゃんまで嫉妬を滲ませるのだから恐れ入る。それほど深い意味はなかったのかもしれないが、救援に尽力した彼女の頬にキスをするところから見て、伍長は嵌るべきドツボに自ら陥った感がある。

ご贔屓の監督ドン・シーゲルとしては畑違いの感あるも、カメラワークは素晴らしい。
 断然良いのは開巻直後、パメリアちゃんが鐘を鳴らして学校関係者に救援を求めるシーン。横たわる彼の主観ショットのような仰角からカメラが移動して屋上を走る女子生徒を捉え、カメラが下を向くと野良仕事をしている校長らが動き始め、再びアップして屋上の生徒を捉えた後、次に切り替わったカメラが下の階にいる少女たちが外に出ていくのを映す。この流れの感覚が凄い。
 全体の設計として、ロングショット殊に屋根からのロングショットが多くすることで学校の孤立性を、内部での描写ではミディアム・ショット以上の寄りを多くすることで学校の閉鎖性を表現する。怖さを醸成する手段となっていると言えるだろう。

オープニング・クレジットの背景は「戦争のはらわた」同様実際の写真の展示方式。そこにイーストウッドがちゃんと収まっている細工を凝らした写真があって笑わせる。

この記事へのコメント

2017年03月08日 13:09
監督まで意識してなかったんですが、ドン・シーゲルは多才だったんですね。こういうのもうまいのですね。女性を描いた映画ですよね。私は、なぜか少女の一人にきのこを見分けるのが得意な子がいたのが妙に記憶に残っていて。きのこですが、ほんとうにふつうのしいたけやしめじと同じような外見だけど毒なのがあるんですね。私は自分ではぜったいきのこは取りませんが、見分けられる人はいるんですよ。田舎だと山へ取りに行ったりしますから。
オカピー
2017年03月08日 19:10
nesskoさん、こんにちは。

ドン・シーゲルは恐らく「ダーティハリー」以前、一部の評論家を除いて職業監督扱いだったと思います。実際には、物凄いセンスを持った優れた映画作家で、それが「ダーティハリー」で花開いたという形なんでしょうね。

>きのこ
きのこの少女が、イーストウッドを発見し、最後にまた活躍する。面白い構成でした。

僕も山の畑に行きますが、恐いのできのこは取らないですね。取るのはタケノコくらい。

この記事へのトラックバック