映画評「教授のおかしな妄想殺人」
☆☆☆(6点/10点満点中)
2015年アメリカ映画 監督ウッディー・アレン
ネタバレあり
相変わらず意気軒高なウッディー・アレンなり。
邦題から1948年に作られた「殺人幻想曲」を思い出し、アレンがオマージュでも捧げるような形で作ったものかと想像したが、余り共通点はなかった。
ニューポートの大学に赴任してきた哲学教授ホアキン・フェニックスは、哲学に奉仕する余りひどく厭世的になりキルケゴールの「死に至る病」(絶望)を地で行くようになるが、彼のように宗教に逃れるすべもなく、ロシアン・ルーレットでの死まで試みる。発散する色気はあり、夫に不満のある同僚の女性教授パーカー・ポージーだけでなく、受講している美人学生エマ・ストーンと親しく付き合うようになり、彼女と一緒に入ったレストランで親権問題で苦悩する女性の担当裁判官への恨み節を聞いてしまう。
義憤にかられたフェニックスは裁判官を暗殺しようと考え始める。すると不思議に生き甲斐が生まれ、女性たちのモーションにも積極的に応じられるようになる。裁判官の行動パターンを研究し、遂に毒殺する計画を実行に移す。
原題「不条理な男」といかにも違う、一部で不評を被っている邦題だが、僕は「おかしな」としたのは実はなかなか的を射ていると思う。
というのも、実存哲学やドストエフスキー「罪と罰」を踏まえた一見大真面目な殺人劇のように見えながら、フェニックス扮する大学教授の常識外れを諧謔的に扱っている、真面目な喜劇、若しくはにやにやできる悲劇だからである。先の「ブルージャスミン」が可笑し味を内包した悲劇であったのに似て、奇妙な人間の営為を俯瞰するようで興味を呼ぶものがあるのである。同じように「罪と罰」をモチーフにしても「マッチポイント」が徹底的に真面目であった(ように思われる)のとは大違いで、最近アレンはこのギャップのあるスタンスが気に入っているらしい。
さて、現在ジャン・カルヴァンの大著「キリスト教綱要」を読んでいるのだが、これによりキリスト教徒(やユダヤ教徒)にとって「選択」は、異教徒には想像できないくらい大きな問題であることが判った。何故なら、人間の行動は神様が基本的に決めている為、我々の考える意味での「選択」の自由がないからである。
アレンはきっと僕ら異教徒にはなかなか理解しがたい「選択」の問題を織り込んだにちがいない。実際にサルトルの「実存的選択」という言葉まで出してくる。何故、主人公が殺人を選択し、思想上では「裁判官の死」を共に願った女子大生が通報を選択するという落差が生まれたのか。カルヴァンならいとも簡単に結論を出すだろう。
本作の主人公は無神論を根本思想に据える哲学者である。これが重要。西洋では哲学が長く宗教と対立的関係にあったことを考えると、彼は神に帰依しない、従って神が保護するに値しない哲学者であるが故に最終的には罰を受けるのである。宗教に寄った結論のように見えるが、アレン御大のスタンスを考えれば、実際に皮肉を向けているのはそうした宗教側の考え方と理解できる。
個人的に、アレンの作品を40本以上見ている中で、どちらかと言えば平均以下の面白味という印象。それでも、僕が試みたように、徹底して哲学的に(特に宗教VS哲学のアングルで)見る気があれば、かなり楽しめるはず。前作「マジック・イン・ムーンライト」との間で共鳴する哲学映画と言って良いだろう。
日本は国を挙げて人文科学を排除しようという動きがある。本作のような、読解にそうした部分の教養が必要な作品を理解できる人が減っていくだろう。実学ばかり追うと、西洋人の会話についていけなくなる。
2015年アメリカ映画 監督ウッディー・アレン
ネタバレあり
相変わらず意気軒高なウッディー・アレンなり。
邦題から1948年に作られた「殺人幻想曲」を思い出し、アレンがオマージュでも捧げるような形で作ったものかと想像したが、余り共通点はなかった。
ニューポートの大学に赴任してきた哲学教授ホアキン・フェニックスは、哲学に奉仕する余りひどく厭世的になりキルケゴールの「死に至る病」(絶望)を地で行くようになるが、彼のように宗教に逃れるすべもなく、ロシアン・ルーレットでの死まで試みる。発散する色気はあり、夫に不満のある同僚の女性教授パーカー・ポージーだけでなく、受講している美人学生エマ・ストーンと親しく付き合うようになり、彼女と一緒に入ったレストランで親権問題で苦悩する女性の担当裁判官への恨み節を聞いてしまう。
義憤にかられたフェニックスは裁判官を暗殺しようと考え始める。すると不思議に生き甲斐が生まれ、女性たちのモーションにも積極的に応じられるようになる。裁判官の行動パターンを研究し、遂に毒殺する計画を実行に移す。
原題「不条理な男」といかにも違う、一部で不評を被っている邦題だが、僕は「おかしな」としたのは実はなかなか的を射ていると思う。
というのも、実存哲学やドストエフスキー「罪と罰」を踏まえた一見大真面目な殺人劇のように見えながら、フェニックス扮する大学教授の常識外れを諧謔的に扱っている、真面目な喜劇、若しくはにやにやできる悲劇だからである。先の「ブルージャスミン」が可笑し味を内包した悲劇であったのに似て、奇妙な人間の営為を俯瞰するようで興味を呼ぶものがあるのである。同じように「罪と罰」をモチーフにしても「マッチポイント」が徹底的に真面目であった(ように思われる)のとは大違いで、最近アレンはこのギャップのあるスタンスが気に入っているらしい。
さて、現在ジャン・カルヴァンの大著「キリスト教綱要」を読んでいるのだが、これによりキリスト教徒(やユダヤ教徒)にとって「選択」は、異教徒には想像できないくらい大きな問題であることが判った。何故なら、人間の行動は神様が基本的に決めている為、我々の考える意味での「選択」の自由がないからである。
アレンはきっと僕ら異教徒にはなかなか理解しがたい「選択」の問題を織り込んだにちがいない。実際にサルトルの「実存的選択」という言葉まで出してくる。何故、主人公が殺人を選択し、思想上では「裁判官の死」を共に願った女子大生が通報を選択するという落差が生まれたのか。カルヴァンならいとも簡単に結論を出すだろう。
本作の主人公は無神論を根本思想に据える哲学者である。これが重要。西洋では哲学が長く宗教と対立的関係にあったことを考えると、彼は神に帰依しない、従って神が保護するに値しない哲学者であるが故に最終的には罰を受けるのである。宗教に寄った結論のように見えるが、アレン御大のスタンスを考えれば、実際に皮肉を向けているのはそうした宗教側の考え方と理解できる。
個人的に、アレンの作品を40本以上見ている中で、どちらかと言えば平均以下の面白味という印象。それでも、僕が試みたように、徹底して哲学的に(特に宗教VS哲学のアングルで)見る気があれば、かなり楽しめるはず。前作「マジック・イン・ムーンライト」との間で共鳴する哲学映画と言って良いだろう。
日本は国を挙げて人文科学を排除しようという動きがある。本作のような、読解にそうした部分の教養が必要な作品を理解できる人が減っていくだろう。実学ばかり追うと、西洋人の会話についていけなくなる。
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