映画評「荊棘(ばら)の秘密」

☆☆☆★(7点/10点満点中)
2016年韓国映画 監督イ・ギョンミ
ネタバレあり

韓国映画はアイデアが豊富である。しかし、ここ10年くらい韓国映画を批評するたびに述べているように、前半喜劇、後半シリアスという泥臭い構成が映画原理的に認められない。それでも我慢して観てきたが、いつまで経っても変わらないので、3年ほど前に遂に韓国大衆映画は観ないと決心した。そういう韓国流に縛られないものは除外するが、それが期待できる監督はアート系のキム・ギドクら数名しかいない。
 本作も観る気はなかったが、脚本が例外作家の一人パク・チャヌクと知って(実際には5人のライターの一人だった。主筆か?)、観ることにした。これが大当たりだった。勿論笑わせようとするアイデアはどこにもない。これが当たり前になってくれば、韓国映画も、お話のアイデア的には今一つの日本映画より観てもいいくらいだ。

韓国の総選挙で、国会議員を目指すキム・ジュヒョクと妻ソン・イェジンが選挙運動をしている最中、高校生の娘シン・ジフンが行方不明になる。不良傾向にある娘のことだから家出とたかを括る夫君に対して、細君は娘の5万通ものメールをチェックする必死さである。
 その結果友人と思しき人物は殆ど虚構と判明、唯一本当の友人と突き止めたキム・ソヒに訊いても要領を得ないが、娘のしていた高級時計を嵌めている。二人の関係を知ると思われる担任チェ・ユファにも当たり、娘が友人と共にいじめられていた事実を掴む。
 そうこうしているうちに娘の遺体が発見される。細君は最初友人を疑うが、二人の成績がある時から急に良くなったことを不審に思い、チェ先生に当たると、二人が先生のカー・セックスをネタに試験問題を教えてもらい、挙句の果て金銭要求に走ったことが判る。
 チェ先生はその交際相手にジフンを殺してくれと頼み、その男が第三者に実行させる。その男とは彼女の父親その人である。先生は父娘を苦しめるために脅迫者の正体を告げなかったのだ。イェジンは夫を殺す寸前で解放する。

最後のほうはギリシャ悲劇かと言いたくなる不条理な悲劇性が爆発するが、「自業自得なので同情できない」「誰にも共感できない」と言う人がいる。しかし、本作に限らず、優れた悲劇作品の浮かび上がらせる悲劇性が目指すものは観客の同情や共感ではない、人間存在の不条理である。同情や共感できる作品が良い作品と思うのは安っぽいセンチメンタリズムに立脚した間違った観念である。悲劇を生み出す欲望の醜さ、母親の愛情の迫力、本作はこれに尽きる。良い映画に良い人間は必ずしも必要ではないのだ。

もう一つ本作を面白くしているのは韓国の母親像である。本作に限ったことではないが、日本の母親なら泣いて我慢するところを韓国の母親は我慢しない。日本映画で日本人が同じ行動を取ったら非難轟々になるが、どの作品でも韓国人は徹底的に自己主張する。韓国映画の母親は殆ど例外なく外面的には強い。韓国映画を見慣れない人はこれにびっくりすること請け合い。

展開には少し要領を得ないところもあるものの、今年少なからず観た邦画で本作より面白いと思われるのは2,3本くらい。本作の荊棘は括弧がないとちと読めないが、薔薇(ばら)のことで、要はレズビアンを仄めかした邦題である。僕は少女二人の関係を正統なレズビアンとは思わないですがね。彼女たちの弁解の余地のないくらい下手くそなプレ・パンク・ロック的な楽曲は歌詞、メロディーともに良い。

「儒教なんたらかんたら」というケント・ギルバートの嫌韓本が売れている。こんな本で名前を保とうとする彼に失望するが、それを好んで買う人の多さにも失望する。儒教がいかに日本の権力者を非情にしたか理解することができる、新井白石の「折たく柴の木」のほうを読んだほうが良い。白石は信じがたいほどリベラルであった。

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