映画評「素晴らしきかな、人生」
☆☆☆★(7点/10点満点中)
2016年アメリカ映画 監督デーヴィッド・フランケル
重要なネタバレあり、鑑賞予定のある未見の方、要注意です。
ほぼ同じ邦題の、フランク・キャプラが1945年に発表した「素晴らしき哉、人生!」のリメイクではないが、人生に絶望した人間をめぐるファンタジーという共通点があり、配給会社の人は内容からこの大旧作に発想が行った可能性がある。
急成長中だった広告会社の共同経営者ウィル・スミスが、2年前に6歳の娘を失って以来現実に直面することが出来ず、憔悴しきっている。会社に出てきても数日かけて作ったドミノを倒して帰って行く。ドミノには娘との思い出がある。
その結果、会社が不調に陥るが、彼の承諾なしには新展開ができないので、彼にサインをさせるか追放するしかない。そこで他の共同経営者エドワード・ノートン、ケイト・ウィンスレット、マイケル・ペーニャの三人は、採用試験の列に並んでいた最後の女性キーラ・ナイトリーのアイデアが気に入り、彼女が所属する劇団のメンバー3人に、空想世界にいるスミスが抗議の手紙を出した抽象概念“死”“愛”“時”に扮してもらうことにする。【毒をもって毒を制す】の発想である。
空想世界にいる彼はすぐに彼らに馴染み、その影響で親しいものを失った会に参加するところまでは行くが、詳細を語ることが全く出来ない。が、3人の努力がスミスをして他の3人が抱える問題に気づかせ、彼らが必要とするサインをする。それは同時に自分自身の現実を直視することであって、近親者喪失者自助グループの主たるメンバーである女性ナオミ・ハリスに娘の名前を告げる。
ファンタジー性の希薄である前半の真面目さが僕は気に入っていたので、終盤の怒濤のファンタジー的展開はやややりすぎの感を抱いたものの、二段構えのどんでん返しの意味を正確に理解できていない人が多いので、僕の考えるところを説明したい。
第一の、より大きなどんでん返しは“死”を演じたヘレン・ミレン、“愛”を演じたキーラ、“時”を演じるジェイコブ・ラティモアが本物の抽象概念、キリスト教的に言えば天使であったということである。
そこで、何故スミスだけでなく、他の3人の経営者にも彼らが見えるか、という疑問を覚える人が当然出てくる。しかるにこれは、映画をある程度きちんと観ていれば簡単に解る問題で、この3人も各々“愛”(ノートン)、“時”(ケイト)、“死”(ペーニャ)について問題を抱えていたのである。説明不足と仰る人は、単に理解不足をしているに過ぎない。
因みに、僕は、キーラの不思議な登場の仕方で「彼らは天使である」と予想がつき、“時”の少年が凄い論理を展開するところで確信を持った。
第二の、小さめのそれはナオミとスミスが実際の夫婦(或いは元夫婦)であるという事実。これはそれが判明する少し前に気づいたが、冷静に考えると彼女は名前を名乗っていないスミスにファースト・ネームで呼びかけているという伏線がある。何故彼女が他人のように彼に接するか、という疑問は、経営パートナー3人が幻想世界で勝負した療法に似る、【毒をもって毒を制す】療法という解釈で一応説明がつく。多分もう一回観れば、彼女の彼に対する表情で解るところが出てくるかもしれない。ただ、こちらはやや強引すぎるとは思い、「上手く作ったものだなあ」というところまでは行かない。
簡単な日本文も理解できない中高生が多いという記事を読んだばかり。自分の理解不足を棚に上げて【説明不足】という烙印を安易に押してはいけない。
2016年アメリカ映画 監督デーヴィッド・フランケル
重要なネタバレあり、鑑賞予定のある未見の方、要注意です。
ほぼ同じ邦題の、フランク・キャプラが1945年に発表した「素晴らしき哉、人生!」のリメイクではないが、人生に絶望した人間をめぐるファンタジーという共通点があり、配給会社の人は内容からこの大旧作に発想が行った可能性がある。
急成長中だった広告会社の共同経営者ウィル・スミスが、2年前に6歳の娘を失って以来現実に直面することが出来ず、憔悴しきっている。会社に出てきても数日かけて作ったドミノを倒して帰って行く。ドミノには娘との思い出がある。
その結果、会社が不調に陥るが、彼の承諾なしには新展開ができないので、彼にサインをさせるか追放するしかない。そこで他の共同経営者エドワード・ノートン、ケイト・ウィンスレット、マイケル・ペーニャの三人は、採用試験の列に並んでいた最後の女性キーラ・ナイトリーのアイデアが気に入り、彼女が所属する劇団のメンバー3人に、空想世界にいるスミスが抗議の手紙を出した抽象概念“死”“愛”“時”に扮してもらうことにする。【毒をもって毒を制す】の発想である。
空想世界にいる彼はすぐに彼らに馴染み、その影響で親しいものを失った会に参加するところまでは行くが、詳細を語ることが全く出来ない。が、3人の努力がスミスをして他の3人が抱える問題に気づかせ、彼らが必要とするサインをする。それは同時に自分自身の現実を直視することであって、近親者喪失者自助グループの主たるメンバーである女性ナオミ・ハリスに娘の名前を告げる。
ファンタジー性の希薄である前半の真面目さが僕は気に入っていたので、終盤の怒濤のファンタジー的展開はやややりすぎの感を抱いたものの、二段構えのどんでん返しの意味を正確に理解できていない人が多いので、僕の考えるところを説明したい。
第一の、より大きなどんでん返しは“死”を演じたヘレン・ミレン、“愛”を演じたキーラ、“時”を演じるジェイコブ・ラティモアが本物の抽象概念、キリスト教的に言えば天使であったということである。
そこで、何故スミスだけでなく、他の3人の経営者にも彼らが見えるか、という疑問を覚える人が当然出てくる。しかるにこれは、映画をある程度きちんと観ていれば簡単に解る問題で、この3人も各々“愛”(ノートン)、“時”(ケイト)、“死”(ペーニャ)について問題を抱えていたのである。説明不足と仰る人は、単に理解不足をしているに過ぎない。
因みに、僕は、キーラの不思議な登場の仕方で「彼らは天使である」と予想がつき、“時”の少年が凄い論理を展開するところで確信を持った。
第二の、小さめのそれはナオミとスミスが実際の夫婦(或いは元夫婦)であるという事実。これはそれが判明する少し前に気づいたが、冷静に考えると彼女は名前を名乗っていないスミスにファースト・ネームで呼びかけているという伏線がある。何故彼女が他人のように彼に接するか、という疑問は、経営パートナー3人が幻想世界で勝負した療法に似る、【毒をもって毒を制す】療法という解釈で一応説明がつく。多分もう一回観れば、彼女の彼に対する表情で解るところが出てくるかもしれない。ただ、こちらはやや強引すぎるとは思い、「上手く作ったものだなあ」というところまでは行かない。
簡単な日本文も理解できない中高生が多いという記事を読んだばかり。自分の理解不足を棚に上げて【説明不足】という烙印を安易に押してはいけない。
この記事へのコメント
スマホのアプリですか?と聞き返されてさらに驚いたそうで・・・知識のなさに驚くし、知らないことがあっても平気なんですな。
なんだか怖いです。
知識のなさにも、理解力のなさにも、呆れること多し。
僕は自分の頭脳のためにクイズ番組を観ますが、解答の合間に入ってくる。MCや見届け人の(お笑いではない)理解不足の反応に苦笑いが漏れることが最近よくありますよ。