映画評「誰のせいでもない」
☆☆☆(6点/10点満点中)
2015年ドイツ=カナダ=フランス=スウェーデン=ノルウェー合作映画 監督ヴィム・ヴェンダース
ネタバレあり
ヴィム・ヴェンダース久々の劇映画である。
真冬のカナダ、スランプの作家ジェームズ・フランコがそりで飛び出してきた6歳くらいの子供を轢きそうになる。その子供を目の前にある家に届けると、母親シャーロット・ゲンスブールは慌てて家から飛び出していく。弟息子がいないのだ。急な飛び出しで不可抗力、警察も気の毒がるほどであるが、罪悪感から、子供を欲しがる恋人レイチェル・マクアダムズの要望に応えられず、別れる。死なないように調整した(?)睡眠薬自殺未遂の後書き始めた新作は好調、編集者のマリー=ジョゼ・クローズと親しくなり、事実婚をする。彼女には娘がいて母親以上に気が合う模様。
再会したシャーロットは本(ウィリアム・フォークナーの「響きと怒り」)に夢中になっていた自分に責任があると遠回しに言う。数年後(事件から凡そ10年後)、事故の後(そして恐らく事故を糧に)筆が冴えて成功したフランコに対し、母親が自分を育ているのに苦労していることに人生の不条理を感じたシャーロットの息子(ロバート・ネイラー)は彼に会ってそのことを告げる。帰宅した彼はベッドに放尿されているのに発見する。家族を外に出した彼はやがて現れた少年が犯人と知るが、二人でベッドを外に出した後抱擁する。少年は去り、作家はニヤッとする。
主題が解りにくいが、紛うことなき純文学である。
邦題に関係するところでは、少なくとも警察が何のお咎めもしていないのだから、作家に事故死の責任はない。彼に問題があるとしたら、少年が婉曲的に言うように、事故をネタにかつ糧にして作家として深化を遂げたことだが、これとて本当に人間として問題なのかどうか微妙であろう。それに関連した発言が二番目の内妻マリー=ジョゼが指摘する彼の無感動(遊園地の事故の後冷静に対処)で、これも作家の言う通り精神安定の一方法なのかもしれない。主人公は子供を巡ってテキトーな遁辞を言い、再会した今は子持ちのレイチェルに三発ビンタを貰う。つまり、これらを合わせると、作家の非人情的な偽善者像が形成され、“誰もが否定できない好人物”というわけには行かない。しかし、これを責められるような人がいようか?
シャーロット扮する母親の心境はよく解る。家族は他の家族(特に子供)が不慮の事故等に遭遇すると、自分を責める傾向がある。家族故の罪悪感。これを、その時に読んでいたフォークナーの「響きと怒り」を破って火にくべる様子で表現するのは実に文学的、印象深い場面である。
依然主題に近づけないが、作家だけのお話ではなく、事故が関係者の大人4人に対し成した人生行路の変化を心情のアングルから綴ったと考えると、これが抽象的なレベルでの主題と見なすこともできようか。こういうのは本当の作家先生が分析するのが得意だ。
映画的には、終盤フランコの心象風景を表現する為に使われる撮影手法【ヴァーティゴ】が印象深い。アルフレッド・ヒッチコックが「めまい」(原題Vertigo)で使ったドリー・アウトしながらズーム・アップする(またはその逆)手法で、客観的に撮りながら対象人物の心理の急激な変化を感じさせることができるなどの効果があるが、これを最大限に生かしたくてヴェンダースは3Dで撮ったのかもしれないなどと考えたくもなる。
純文学には考える面白さがあるから、一見どんなに面白くないお話でも退屈などしている暇がないのだが、人間の内面を見つめることに興味のない人は退屈するしかないだろう。
そりと言えば(?)、女子ジャンプ高梨沙羅選手、銅メダルおめでとう。今回は4年前と違って絶対王者ではなかったから、僕も満足したし、本人も満更でもないだろう。4年後を目指すモチヴェーションになったと思う。
2015年ドイツ=カナダ=フランス=スウェーデン=ノルウェー合作映画 監督ヴィム・ヴェンダース
ネタバレあり
ヴィム・ヴェンダース久々の劇映画である。
真冬のカナダ、スランプの作家ジェームズ・フランコがそりで飛び出してきた6歳くらいの子供を轢きそうになる。その子供を目の前にある家に届けると、母親シャーロット・ゲンスブールは慌てて家から飛び出していく。弟息子がいないのだ。急な飛び出しで不可抗力、警察も気の毒がるほどであるが、罪悪感から、子供を欲しがる恋人レイチェル・マクアダムズの要望に応えられず、別れる。死なないように調整した(?)睡眠薬自殺未遂の後書き始めた新作は好調、編集者のマリー=ジョゼ・クローズと親しくなり、事実婚をする。彼女には娘がいて母親以上に気が合う模様。
再会したシャーロットは本(ウィリアム・フォークナーの「響きと怒り」)に夢中になっていた自分に責任があると遠回しに言う。数年後(事件から凡そ10年後)、事故の後(そして恐らく事故を糧に)筆が冴えて成功したフランコに対し、母親が自分を育ているのに苦労していることに人生の不条理を感じたシャーロットの息子(ロバート・ネイラー)は彼に会ってそのことを告げる。帰宅した彼はベッドに放尿されているのに発見する。家族を外に出した彼はやがて現れた少年が犯人と知るが、二人でベッドを外に出した後抱擁する。少年は去り、作家はニヤッとする。
主題が解りにくいが、紛うことなき純文学である。
邦題に関係するところでは、少なくとも警察が何のお咎めもしていないのだから、作家に事故死の責任はない。彼に問題があるとしたら、少年が婉曲的に言うように、事故をネタにかつ糧にして作家として深化を遂げたことだが、これとて本当に人間として問題なのかどうか微妙であろう。それに関連した発言が二番目の内妻マリー=ジョゼが指摘する彼の無感動(遊園地の事故の後冷静に対処)で、これも作家の言う通り精神安定の一方法なのかもしれない。主人公は子供を巡ってテキトーな遁辞を言い、再会した今は子持ちのレイチェルに三発ビンタを貰う。つまり、これらを合わせると、作家の非人情的な偽善者像が形成され、“誰もが否定できない好人物”というわけには行かない。しかし、これを責められるような人がいようか?
シャーロット扮する母親の心境はよく解る。家族は他の家族(特に子供)が不慮の事故等に遭遇すると、自分を責める傾向がある。家族故の罪悪感。これを、その時に読んでいたフォークナーの「響きと怒り」を破って火にくべる様子で表現するのは実に文学的、印象深い場面である。
依然主題に近づけないが、作家だけのお話ではなく、事故が関係者の大人4人に対し成した人生行路の変化を心情のアングルから綴ったと考えると、これが抽象的なレベルでの主題と見なすこともできようか。こういうのは本当の作家先生が分析するのが得意だ。
映画的には、終盤フランコの心象風景を表現する為に使われる撮影手法【ヴァーティゴ】が印象深い。アルフレッド・ヒッチコックが「めまい」(原題Vertigo)で使ったドリー・アウトしながらズーム・アップする(またはその逆)手法で、客観的に撮りながら対象人物の心理の急激な変化を感じさせることができるなどの効果があるが、これを最大限に生かしたくてヴェンダースは3Dで撮ったのかもしれないなどと考えたくもなる。
純文学には考える面白さがあるから、一見どんなに面白くないお話でも退屈などしている暇がないのだが、人間の内面を見つめることに興味のない人は退屈するしかないだろう。
そりと言えば(?)、女子ジャンプ高梨沙羅選手、銅メダルおめでとう。今回は4年前と違って絶対王者ではなかったから、僕も満足したし、本人も満更でもないだろう。4年後を目指すモチヴェーションになったと思う。
この記事へのコメント