映画評「沈黙 -サイレンス-」
☆☆☆☆(8点/10点満点中)
2016年アメリカ=台湾=メキシコ合作映画 監督マーティン・スコセッシ
ネタバレあり
篠田正浩が1971年に発表した最初の映画化は一作品としてなかなか立派だったが、このマーティン・スコセッシ版の方が遠藤周作の原作の言わんとしたことを正確に伝えているような気がする。
1638年、師であるフェレイラ神父(リーアム・ニースン)の棄教の真偽を調べに、イエズス会司祭のロドリゴ(アンドリュー・ガーフィールド)とガルペ(アダム・ドライヴァー)が、江戸幕府の弾圧の結果隠れキリスタンの増えた長崎を訪れ、村人に匿われながら役人の村人へのひどい扱いを見聞きして言葉を失う。やがて彼を日本に連れてきたキチジロー(窪塚洋介)に裏切られて捕えられ、番所で拷問を受け、実際に棄教していたフェレイラの言葉と、村人への拷問を見るに堪えかねて遂に踏み絵(絵踏み)を受け入れる。日本の未亡人との結婚を強制され、キリスト教禁止を国是とする江戸幕府に大いに協力した末に老齢により死ぬ。
彼は果たして本当に“転んだ”のか? というのが幕切れで、篠田作評でも書いたように、彼の棄教までの道のりを綴る間に日本におけるキリスト教信心の在り様を浮かび上がらせる内容である。
日本におけるそれは、信心のあり方を信者に強要する厳格な父権的神への信仰ではなく、外見はキリスト教信仰であっても(弱い村人に寄り添う)自然神即ち母性的神への信仰に変容していると(恐らく)遠藤は言い、スコセッシもそれに従う。隠れキリスタンは明治時代まで密かに生きてきたのであろうし、ロドリゴも神やイエスの名を唱えず祈りもしないが、見た目と違い内心その信仰は強くなったのではないだろうか。そんな余韻を残す幕切れになっている。但し、これは原作者の主題とは少し違うかもしれない。
題名の「沈黙」は神の沈黙と、弱き村人の沈黙(表面的な棄教)を指す掛詞であろう。その為日本のキリスト教は本格的に定着することはなかった。
いずれにしても、宗教と民族性の関係を扱った主題は非常に興味深く、当時の役人の仕打ちは残酷に見えながらも、経済と民族文化的側面において国を守るべくあのような政策を取った幕府の指針がよく解るように作られている。
本作は日本が舞台でも、洋画であるので英語(なんちゃってポルトガル語)のほうの分量が多い。しかし、キリスト教徒絡みのお話なのでさほど不自然ではない。方や、篠田版は外国人に日本語を多く喋らせ、日本語が聞き取りにくいという弊害を生んだ。映画の国籍が言語の扱いを微妙に変えた面白い例になったと思う。
僕の映画評も篠田作の完全なリメイクです。すみません。
2016年アメリカ=台湾=メキシコ合作映画 監督マーティン・スコセッシ
ネタバレあり
篠田正浩が1971年に発表した最初の映画化は一作品としてなかなか立派だったが、このマーティン・スコセッシ版の方が遠藤周作の原作の言わんとしたことを正確に伝えているような気がする。
1638年、師であるフェレイラ神父(リーアム・ニースン)の棄教の真偽を調べに、イエズス会司祭のロドリゴ(アンドリュー・ガーフィールド)とガルペ(アダム・ドライヴァー)が、江戸幕府の弾圧の結果隠れキリスタンの増えた長崎を訪れ、村人に匿われながら役人の村人へのひどい扱いを見聞きして言葉を失う。やがて彼を日本に連れてきたキチジロー(窪塚洋介)に裏切られて捕えられ、番所で拷問を受け、実際に棄教していたフェレイラの言葉と、村人への拷問を見るに堪えかねて遂に踏み絵(絵踏み)を受け入れる。日本の未亡人との結婚を強制され、キリスト教禁止を国是とする江戸幕府に大いに協力した末に老齢により死ぬ。
彼は果たして本当に“転んだ”のか? というのが幕切れで、篠田作評でも書いたように、彼の棄教までの道のりを綴る間に日本におけるキリスト教信心の在り様を浮かび上がらせる内容である。
日本におけるそれは、信心のあり方を信者に強要する厳格な父権的神への信仰ではなく、外見はキリスト教信仰であっても(弱い村人に寄り添う)自然神即ち母性的神への信仰に変容していると(恐らく)遠藤は言い、スコセッシもそれに従う。隠れキリスタンは明治時代まで密かに生きてきたのであろうし、ロドリゴも神やイエスの名を唱えず祈りもしないが、見た目と違い内心その信仰は強くなったのではないだろうか。そんな余韻を残す幕切れになっている。但し、これは原作者の主題とは少し違うかもしれない。
題名の「沈黙」は神の沈黙と、弱き村人の沈黙(表面的な棄教)を指す掛詞であろう。その為日本のキリスト教は本格的に定着することはなかった。
いずれにしても、宗教と民族性の関係を扱った主題は非常に興味深く、当時の役人の仕打ちは残酷に見えながらも、経済と民族文化的側面において国を守るべくあのような政策を取った幕府の指針がよく解るように作られている。
本作は日本が舞台でも、洋画であるので英語(なんちゃってポルトガル語)のほうの分量が多い。しかし、キリスト教徒絡みのお話なのでさほど不自然ではない。方や、篠田版は外国人に日本語を多く喋らせ、日本語が聞き取りにくいという弊害を生んだ。映画の国籍が言語の扱いを微妙に変えた面白い例になったと思う。
僕の映画評も篠田作の完全なリメイクです。すみません。
この記事へのコメント
本作に関しては
ちょっとスコセッシを見直した感です。^^
特に観る前は不安だった、日本人俳優の
使い方が、とても巧く作用して役者さんたちが
みな生き生きと演技をしていたような気がします。
人間観察はもちろんその精神性に最も肉薄する
信仰というこのような題材に根ざした映画を
鑑賞していきたいなと思います。
1年前の拙記事、URLに忍ばせて参りました。
>スコセッシを見直した感
僕もスコセッシは絶賛したことはないのですが、「最後の誘惑」のように脂ぎった感じなく、原作の内容が素直に映画化されていましたね。仰る通り、日本人の俳優が良かった。
自然音を取り込んだのも日本的な感じを強めていました。スコセッシは今村昌平が好きで日本映画に詳しいですから、そういうこともよく理解していたのでしょう。
>人間観察はもちろんその精神性に
最近そういう映画が少ないですよね。邦画はコミック、アメリカ映画はアメコミとYA小説の映画化という、YA向けの作品が多くて、かなりうんざりしています。
欧州映画はまともに公開されることが減っていますし。
公開時に観に行きましたが、キリスト教系と思われる信者の人たちが大勢の団体で来ていましたよ。
溝口を意識した構図があったりして楽しめましたが、残念だったのはもはやロケ地に日本で使えるところがなかったことですね。
ではまた!
>キリスト教系と思われる信者
宗教に対して疑問(あくまで疑問であって否定ではありませんが)を沈潜させたこういう作品を観て、彼らは何を思うのでしょうか興味ありますね。
>ロケ地に日本で使えるところがなかった
そこで台湾になったわけですが、為に隆大介が台湾で逮捕されて降板したり、建物倒壊で死者が出たり、難儀が続きましたね。さもなければ、もっと早く公開されたでしょう。