映画評「ヒッチコック/トリュフォー」
☆☆☆★(7点/10点満点中)
2015年アメリカ=フランス合作映画 監督ケント・ジョーンズ
ネタバレあり
僕の映画好きは人後に落ちないと思うが、あくまで現物主義で、映画関連の本は余り読まない。そんな僕でも「映画術 ヒッチコック/トリュフォー」は買った。アルフレッド・ヒッチコックが好きで、その面白さがどこにあるか知りたかったからである。インタビュアーのフランソワ・トリュフォーも(監督として)好きだから、なおさらである。但し、“映画批評家”トリュフォーはフランスの偉大な先人ジュリアン・デュヴィヴィエなどに関して大いなる勘違いをしていたと思っている。それでも、ヒッチコック映画に関する分析・理解には頷けるところが多く、ヒッチコック本人がその分析・指摘に「そうかもしれないな」と反応する辺り感心させられたものである。
本作は、そのインタビュー音源を元に、米(マーティン・スコセッシ、ウェス・アンダースン、ポール・シュレーダー、ピーター・ボグダノヴィッチ、リチャード・リンクレイター、デーヴィッド・フィンチャー)、仏(オリヴィエ・アサイヤス、アルノー・デプレシャン)、日本(黒沢清)の監督たちが言わば補足的解説を加えていく形で作られたドキュメンタリーで、1999年に作られた、ヒッチコック映画の秘密とその人に接近するドキュメンタリー「ヒッチコック 天才監督の横顔」(ここにもボグダノヴィッチ登場)より、ぐっとニッチな感があり、良し悪しとなっている。
上映時間が80分と短く、分析をするのが程度の差こそあれヒッチコッキアンの映画監督ばかりである(にも拘わらず、自作で最もヒッチコックを再現したブライアン・デ・パルマが出て来ない)ので、結果的に、ヒッチコッキアン以外の人に反感を覚えさせかねないところが出て来てしまった。僕自身ヒッチコックがご贔屓だから、そうなるのは却って残念である。
ヒッチコックは「時間と空間を自由に扱った」「一般的なハリウッド監督と違って映画作家であった」と、登場してくる監督たちが異口同音に言うのはその通り。
また、スコセッシとフィンチャーが昨今の映画を批判して「視覚的なクライマックスの連続で、ストーリーも何もあったものじゃない(作品が多い)」と言っているのは一般論として正しい。それに応じて観客の理解力も下がっているから、ヒッチコックのように前半に布石と伏線という情報を丹念に散りばめ、後段に進んでいくような作品は特にその前半部分において退屈してしまうだろう。そんな輩に観てもらっても有難迷惑になるだけなので、観てもらわずとも結構でござんす。
ヒッチコックの言葉の中で僕が感動するのは、「観客を本当に感動させるのは、メッセージでもなく、俳優の名演技でもなく、原作小説の面白さでもない。純粋に映画そのものだ」と言う箇所。
恐らく世界的にそうであろうが、メッセージの有無若しくは高級低級により映画を評価するムキがあり(だからヒッチコックはかつて特にアメリカで評価されなかった。「北北西に進路を取れ」の無意味さを見よ)、あるいは、原作と比較し違うことを以って映画版を貶すことが多い。僕は、そうした風潮に若い頃から批判的であったし、ヒッチコックの言を知ってからなおさらそう思うようになった。この映画でもその言葉を聞くことができる。この映画を観る人が、これを聞き洩らさなければ僕は満足だ。
動くアルマ・レヴィル(ヒッチコック夫人)が観られて幸せです。
2015年アメリカ=フランス合作映画 監督ケント・ジョーンズ
ネタバレあり
僕の映画好きは人後に落ちないと思うが、あくまで現物主義で、映画関連の本は余り読まない。そんな僕でも「映画術 ヒッチコック/トリュフォー」は買った。アルフレッド・ヒッチコックが好きで、その面白さがどこにあるか知りたかったからである。インタビュアーのフランソワ・トリュフォーも(監督として)好きだから、なおさらである。但し、“映画批評家”トリュフォーはフランスの偉大な先人ジュリアン・デュヴィヴィエなどに関して大いなる勘違いをしていたと思っている。それでも、ヒッチコック映画に関する分析・理解には頷けるところが多く、ヒッチコック本人がその分析・指摘に「そうかもしれないな」と反応する辺り感心させられたものである。
本作は、そのインタビュー音源を元に、米(マーティン・スコセッシ、ウェス・アンダースン、ポール・シュレーダー、ピーター・ボグダノヴィッチ、リチャード・リンクレイター、デーヴィッド・フィンチャー)、仏(オリヴィエ・アサイヤス、アルノー・デプレシャン)、日本(黒沢清)の監督たちが言わば補足的解説を加えていく形で作られたドキュメンタリーで、1999年に作られた、ヒッチコック映画の秘密とその人に接近するドキュメンタリー「ヒッチコック 天才監督の横顔」(ここにもボグダノヴィッチ登場)より、ぐっとニッチな感があり、良し悪しとなっている。
上映時間が80分と短く、分析をするのが程度の差こそあれヒッチコッキアンの映画監督ばかりである(にも拘わらず、自作で最もヒッチコックを再現したブライアン・デ・パルマが出て来ない)ので、結果的に、ヒッチコッキアン以外の人に反感を覚えさせかねないところが出て来てしまった。僕自身ヒッチコックがご贔屓だから、そうなるのは却って残念である。
ヒッチコックは「時間と空間を自由に扱った」「一般的なハリウッド監督と違って映画作家であった」と、登場してくる監督たちが異口同音に言うのはその通り。
また、スコセッシとフィンチャーが昨今の映画を批判して「視覚的なクライマックスの連続で、ストーリーも何もあったものじゃない(作品が多い)」と言っているのは一般論として正しい。それに応じて観客の理解力も下がっているから、ヒッチコックのように前半に布石と伏線という情報を丹念に散りばめ、後段に進んでいくような作品は特にその前半部分において退屈してしまうだろう。そんな輩に観てもらっても有難迷惑になるだけなので、観てもらわずとも結構でござんす。
ヒッチコックの言葉の中で僕が感動するのは、「観客を本当に感動させるのは、メッセージでもなく、俳優の名演技でもなく、原作小説の面白さでもない。純粋に映画そのものだ」と言う箇所。
恐らく世界的にそうであろうが、メッセージの有無若しくは高級低級により映画を評価するムキがあり(だからヒッチコックはかつて特にアメリカで評価されなかった。「北北西に進路を取れ」の無意味さを見よ)、あるいは、原作と比較し違うことを以って映画版を貶すことが多い。僕は、そうした風潮に若い頃から批判的であったし、ヒッチコックの言を知ってからなおさらそう思うようになった。この映画でもその言葉を聞くことができる。この映画を観る人が、これを聞き洩らさなければ僕は満足だ。
動くアルマ・レヴィル(ヒッチコック夫人)が観られて幸せです。
この記事へのコメント
さすがに動くヒッチ先生とトリュフォーを見ると胸が熱くなってきましたよww
真摯に映画と向き合い、楽しい作品に作り上げる姿勢は最近の映画には見られなくなってしまい、非常に残念です。
>無意味
そこがいいんじゃない!と言いたくなりますww
ではまた!
>動くヒッチ先生とトリュフォーを見ると
そうですよねえ。
単独では見ることがあっても、あの二人が一緒にいる歴史的事件を見た人は、殆どいないわけですしねえ。
動くアルマ・レヴィルに感激しました。前にも見たかもしれませんが、忘れました。
これに感激したのは世界広しと雖も、僕くらいしかいないかもしれませんが(笑)
>真摯に映画と向き合い
それを批判していたのが、スコセッシとフィンチャーでしたね。
それと関連ありそうな話で、新年に姉夫婦が訪れた時に、「映画ファンが観るような映画が減っていて、有料プログラム等で観る人が周囲に多い」と義兄に話したら、甥(姉夫婦の息子ではない方の甥)が口を挟んで「それは逆」と抜かしおった。彼は「有料プログラムで観る人なんかいない」と言うわけです。
彼のリテラシー不足に呆れ返りましたね。僕が言ったのは、映画ファンが観る映画がない→映画ファンは映画館に行く回数が減った=今映画館に行くのは主にミーハー、ということなのです。これのどこが現実と逆なのでしょう?
>無意味
無意味なほど良いとは言いませんが、メッセージの高級性で感動したいなら難しい専門書でも読めば良いのではないかと思いますね。
僕の私淑する双葉先生が、核批判をしたと評価されることもある「キッスで殺せ」を褒めていない(のは核批判を理解していないから)と批判する人がいましたが、あの映画の核批判など映画としては大したことはありません。そんなことでハードボイルド映画を評価する方がおかしいのです。
>ミーハー
ぼくはいまでも劇場に通い、ああだこうだ書いていますが、「面白かった!」「かわいかった!」レベルから卒業し、一生付き合う趣味として見ていくきっかけになってくれれば良いかなあと思いながら、新作を書くことが増えています。まあ、余計なお世話でしょうがねww
>ハードボイルド
スパイス程度に入っているものを拡大解釈されると違う方向に評価されるので鬱陶しいですし、権威を利用しようとしている輩にとって都合が悪いと突然態度を変えて批判する奴らはねえ…。
ではまた!
>>ミーハー
彼等も時には正鵠を射ることもあって、大衆映画はその延長で理解していくべきだと思いますが、余りに程度が低く、10%くらいしか理解していない要素から映画を批判するのを見たりすると、我がことのように腹が立ってきます。
用心棒さんも、僕も、正しい映画観を持ってほしいと映画評を書いてきたわけですが、なかなか思ったようには行きません。大体ミーハーはまともな映画評は読みません。ここへ定期的に来られる方は既にお解りの方ばかりです。
>「キッスで殺せ」
ついでに申しておきますと、双葉師匠が観た当時の「キッスで殺せ」は大分カットされていて、探偵が追っている物質が核かどうか定かに理解できないバージョンだったと思います。それをきちんとしたバージョンを観た彼らが批判することは本来できません。どちらにしても、双葉師匠は大人ですから、核批判がベースにあると解っても、それを以ってハードボイルド映画を褒めるなどといった青臭いことはしなかったと思いますが。
幾人かのコメントを全体ではなく、自分にとって都合の良いところだけ切り貼りして出来上がったフランケンシュタインの怪物のような“意見”を振り回す者もいるようです。
>バージョン
これけっこう深刻で、あとになって完全版なるバージョンを見た人たちが、ぼくらが見ていた公開時のものへの感想を浅いとか、理解していないとか批判されてもどうしようもないですね。
完全版と言われるモノがなぜ公開時に未公開シーンがカットされていたのかという理由を考えるべきでしょうね。ダラダラ続くのに飽きるだろうからカットしていたり、くど過ぎるからカットされていたり、劇場で観る観客を重視するのが映画会社なので、DVDなどの二次鑑賞は家でリラックスしながら見るわけで、本来想定している環境ではありません。家で見るなら、少々時間が長くても大丈夫でしょうが、他人が横にいる状況でダラダラされるとツラいですww
ではまた!
>分にとって都合の良いところだけ切り貼りして
僕にも思い当たるブログがあります。
>公開時に未公開シーンがカットされていたのか
>という理由を考えるべきでしょうね。
これ、大事ですね。
「キッスで殺せ」では核の扱いに問題があったのでしょう。
しかし、反核については、原作の扱った麻薬が当時のヘイズ・コードで扱えなかったので、脚本家が当時問題になっていた核に変えただけというのが真相らしい。
当時はプロデューサーが複雑怪奇な展開に「訳が解らん」と言い、日本の評論家も「解らん」と言ったところを、双葉師匠は「観客がスピードをもって見れば理解できる」と寧ろ擁護しているんですけどね。それをきちんと理解されていない。余りにテキトーに批判されていたので頭に来たのを憶えています。
たとえば原稿用紙でいうと10枚を超える文字数の文章を書いても
内容などは全くの二の次で、たった1文字の間違いなどを
鬼の首でも取ったように非難してくる輩には呆れてしまいます。
こういう人たちって、おそらくあちこちのブログなどを行き来して
文句を言っているだけで、自分自身のサイトなどは無いのでしょうね。
自身で管理していたら、バグみたいなコメントは鬱陶しいと理解できますものね。
ではまた!
その類は相手にしないことですね。
当方ではないですが、映画のストーリーに軽く触れているだけで「映画を語る資格もない」くらいの調子で、書きなぐっている輩を見ましたよ。色々なブログに同じようなことを書いているらしい。大半の映画はネタバレして問題にはならないし、僕は内容分析に必要なのでかなりのところまでストーリーを書いています。そもそも自分の言葉で物語を綴れるということは、映画を一定以上理解しているということだと思っていますよ。
当方にもかつては色々と文句を言ってくる連中がいましたが、最近は大人しいものです。
流行りの言葉で言えばリテラシーの低い人に限って文句を言ってきますね。
見た目と真相が違う場面で、どんでん返しという映画の構成上、真相を隠して見た目で物語を綴ったら、「あんた、本当に観たの?」と来ました。そういうその方は映画の狙いが解っていないのだろうと思いましたね。これは一応反論したように思います。
ストーリーだけを追うならば、小説を読んだらどうでしょう!って感じです。
かなり前にもこういうお話をした記憶がありますww
映像で感情や意志を伝えなければならない映画という媒体ではすべてを語り切れない部分もありますし、言葉にしてしまうと野暮な部分を表情やしぐさ、構図や音楽で表現できる良さもあるので、それぞれを楽しめば良いのにと思います。
>リテラシー
いわゆる読み書き能力ですね。何かを語る時に必要な共通基盤の理解力ともいえるかもしれません。映画は懐かしの言葉でいうと第七芸術!ですものねww
音楽、絵画、建築、彫刻、文学、演劇に並ぶ新たなというか複合芸術ですから、必要なリテラシーは分解すると奥が深い。でも本来は誰でも楽しめるはずのもの。6つのうちのどれかがハマれば好きになるのでしょうかね?
ではまた!
>ストーリーだけを追うならば
そういう輩が多いのですよ。僕のように、揺れるカメラ(厳密には揺らすカメラ)は映画言語上おかしいのでやめるべきだ、なんて言っている人は、本当に少ない。
それでも、映画ガイドでもあるので、本ブログでは採点を一番上に載せています。
例えば、観たい作品だがストーリーは知りたくない。僕を信用する人ならば、僕の採点で観る・観ないを決めることができるかもしれないと思うからです。自分と感性の誓い人にはかなり役立つと思うわけです。「点が低いから観ないことにして、この映画評を読んでみる」。しかし、ストーリー上は面白そうだからやっぱり観てみようか。それで良いではないですか。
映画は採点などできないと仰るひともいらっしゃいます。厳密にはできませんが、信じてくれる読者がいるのであれば、やる価値があります。映画サイトでテキトーに星を付けている連中と、その辺りの覚悟が僕らは違うはずです。
>リテラシー
ある映画評で書いたように、映画の評価の原則を知っているのに作者の狙いを正しく理解していないがために、それが生かされていない人がいます。
生まれつきの理解力に差があるのはやむを得ないですが、経験を踏めばどんどんリテラシーは増していくはずなので、精進してほしいものです。
集中力が足りないほうなので僕の個々の理解などたかが知れていると思いますが、作者の狙いはかなり正確に捉えることができているような気がします。
余り大きなことを言うと、呆れ返られてしまいますから、この辺にしておきましょう(笑)