「太陽がいっぱい」の原作「リプリー」は本当にゲイの小説であるか
先日ブログ友達のnesskoさんが自身のブログ【一人でお茶を】にて「太陽がいっぱい」を取り上げた。nesskoさんは、故淀川長治氏が同性愛説を唱えているが、この説に囚われない方が面白く観られるのではないか、と書かれている。僕は「その旨に異論はないけれども、淀川氏の勘の良さは認めたい。何となれば原作の「リプリー」がゲイである設定をしているから」という旨を書き込んだ。しかし、書き込んだ後nesskoさんのレスを読むに及び、実は「リプリー」が未読で、かつて雑誌等に載っていた情報を伝聞したに過ぎない僕は「不確かな情報を書いたのは失敗」と大いに反省。原作に近いと言われる「リプリー」も観てはいるし、全くの嘘ではないにしても、余りの断言調はまずかったという思いを抱いたのである。
そこで実際原作はどうなっているかと確認してみようと図書館から借りて来た。数年前から読もうと思ってもいたから、大古典中心の読書予定を変えたとは言え、良い機会になった。
小説「リプリー」では、何と始まって2ページ目で主人公トム・リプリーは、自分の様子を伺う男を「ゲイか刑事か。簡単に追い払えるからゲイなら良いが」と思う。ここで作者パトリシア・ハイスミスは彼をストレートに見せかける。しかし、彼が純然たるストレート青年であれば、わざわざそんなことを考えさせないのが常識であろう。寧ろこの彼の心理を置いたことで彼の逆の性的指向を僅かに伺わせるのである。
男はトムの学生時代の知人リチャード(ディッキー)・グリーンリーフの父親と判明、イタリアにいる息子を連れ戻して欲しいと彼に頼む。かくしてトムは幾ばくかのお金をもらってイタリアへ渡るのである。「太陽がいっぱい」は彼がイタリアについて数日後くらいのところから始まる。「太陽がいっぱい」ではリチャードはフィリップと名前を変えられている。僕は、監督をしたルネ・クレマンたちが原作とは違う種類の物語にする意思表示だったのかもしれないと考える。
父親はトムにヘンリー・ジェームスの小説「使者たち」を読んだら良いと言う。僕はこの小説を昨年読んだばかりだからピンと来た。実業家が事業を継がない息子に対し使者を彼のいるフランスに送り、連れ戻そうとするお話である。かの小説の主人公はやはりその使者で、主人公の心理がもの凄く緻密に描出され、傑作と言うべき作品と感心したものである。
つまり、ハイスミスは彼女なりの「使者たち」を書こうとしたのだろう。トムの主観を地の文で表現する趣向(主観的客観)もほぼ同じである。「使者たち」の使者はミイラ取りがミイラになってやはり目的が果たせないし、こちらのトムは相手を殺してしまう。
さて、リチャードと名前は違うが放蕩息子の基本的な性格はさほど映画と変わらない。しかし、一番原作に近い人物像なのは彼の婚約者とされるマージュである。但し、彼女は体格の良いアメリカ女性となっている原作に対し、「太陽がいっぱい」のマージュがどこの国の人物か曖昧。マージュ(若しくはマルジュ)はフランス語読みだからフランス語で語られる映画では判然としない。しかし、ディッキーならぬフィリップの「両親が彼女のことを心配している」という台詞があるので、やはり原作通りアメリカ人なのであろう。
小説でも映画でもトムはリチャード(フィリップ)の生前彼の服を着て彼を演ずる。それを持ち主が非難するのも同じ。しかし、主人公の心理はまるで逆なのである。映画ではトムは鏡に向かってほぼ実際のフィリップの如く「マージュ、お前を捨てはしないよ」と言う。小説のトムは「マージ、別れてくれ」と言って首を絞める格好をする。
映画のトムは、つまり、裕福なフィリップの立場・環境に純粋に憧れている。彼に成り代わってマージュを自分のものにしたいと思う。他方、小説のトムは「マージがいなくなれば良い」という自分の願望をリチャードの恰好で言わせる。二人の人物が合体するが如き印象である。この場面を比べれば、一般の人は映画のトムはストレート、小説の彼はゲイであると思うに違いない。
しかし、淀川氏は恐らくフィリップの服を着ることの多いトムを見て、ゲイの傾向を読み取ったのではないだろうか(*)。クレマンらは原作にある主人公の傾向をひた隠しにしようとしたが、それがこの一連の場面に出てしまったのではないか。僕は大半の人がそう思うであろうように、ストレートにしか見えないのだが。
(*)ある人が「淀川長治 究極のベスト100」という著書の中で根拠を述べていると言っている。かの人は自分の思っていたのとは全然違う箇所だったと言っているので、多分僕も大外れでしょう(笑)。幸い図書館の支所にあるらしいので、後日読んで報告致します。しかし、来月から暫く別の図書館通いが始まるので、暫く先になります。悪しからず。nesskoさんの文章を読み直したら、この本を既に読まれている模様。大体想像がつきますが、nesskoさんにおかれてはこの箇所に関し僕が読むまで緘口していてくださいませ。
トムが自分の服を着ているのを見たリチャードは「マージはお前をゲイだと言っている」と軽蔑したように言い放つ。トムはかつてセラピー通いの友人たちに「自分でも女が好きなのか男が好きなのか解らないんだ」と言ったことを思い出す。これは彼がその友人の中にゲイがいて調子を合わせただけなのだが、ハイスミスはここでも彼の本音を建前にすり替えるという作戦を取ったと思う。
彼はリチャードを独占したいが故にマージの方を殺したいのだが、自分でもはっきりしない傾向を指弾し軽蔑的な態度を取るリチャードを許せずに殺す。映画のトムは恐らく鏡の前で彼の服を着て演技をした時既に殺害を考えていたように思うが、小説のトムは突発的に犯行に及んだに過ぎない。その後の彼の行動も殆ど出たとこ勝負で、「太陽がいっぱい」のトムのように、列車の時刻表を見て計画的に一人二役を演じたりはしない。
小説では、マージが彼の犯行を怪しんでいるかもしれないと危惧し彼女を殺そうとトムは思う。実際には彼女は全く勘づいていなかったのだが、その際に彼は思うのである。「マージが(殺して)いなくなれば、ディッキーと永遠に一緒にいられる」と。トム本人はあくまで友人と主張する。常識的に、親友とは長く話をしたいなどと思うものの、ずっと一緒にいたいと思うことはない。そういう思いは友人の関係を超えている。
かくして、ディッキーはストレートだが、トムがゲイであることはほぼ間違いない。作者が普通のスリラー小説に見える作品の中で5回ほどもゲイという言葉を使うことから推しても極めてその可能性が高い(僕が読んだのは1990年代以降の比較的新しい訳なので原語ではgayという単語を使っていないかもしれない。同時に、gayが同性愛者を指すこと自体は小説の書かれた1950年代半ばに既にあったことも事実)。
一方 彼は自分の性的指向が判然としないと深層心理的に思っていたかもしれないわけだが、それは同性愛が犯罪と見なされた時代故の無意識な防衛本能と推測する。カミング・アウトしないゲイを“クローゼット”と言うが、彼は“クローゼット”までも行っていない。しかし、ゲイであろう。
この小説自体が、ゲイ青年の物語であることを半ば隠すように書かれたと僕は思うわけで、謂わば“クローゼット”のゲイ小説と言って良いような気がするのである。
そこで実際原作はどうなっているかと確認してみようと図書館から借りて来た。数年前から読もうと思ってもいたから、大古典中心の読書予定を変えたとは言え、良い機会になった。
小説「リプリー」では、何と始まって2ページ目で主人公トム・リプリーは、自分の様子を伺う男を「ゲイか刑事か。簡単に追い払えるからゲイなら良いが」と思う。ここで作者パトリシア・ハイスミスは彼をストレートに見せかける。しかし、彼が純然たるストレート青年であれば、わざわざそんなことを考えさせないのが常識であろう。寧ろこの彼の心理を置いたことで彼の逆の性的指向を僅かに伺わせるのである。
男はトムの学生時代の知人リチャード(ディッキー)・グリーンリーフの父親と判明、イタリアにいる息子を連れ戻して欲しいと彼に頼む。かくしてトムは幾ばくかのお金をもらってイタリアへ渡るのである。「太陽がいっぱい」は彼がイタリアについて数日後くらいのところから始まる。「太陽がいっぱい」ではリチャードはフィリップと名前を変えられている。僕は、監督をしたルネ・クレマンたちが原作とは違う種類の物語にする意思表示だったのかもしれないと考える。
父親はトムにヘンリー・ジェームスの小説「使者たち」を読んだら良いと言う。僕はこの小説を昨年読んだばかりだからピンと来た。実業家が事業を継がない息子に対し使者を彼のいるフランスに送り、連れ戻そうとするお話である。かの小説の主人公はやはりその使者で、主人公の心理がもの凄く緻密に描出され、傑作と言うべき作品と感心したものである。
つまり、ハイスミスは彼女なりの「使者たち」を書こうとしたのだろう。トムの主観を地の文で表現する趣向(主観的客観)もほぼ同じである。「使者たち」の使者はミイラ取りがミイラになってやはり目的が果たせないし、こちらのトムは相手を殺してしまう。
さて、リチャードと名前は違うが放蕩息子の基本的な性格はさほど映画と変わらない。しかし、一番原作に近い人物像なのは彼の婚約者とされるマージュである。但し、彼女は体格の良いアメリカ女性となっている原作に対し、「太陽がいっぱい」のマージュがどこの国の人物か曖昧。マージュ(若しくはマルジュ)はフランス語読みだからフランス語で語られる映画では判然としない。しかし、ディッキーならぬフィリップの「両親が彼女のことを心配している」という台詞があるので、やはり原作通りアメリカ人なのであろう。
小説でも映画でもトムはリチャード(フィリップ)の生前彼の服を着て彼を演ずる。それを持ち主が非難するのも同じ。しかし、主人公の心理はまるで逆なのである。映画ではトムは鏡に向かってほぼ実際のフィリップの如く「マージュ、お前を捨てはしないよ」と言う。小説のトムは「マージ、別れてくれ」と言って首を絞める格好をする。
映画のトムは、つまり、裕福なフィリップの立場・環境に純粋に憧れている。彼に成り代わってマージュを自分のものにしたいと思う。他方、小説のトムは「マージがいなくなれば良い」という自分の願望をリチャードの恰好で言わせる。二人の人物が合体するが如き印象である。この場面を比べれば、一般の人は映画のトムはストレート、小説の彼はゲイであると思うに違いない。
しかし、淀川氏は恐らくフィリップの服を着ることの多いトムを見て、ゲイの傾向を読み取ったのではないだろうか(*)。クレマンらは原作にある主人公の傾向をひた隠しにしようとしたが、それがこの一連の場面に出てしまったのではないか。僕は大半の人がそう思うであろうように、ストレートにしか見えないのだが。
(*)ある人が「淀川長治 究極のベスト100」という著書の中で根拠を述べていると言っている。かの人は自分の思っていたのとは全然違う箇所だったと言っているので、多分僕も大外れでしょう(笑)。幸い図書館の支所にあるらしいので、後日読んで報告致します。しかし、来月から暫く別の図書館通いが始まるので、暫く先になります。悪しからず。nesskoさんの文章を読み直したら、この本を既に読まれている模様。大体想像がつきますが、nesskoさんにおかれてはこの箇所に関し僕が読むまで緘口していてくださいませ。
トムが自分の服を着ているのを見たリチャードは「マージはお前をゲイだと言っている」と軽蔑したように言い放つ。トムはかつてセラピー通いの友人たちに「自分でも女が好きなのか男が好きなのか解らないんだ」と言ったことを思い出す。これは彼がその友人の中にゲイがいて調子を合わせただけなのだが、ハイスミスはここでも彼の本音を建前にすり替えるという作戦を取ったと思う。
彼はリチャードを独占したいが故にマージの方を殺したいのだが、自分でもはっきりしない傾向を指弾し軽蔑的な態度を取るリチャードを許せずに殺す。映画のトムは恐らく鏡の前で彼の服を着て演技をした時既に殺害を考えていたように思うが、小説のトムは突発的に犯行に及んだに過ぎない。その後の彼の行動も殆ど出たとこ勝負で、「太陽がいっぱい」のトムのように、列車の時刻表を見て計画的に一人二役を演じたりはしない。
小説では、マージが彼の犯行を怪しんでいるかもしれないと危惧し彼女を殺そうとトムは思う。実際には彼女は全く勘づいていなかったのだが、その際に彼は思うのである。「マージが(殺して)いなくなれば、ディッキーと永遠に一緒にいられる」と。トム本人はあくまで友人と主張する。常識的に、親友とは長く話をしたいなどと思うものの、ずっと一緒にいたいと思うことはない。そういう思いは友人の関係を超えている。
かくして、ディッキーはストレートだが、トムがゲイであることはほぼ間違いない。作者が普通のスリラー小説に見える作品の中で5回ほどもゲイという言葉を使うことから推しても極めてその可能性が高い(僕が読んだのは1990年代以降の比較的新しい訳なので原語ではgayという単語を使っていないかもしれない。同時に、gayが同性愛者を指すこと自体は小説の書かれた1950年代半ばに既にあったことも事実)。
一方 彼は自分の性的指向が判然としないと深層心理的に思っていたかもしれないわけだが、それは同性愛が犯罪と見なされた時代故の無意識な防衛本能と推測する。カミング・アウトしないゲイを“クローゼット”と言うが、彼は“クローゼット”までも行っていない。しかし、ゲイであろう。
この小説自体が、ゲイ青年の物語であることを半ば隠すように書かれたと僕は思うわけで、謂わば“クローゼット”のゲイ小説と言って良いような気がするのである。
この記事へのコメント
この記事読んで、そんなことを思いだしました。小説「リプリー」発表当時は、まだ同性愛というのがスリラー小説ではふつうに出せなかったというのも関係しているのでしょうか、それに加えて、ハイスミスの性格や人の見方の傾向も重なって、ちょっとサイコ寄りの人物像にされているみたいですね。「太陽がいっぱい」だと、モーリス・ロネのほうがちょっとゲイみたいにトムに関心を持っているように見えて、アラン・ドロンはきれいだけどゲイには見えないのですけど、原作は逆なのですね。「太陽がいっぱい」はルネ・クレマンの作品ということになるのかな。
実は月曜日頃にアップしようと思っていたのですが、推敲中に間違えて送信してしまいました。
発表した記事は削除できない仕組みなので、慌てて最小限の修正をしました。
>同性愛というのがスリラー小説ではふつうに出せなかった
そういう配慮がなされているように思いましたね。ご指摘のように、それがトム・リプリーの変な性格設計になったように覆います。
>モーリス・ロネのほうがちょっとゲイみたい
どちらがそうかと問われれば、僕もそう感じます。どこか変な風にぎらぎらしていますしね。日本で再映画化すれば、リチャード(フィリップ)役は若い時の山崎努が良さそう。トム・リプリーは誰が良いかな。
映画「太陽がいっぱい」が同性愛映画だというのは、吉行淳之介と淀川先生の対談で読んで知りましたが、対談では吉行は否定。吉行ファンだったぼくはやはり(映画の中では)否定派でした。
ですから、プロフェッサーの仰るクレマンらが(同性愛色を)ひた隠しに・・というのは正しいと思いますね。男根を表すディックを使用しなかったのもその為でしょう。
原作を読まずにピンクや百合の花(これもレズビアンの象徴)模様のシャツを着替えるドロンを見て喝破した淀長さんは天晴れですが、
ぼくはやはり、「陽のあたる場所」を求めて挫折した主人公を描く犯罪映画の金字塔として観たいなぁ(笑)
一時的な人気でしたが太田博之とかはどうでしょうね?長谷川博巳が、もう少し若ければ出来たかも・・。
>ラストのスクリュー
僕など、あのスクリューにより、二人の手が重なるかに見えるオーヴァーラップを、さも自分の発見のように思い込んでいますが、多分どこかで淀川さんの文章を読むか、あるいはラジオで聞くかして、刷り込まれているのかもしれません。
>ディック
僕としたことが、これはうっかりしましたよ。
ハイスミスがリチャードではなく愛称ディッキーとしか表記しないのも、確信犯的なものだったか!
>「陽のあたる場所」
「陽のあたる場所」のフランス版(関係者はアメリカ人という設定とは言えど)が「太陽がいっぱい」であると、僕はずっと言ってきました。湖上の殺人(厳密には未必の故意)と海上での殺人という呼応関係。クレマンはこの作品を観ていたでしょうか?(或いは原作「アメリカの悲劇」を読んでいたか?)
この二作ほど青春の野心が挫折する悲しさを感じさせるものはありませんものね。僕も、浅野さんと全く同意。
>夢の映画館
動いている太田博之は、余り記憶にないんですよねえ。何本か映画は観ているし、ドラマでもお目に掛かっているはずですが。
長谷川博巳は色気はあるが、過剰か?(笑) 幻想映画館は年齢は自在ですから大丈夫です(笑)
色気と演技力に物足りないものがあるものの、悲劇性を漂わす赤木圭一郎なんか面白いかも? まあ彼は野望絡みの殺人をするような人物はやりませんが。
日活アクションには「シェーン」「第三の男」など有名洋画をパクった作品が相当ありますが、「太陽がいっぱい」はなかったですかねえ。「冒険者たち」のパクリ的作品は1970年代(の作品)に、似た感覚の作品を幾つか観ましたが。