映画評「家族の肖像」
☆☆☆☆★(9点/10点満点中)
1974年イタリア=フランス合作映画 監督ルキノ・ヴィスコンティ
ネタバレあり
元々日本では人気のあったルキノ・ヴィスコンティ監督だが、この作品でブームが起き、長すぎてお蔵入りだった「ルードウィヒ 神々の黄昏」(完全版の邦題は「ルートヴィヒ」)が公開され、ミニシアターが幾つも作られることに貢献した。テレビでフジテレビが“ミッドナイト・シアター”と銘打ってミニシアター系の作品を民放にも拘わらずCMによる中断なしの完全ノーカット字幕スーパー放映に踏み切ったのもその影響下にあるだろう。そこまでは行かないにしても深夜の映画は字幕スーパーというのが常識になった。こういう映画ファンにとってこの上ない状態は暫く続いたが、20年ほど前に完全に終焉した。
本作は映画館で観た。ヴィスコンティの作品は旧作でも殆ど全て映画館かそれに類するところで観ている。今ではなかなか見られない「異邦人」(1968年)もそうである。
さてお話。
現在は家族団欒を扱った絵を収集している元教授バート・ランカスターが、その類の絵を売り込みに来た美術商と偶然一緒に現れた貴婦人シルヴァーナ・マンガーノに部屋を貸してくれと強引に契約締結を迫られる。
これにより入ってくるのが元過激派の青年ヘルムート・ベルガーで、部屋の改築や、それに伴って随時現れる貴婦人の娘クラウディア・マルサーニやその婚約者ステファーノ・パトリッツィが繰り広げる騒ぎに悩まされる。しかし、老いと死とを意識せざるを得ない、孤独だがその孤独を誇る老人はいつしかこの狂騒的な連中との関係に僅かの楽しみを見出し、自ら歪んだ家族団欒の絵の一員になってしまう。
右翼か左翼かはっきりしないが過激派に襲われたベルガーを秘密部屋に匿って怪我の手当てをした後、一方で仲の良さそうに見えるこの連中にも実は確執があり、それが原因で青年は出奔する。彼は戻って来た直後に爆発が起きて死に、自分を父と言った青年の死により老人は死のベッドに横たわることになる。
当時僕がご贔屓にしていた批評家たちがこぞって絶賛していたものの、彼らの言う“鬼気迫る凄み”がよく解らなかった。当方、色々理屈をこねることが多くても所詮通俗派なので、ピンと来るのは遺作「イノセント」(1975年)であり、壮絶さを感じるのは「ベニスに死す」(1971年)なのだ。
それでも、今では少なくとも相当面白く(興味深く)観られるようになった。どちらかと言うと老いる一方ではあるけれど、まだ進歩するところもあるようである。
天井の音(幻聴)は死の近づきを意味する。それが頻繁になれば即ち死である。幻聴ではない階上の音は一時的に生を感じさせるところもあるが、青年の死を考えれば階上の音は死にほかならない。
滅びという意味で、ランカスターが同じく主演した「山猫」(1963年)と通底するところが相当あるが、しかし、この作品は貴族や上流階級の滅び以上に生命そのものの死に焦点が当てられている感じがする。恐らく70歳が近づいて老いを感じた(二年後に実際に亡くなる)ヴィスコンティの実感が強く反映されているのだろう。
僕が興味深く観られるようになったのも、厳密に言えば、進歩ではなく、死が現実のものとして意識される年齢になったからと言った方が正解なのかもしれない。
フラッシュバックで文字通り瞬間的に出て来る若き母親がドミニック・サンダ、妻がクラウディア・カルディナーレ。豪華千万でしたなあ。
1974年イタリア=フランス合作映画 監督ルキノ・ヴィスコンティ
ネタバレあり
元々日本では人気のあったルキノ・ヴィスコンティ監督だが、この作品でブームが起き、長すぎてお蔵入りだった「ルードウィヒ 神々の黄昏」(完全版の邦題は「ルートヴィヒ」)が公開され、ミニシアターが幾つも作られることに貢献した。テレビでフジテレビが“ミッドナイト・シアター”と銘打ってミニシアター系の作品を民放にも拘わらずCMによる中断なしの完全ノーカット字幕スーパー放映に踏み切ったのもその影響下にあるだろう。そこまでは行かないにしても深夜の映画は字幕スーパーというのが常識になった。こういう映画ファンにとってこの上ない状態は暫く続いたが、20年ほど前に完全に終焉した。
本作は映画館で観た。ヴィスコンティの作品は旧作でも殆ど全て映画館かそれに類するところで観ている。今ではなかなか見られない「異邦人」(1968年)もそうである。
さてお話。
現在は家族団欒を扱った絵を収集している元教授バート・ランカスターが、その類の絵を売り込みに来た美術商と偶然一緒に現れた貴婦人シルヴァーナ・マンガーノに部屋を貸してくれと強引に契約締結を迫られる。
これにより入ってくるのが元過激派の青年ヘルムート・ベルガーで、部屋の改築や、それに伴って随時現れる貴婦人の娘クラウディア・マルサーニやその婚約者ステファーノ・パトリッツィが繰り広げる騒ぎに悩まされる。しかし、老いと死とを意識せざるを得ない、孤独だがその孤独を誇る老人はいつしかこの狂騒的な連中との関係に僅かの楽しみを見出し、自ら歪んだ家族団欒の絵の一員になってしまう。
右翼か左翼かはっきりしないが過激派に襲われたベルガーを秘密部屋に匿って怪我の手当てをした後、一方で仲の良さそうに見えるこの連中にも実は確執があり、それが原因で青年は出奔する。彼は戻って来た直後に爆発が起きて死に、自分を父と言った青年の死により老人は死のベッドに横たわることになる。
当時僕がご贔屓にしていた批評家たちがこぞって絶賛していたものの、彼らの言う“鬼気迫る凄み”がよく解らなかった。当方、色々理屈をこねることが多くても所詮通俗派なので、ピンと来るのは遺作「イノセント」(1975年)であり、壮絶さを感じるのは「ベニスに死す」(1971年)なのだ。
それでも、今では少なくとも相当面白く(興味深く)観られるようになった。どちらかと言うと老いる一方ではあるけれど、まだ進歩するところもあるようである。
天井の音(幻聴)は死の近づきを意味する。それが頻繁になれば即ち死である。幻聴ではない階上の音は一時的に生を感じさせるところもあるが、青年の死を考えれば階上の音は死にほかならない。
滅びという意味で、ランカスターが同じく主演した「山猫」(1963年)と通底するところが相当あるが、しかし、この作品は貴族や上流階級の滅び以上に生命そのものの死に焦点が当てられている感じがする。恐らく70歳が近づいて老いを感じた(二年後に実際に亡くなる)ヴィスコンティの実感が強く反映されているのだろう。
僕が興味深く観られるようになったのも、厳密に言えば、進歩ではなく、死が現実のものとして意識される年齢になったからと言った方が正解なのかもしれない。
フラッシュバックで文字通り瞬間的に出て来る若き母親がドミニック・サンダ、妻がクラウディア・カルディナーレ。豪華千万でしたなあ。
この記事へのコメント
ベルイマンは、神を失った現代人の不安を描き続けました。
フェリーニは、庶民的で、平明で、泣かせも巧く、一見、難解そうに見えるテーマでも、その職人としての腕と誰もが圧倒される見世物性で描きました。
ヴィスコンティは、滅びゆくイタリア貴族階級の没落を描きました。
この三大名匠の内の一人、ルキノ・ヴィスコンティ監督の「山猫」「ベニスに死す」と並ぶ代表作の「家族の肖像」のレビューを書かれていますので、コメントしたいと思います。
この映画「家族の肖像」は、イタリア映画界の巨匠ルキノ・ヴィスコンティ監督の自らの死を近くに見据えた、晩年の代表作だと思います。
イタリア・ネオリアリズムの開拓者であると共に、既に過去のものとなったヨーロッパ文明というものを愛惜する耽美主義者でもあり、ヴェリズモ(真実主義)とデカダンス(頽廃主義)の両極を備えていた、イタリア映画界の巨匠ルキノ・ヴィスコンティ監督が、自らの死を近くに見据えた晩年の代表作「家族の肖像」。
この極めて舞台劇的な作品を1974年に完成した後、ルキノ・ヴィスコンティ監督は、彼の遺作となった「イノセント」を最後に、1976年3月、心臓病が再発して、69歳でこの世を去りました。
この作品の演出は、車椅子の上で行われたものであり、映画のタイトル・バックとラストに出てくる心電図のテープは、彼自身の"死の予感"を示すものであり、"死の足音"であったのかも知れません。
この映画「家族の肖像」についてのヴィスコンティ監督自身の言葉は、この作品が、彼の遺言だと言われているだけに、非常に重要な意味を持っていると思います。
「私の世代の知識人である主人公は、時代と調和して生きることを知らぬまま、今日の世代と激しく衝突して、その結果、瀕死の余生を迎えるに至ります。
年をとった人間が、若者に対して、自分の子供のようなつもりで触れ合いを持とうとしたところで、それだけで理解し合えるわけがないし、うまくいくわけもない。
この主人公は、人間嫌いで、他者からもたらされる騒ぎを嫌い、全き沈黙に生きることを望んでいるエゴイストで、マニアックな蒐集家です。
人間と人間が抱えている問題こそ、人間が生む作品などより大事なのに、それを認めることを拒否している点では、罪ある人間です。
私自身の世代の知識人の社会への関わり方とその責任、その意志、そしてその敗北という結果----つまり、文化というものの寓意をこの作品で問うてみたかった」と語っています。
貴族の解体を描いた「山猫」や、老醜をさらしての少年愛を描いた「ベニスに死す」などの彼の作品には、社会的・家族的・知的な安定と静寂が、一転して矛盾に満ちた破局へと至る場面を描いたものが多く、その最後の瞬間において、「結局、人は自分と対決することになります。
そして、それは直面する状況を何ひとつ変えられる望みのないほど、徹底して孤独なのです」と語る、ヴィスコンティ監督の人生観を知ることなしに、この映画を深く理解することは難しいのではないかと思います。
この映画の主人公は、ただ"教授"と呼ばれますが、「進歩の代償は破壊だ」や「科学技術が奴隷制度を産む」という彼が語るセリフから察して、第二次世界大戦中、アメリカで原子力開発に当たっていた科学者らしいということがわかります。
この"教授"を演じる名優バート・ランカスターは、「山猫」ではサリーナ公爵の役でしたが、1860年前後のイタリア統一時代の、旧勢力の没落を予見しながらも、家父長的な矜持を守った公爵と、この「家族の肖像」での"教授"とには、何か相通じるものがあるような気がします。
この映画の英語名での原題の「Conversation Piece」とは、18世紀に英国でよく描かれたという、上流階級の団欒をその画題にした一連の肖像画とのことですが、その描く「家族の肖像」は、気品に満ち溢れていますが、そのため、却ってその裏には、実生活での激しい憎悪と頽廃とが隠されているようにも思われます。
この肖像作品の蒐集に専念することによって、"教授"が浸っていた、古き良き時代への"懐旧と静寂"は、現代の世相の縮図とも言える、不思議な四人の家族が、間借人として闖入したことで破られることになります。
各人それぞれに、異様で、また孤独な五人が、一見すると家族の団欒のように食卓を囲む場面は、現代的な"家族の肖像"ですが、"新旧の時代の対立と混乱"をはらむ、その肖像には、最終的には破局しかないのです。
そして、富豪な夫人(シルヴァーナ・マンガーノ)のペットともいうべき美青年(ヘルムート・バーガー)への教授の想いに、「ベニスに死す」での美少年タジオへの少年愛を連想させるものを感じました。
>家父長的な矜持を守った公爵と、この「家族の肖像」での"教授"とには、何か相通じるものがあるような気がします。
そうですね。
“教授”は”公爵”の現在版と、「山猫」の再鑑賞を経ての、再鑑賞で感じました。
相反するテーマを扱ったヴィスコンティは、本当に興味深い監督ですね。