映画評「早春」(1956年)
☆☆☆☆(8点/10点満点中)
1956年日本映画 監督・小津安二郎
ネタバレあり
「東京物語」(1953年)に続く小津安二郎の監督作品。久しぶりに観るが、戦後の小津作品の中で異色と言える要素があり、実に面白い。
蒲田から丸の内の煉瓦会社本社オフィスに勤めるサラリーマン池部良は、数年前に息子を失って以来、妻・淡島千景としっくり行っていない。通勤仲間とピクニックに出た時にOL岸恵子と惹かれ合うところあり、後日浮気に発展する。おっとりしているように見える細君は最初から気づいていて、岡山県の工場勤務を決まりかけている際に恵子嬢が夜分に訪れてきたので怒りが爆発、親友のアパートへ行ったきり帰らない。かくして彼は単身岡山へ旅立つが、やがて仲人からアドバイスを受けた細君が追ってやって来る。
高度成長前とは言え、劇的に復興・成長している日本らしい風景が序盤から続く。その割にサラリーマンたちは既に疲弊している感じなのが興味深い。当時の小津の心境が反映されているのだろうが、正確には解らない。
同時に戦争の影(それが登場人物の厭世的な態度の原因か?)もまだ残っていて、戦友と旧交を温める場面では、黒澤明の作品でも賑やかす三井弘次が通底するキャラクター役で出て来てニヤニヤさせる。
さて、小津作品として異色なのは浮気に揺れる夫婦という設定や、キス・シーンが具体的に描かれることである。小津作品における結婚は儀式であることが多いから、こういう性的なものは殆ど観られない。田中絹代のヒロインが私娼になろうとする「風の中の牝鶏」(1948年)が思い出されるくらいだ。
夫婦の揺れる心境が、無言の登場人物を精緻に捉えるカメラにより、実に鮮やかに表現され興味が尽きないお話になっているが、その本筋の合間を埋めるスケッチと言うべき各挿話が抜群に面白く、物凄いスピードで展開する。黒沢清監督が“小津の映画は黒澤明より断然速く展開する”と言っていたことがよく理解できる(これは僕も常々言っていたので、”我が意を得たり”だった)作品だ。
珍しいと言えば、転勤要請を伝えるべく待機している上司の許へ池部がやって来る時遠方がぼやけている。戦後の小津は大体においてパンフォーカスであって、こういうばかし方を見た記憶は余りない。見通しのきかない未来の暗示だろうか?
“Allcinema”のある投稿者は会社の廊下のショットが怖いと仰るが、厳密に言えば小津はそういう計算をしてこのショットを置くわけではない。場面を繋ぐ為の空ショット(当時の他の監督が溶暗・溶明などで繋ぐところを環境を示すショットで代替えするのである)に過ぎぬ。しかし、投稿者の意見は的外れとも言い切れない。小津映画においては繋ぎの空ショットにそんな効果が間違いなくあるのである。
最後に、小津映画のカメラをロー・アングルと仰る人が専門家を含めて少なからずいらっしゃるが、単にロー・ポジションであってアングルは地面に対して平行である。一時映像談義の為交流していた撮影監督が仰っていた。
黒澤明の映画は放送自粛用語がそのまま放映される。小津の映画は盛んにデジタル・リマスターされ、映画館で上映される。それに比べ、同じくらいの貢献がある成瀬巳喜男や木下恵介の扱いはどうだ?(怒)
1956年日本映画 監督・小津安二郎
ネタバレあり
「東京物語」(1953年)に続く小津安二郎の監督作品。久しぶりに観るが、戦後の小津作品の中で異色と言える要素があり、実に面白い。
蒲田から丸の内の煉瓦会社本社オフィスに勤めるサラリーマン池部良は、数年前に息子を失って以来、妻・淡島千景としっくり行っていない。通勤仲間とピクニックに出た時にOL岸恵子と惹かれ合うところあり、後日浮気に発展する。おっとりしているように見える細君は最初から気づいていて、岡山県の工場勤務を決まりかけている際に恵子嬢が夜分に訪れてきたので怒りが爆発、親友のアパートへ行ったきり帰らない。かくして彼は単身岡山へ旅立つが、やがて仲人からアドバイスを受けた細君が追ってやって来る。
高度成長前とは言え、劇的に復興・成長している日本らしい風景が序盤から続く。その割にサラリーマンたちは既に疲弊している感じなのが興味深い。当時の小津の心境が反映されているのだろうが、正確には解らない。
同時に戦争の影(それが登場人物の厭世的な態度の原因か?)もまだ残っていて、戦友と旧交を温める場面では、黒澤明の作品でも賑やかす三井弘次が通底するキャラクター役で出て来てニヤニヤさせる。
さて、小津作品として異色なのは浮気に揺れる夫婦という設定や、キス・シーンが具体的に描かれることである。小津作品における結婚は儀式であることが多いから、こういう性的なものは殆ど観られない。田中絹代のヒロインが私娼になろうとする「風の中の牝鶏」(1948年)が思い出されるくらいだ。
夫婦の揺れる心境が、無言の登場人物を精緻に捉えるカメラにより、実に鮮やかに表現され興味が尽きないお話になっているが、その本筋の合間を埋めるスケッチと言うべき各挿話が抜群に面白く、物凄いスピードで展開する。黒沢清監督が“小津の映画は黒澤明より断然速く展開する”と言っていたことがよく理解できる(これは僕も常々言っていたので、”我が意を得たり”だった)作品だ。
珍しいと言えば、転勤要請を伝えるべく待機している上司の許へ池部がやって来る時遠方がぼやけている。戦後の小津は大体においてパンフォーカスであって、こういうばかし方を見た記憶は余りない。見通しのきかない未来の暗示だろうか?
“Allcinema”のある投稿者は会社の廊下のショットが怖いと仰るが、厳密に言えば小津はそういう計算をしてこのショットを置くわけではない。場面を繋ぐ為の空ショット(当時の他の監督が溶暗・溶明などで繋ぐところを環境を示すショットで代替えするのである)に過ぎぬ。しかし、投稿者の意見は的外れとも言い切れない。小津映画においては繋ぎの空ショットにそんな効果が間違いなくあるのである。
最後に、小津映画のカメラをロー・アングルと仰る人が専門家を含めて少なからずいらっしゃるが、単にロー・ポジションであってアングルは地面に対して平行である。一時映像談義の為交流していた撮影監督が仰っていた。
黒澤明の映画は放送自粛用語がそのまま放映される。小津の映画は盛んにデジタル・リマスターされ、映画館で上映される。それに比べ、同じくらいの貢献がある成瀬巳喜男や木下恵介の扱いはどうだ?(怒)
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