映画評「八日目の蝉」その2・・・原作を読んで・・・
☆☆☆☆(8点/10点満点中)
2011年日本映画 監督・成島出
ネタバレあり
6年前に地上波放映版を観た。39分もカットがあったので、一応感想めいたものを書いたが、採点は出来なかった。
それほどしないうちにWOWOWに完全版が放映され、保存版は作っておいたものの、5年半くらい放置してしまった。今回観るに及んで、大古典ばかり読んでいる狭間の気分転換として角田光代の原作小説を読んでみようと思い立つ。
原作との比較も兼ねて改めて映画評を書く。しかし、前回の放映版を観て自前で書いたストーリーも、全体の感想もさほど変わらず、それ自体は前回のものを読めば事足りるかもしれない。物語はそこから採録し、少し変更を加えてみることにする。
OL野々宮希和子(永作博美)が妻のある秋山(田中哲司)の子を妊娠、堕胎して子の産めない体になった後彼の妻(森口瑤子)が出産する。希和子は全ての区切りをつける為に夫婦不在の隙をついて赤ん坊を見るうちに出来ごころを起して誘拐、宗教がかった場所“エンジェルホーム”で作業しながら共同で子育てを始めるが、取材が入りそうであるという情報が入った為にホーム仲間の実家のある小豆島に逃げ、幸いそこで仕事も得るが、子供と二人でいるところを撮られた写真が新聞で賞を獲った為に遂に警察に御用となる。
誘拐からおよそ4年後実の父母の許に戻った少女薫=恵理菜は、情緒不安定になった母と不倫相手に子供を誘拐された男として仕事も碌にできず逃避的になった父の下で本来の家庭の幸福を知らずに成人(井上真央)、4歳まで愛情いっぱいに育ててくれた優しき犯人と同じく不倫相手の子を身ごもると、フリー記者実は施設で子供時代を一緒に過ごしたマロン=千草(小池栄子)と旅に出、小豆島で過去と対峙することになる。
原作では、0章が三人称(作者による地の文)、1章がヒロイン野々宮希和子の一人称、その最後に突然ブリッジ的に誘拐された娘・恵理菜=薫による一人称の文が入り、そのまま流れ込む形で2章は彼女の一人称。2章は、三人称の文章も随時挿入されるが、作者による“地の文”というより、週刊誌か何かの記事のような印象である。恵理菜が読んでいる文章と解釈できないこともない。そして、最後は完全な“地の文”になる。
ところが、映画はこれを並行描写にする。希和子の行動を恵理菜が追いかける形で一々確認しつつ進むような印象が生れる。小説でこれをやるとかなりくどい感じになるが、その点映像のある映画は余程頻繁にしない限りは自然に観ることが出来、実際この映画はなかなかうまく再構成している。
並行描写である為小説では終盤になって漸く決意される恵理菜のホームや小豆島への旅が前半の終わりくらいから始まる。小池栄子扮する千草は旅に出てから正体を明かすが、小説では自分がホームにいたマロンであることを告げて接近している。映画はややミステリー的な処理を行っていると言うべし。
映画で解りにくいのが、比較的早めの、実家を飛び出した4歳の恵理菜が警察に保護される場面。希和子との濃密な生活が世界の全てであった為に実家での生活に戻った後でさえ実の両親により誘拐されたように感じていたというヒロインの回顧に当たる場面なのだが、恵里菜の立場や心境が殆ど語られていない段階なのでタイミングとして早くピンと来にくいのである。
映画で完全に削除されているのは大阪の老女と、恵理菜の妹。妹は画面に出て来ないだけなのかもしれないが、“両親を憎む”ことの意味が強調されることを考えれば、一人っ子という設定に変えられたと僕は理解する。
逆に映画のみにあるのが、終盤の写真屋のエピソード。1章で希和子が「写真を受け取りに行けなかった」という短い一文を映画は引き延ばして(写真だけにネ・・・笑)恵里菜が希和子を含む親たちを一気に理解するトリガーにまでする。この映画の一番苦心したところであろう。
小説は旅をし、記憶のある風景・情景に接するうちに両親と希和子へのわだかまりを溶かしていく、即ち、彼らの心境を理解していく。あくまで自然体である。
映画に関しては、概ね高い世評の中で“自分探しの旅で終わるのが型通り”という意見が、否定的見解として目立つ。しかし、厳密にはこの旅は自分探しではないのである。彼女も一緒に旅をする千草も自分を取り巻く環境から脱出したいとの思いで旅に出る。心の呪縛を解き放つ、荒療治の旅なのである。
そして記憶のある風景に触れるうちに(映画では写真を見て一気に気づく形に解りやすく変えられているが)恵理菜は、愛情故に心を歪めてしまった三人の男女を理解する。憎むことで避けていた世界を、憎まずに正視できる心境に至る。その心境は野々宮希和子が示してくれたものと同じ母性が引き起こすものである。
相対的に女性の悲しき人生航路の物語であるが、最終的に滲み出るのは母性礼賛である。自分探しなどと矮小化してはいけないだろう。大量カット版では味わえなかった深い感動性がある。今回は十分堪能しました。
こんな経験は普通の人には出来ない。正に八日目の蝉が見る風景なのだな。
2011年日本映画 監督・成島出
ネタバレあり
6年前に地上波放映版を観た。39分もカットがあったので、一応感想めいたものを書いたが、採点は出来なかった。
それほどしないうちにWOWOWに完全版が放映され、保存版は作っておいたものの、5年半くらい放置してしまった。今回観るに及んで、大古典ばかり読んでいる狭間の気分転換として角田光代の原作小説を読んでみようと思い立つ。
原作との比較も兼ねて改めて映画評を書く。しかし、前回の放映版を観て自前で書いたストーリーも、全体の感想もさほど変わらず、それ自体は前回のものを読めば事足りるかもしれない。物語はそこから採録し、少し変更を加えてみることにする。
OL野々宮希和子(永作博美)が妻のある秋山(田中哲司)の子を妊娠、堕胎して子の産めない体になった後彼の妻(森口瑤子)が出産する。希和子は全ての区切りをつける為に夫婦不在の隙をついて赤ん坊を見るうちに出来ごころを起して誘拐、宗教がかった場所“エンジェルホーム”で作業しながら共同で子育てを始めるが、取材が入りそうであるという情報が入った為にホーム仲間の実家のある小豆島に逃げ、幸いそこで仕事も得るが、子供と二人でいるところを撮られた写真が新聞で賞を獲った為に遂に警察に御用となる。
誘拐からおよそ4年後実の父母の許に戻った少女薫=恵理菜は、情緒不安定になった母と不倫相手に子供を誘拐された男として仕事も碌にできず逃避的になった父の下で本来の家庭の幸福を知らずに成人(井上真央)、4歳まで愛情いっぱいに育ててくれた優しき犯人と同じく不倫相手の子を身ごもると、フリー記者実は施設で子供時代を一緒に過ごしたマロン=千草(小池栄子)と旅に出、小豆島で過去と対峙することになる。
原作では、0章が三人称(作者による地の文)、1章がヒロイン野々宮希和子の一人称、その最後に突然ブリッジ的に誘拐された娘・恵理菜=薫による一人称の文が入り、そのまま流れ込む形で2章は彼女の一人称。2章は、三人称の文章も随時挿入されるが、作者による“地の文”というより、週刊誌か何かの記事のような印象である。恵理菜が読んでいる文章と解釈できないこともない。そして、最後は完全な“地の文”になる。
ところが、映画はこれを並行描写にする。希和子の行動を恵理菜が追いかける形で一々確認しつつ進むような印象が生れる。小説でこれをやるとかなりくどい感じになるが、その点映像のある映画は余程頻繁にしない限りは自然に観ることが出来、実際この映画はなかなかうまく再構成している。
並行描写である為小説では終盤になって漸く決意される恵理菜のホームや小豆島への旅が前半の終わりくらいから始まる。小池栄子扮する千草は旅に出てから正体を明かすが、小説では自分がホームにいたマロンであることを告げて接近している。映画はややミステリー的な処理を行っていると言うべし。
映画で解りにくいのが、比較的早めの、実家を飛び出した4歳の恵理菜が警察に保護される場面。希和子との濃密な生活が世界の全てであった為に実家での生活に戻った後でさえ実の両親により誘拐されたように感じていたというヒロインの回顧に当たる場面なのだが、恵里菜の立場や心境が殆ど語られていない段階なのでタイミングとして早くピンと来にくいのである。
映画で完全に削除されているのは大阪の老女と、恵理菜の妹。妹は画面に出て来ないだけなのかもしれないが、“両親を憎む”ことの意味が強調されることを考えれば、一人っ子という設定に変えられたと僕は理解する。
逆に映画のみにあるのが、終盤の写真屋のエピソード。1章で希和子が「写真を受け取りに行けなかった」という短い一文を映画は引き延ばして(写真だけにネ・・・笑)恵里菜が希和子を含む親たちを一気に理解するトリガーにまでする。この映画の一番苦心したところであろう。
小説は旅をし、記憶のある風景・情景に接するうちに両親と希和子へのわだかまりを溶かしていく、即ち、彼らの心境を理解していく。あくまで自然体である。
映画に関しては、概ね高い世評の中で“自分探しの旅で終わるのが型通り”という意見が、否定的見解として目立つ。しかし、厳密にはこの旅は自分探しではないのである。彼女も一緒に旅をする千草も自分を取り巻く環境から脱出したいとの思いで旅に出る。心の呪縛を解き放つ、荒療治の旅なのである。
そして記憶のある風景に触れるうちに(映画では写真を見て一気に気づく形に解りやすく変えられているが)恵理菜は、愛情故に心を歪めてしまった三人の男女を理解する。憎むことで避けていた世界を、憎まずに正視できる心境に至る。その心境は野々宮希和子が示してくれたものと同じ母性が引き起こすものである。
相対的に女性の悲しき人生航路の物語であるが、最終的に滲み出るのは母性礼賛である。自分探しなどと矮小化してはいけないだろう。大量カット版では味わえなかった深い感動性がある。今回は十分堪能しました。
こんな経験は普通の人には出来ない。正に八日目の蝉が見る風景なのだな。
この記事へのコメント
劇場でも、ほとんどの女性がハンカチを顔に当てていて、TVタレントのなんちゃって号泣ではなく、嗚咽の声も多く聞かれました・・(かくいう僕も目頭を押さえました)。
彼女たちは、永作博美に完全に感情移入できていたのですが、それも、原作にはある、実母の森口瑤子の背景や、夫が転職を余儀なくされることなどを端折った(台詞にはある)ことにより、男の性悪さと妻の狂気性が、イノセンスな永作博美の演技も相まって犯罪の重さを薄めたことによるでしょうね・・。
ただ、もう少し実母寄りの目線で描いたエピソードもあれば、なお良かった。ひょっとしたら、邦画史に残る傑作になったかも・・。
>この映画の一番苦心したところ
写真館での親子の撮影から、逮捕、そしてフェリーの別れまでが、最も女性たちの感涙を誘ったところですので、狙いは当たったのだと思いますね・・。
>原作、NHKドラマ、映画と、三本立て(笑)で
それはまた熱心です!
僕は、ドラマの存在は知らなかったですね。
知らないのにこんなことを言うのも何ですが、観ておけばよかったな。
>嗚咽
僕など単純だから、子供を見るだけで泣けてきます。
あの別れの場面もぐっと来ますが、幼女が野々宮希和子に「結婚する」と言うところにも泣けました。僕も馬鹿ですね。
あの幼女を見ていたら、今春死んでしまったあの幼女を思い起こしました。誘拐犯でもあんな親より数万倍良い、と。
>永作博美の演技
前回褒めましたので今回は触れませんでしたが、素晴らしかったですね。
先ほどCMに出ているのを見て、何故かじーんとしました。
>実母寄りの目線
その通りですが、バランスが難しくなりそうです。
>写真館
小説では、彼女たちは小豆島を歩く前に終わっていますね。しかも、野々宮希和子は、フェリー乗り場で、薫=恵理菜と気づかず、彼女と千草とを見ている。これはこれで切ないものがあります。
原作は未読ですが、写真は映画としては映像で絵が浮かび上がってくるのを見せられますからよかったですね。
この話、子どもを誘拐して育てた女性の物語であると同時に、幼少期のトラウマから抜け出そうとする娘の物語でもありましたから、井上真央と小池栄子の女版バディものという面もありましたよね。小池栄子のファンなので、この映画でもピリッと決まっていてよかったなって。
>写真は映画としては映像で絵が浮かび上がってくるのを見せられますからよかったですね。
原作を変えると怒る原作ファンが多いですが、映像があるとないとでは表現を変える必要が出て来るのは当たり前の話で、写真の扱いは脚本家としては当然やるべき改変でしょうね。
>幼少期のトラウマから抜け出そうとする娘の物語
小説では誤解する可能性が低いのですが、映画版の構成では、ちょっと理解力が足りないと、彼女たちの旅を”自分探しの旅”と解釈してしまう。本文でも書いたように、これは二人のトラウマを克服する荒療治の旅だったですよね。