映画評「愛を綴る女」
☆☆★(5点/10点満点中)
2016年フランス=ベルギー=カナダ合作映画 監督ニコール・ガルシア
重要なネタバレあり。未鑑賞の方は要注意。
ミレーナ・アグスというフランス語圏の女流作家の小説「祖母の手帖」を30年くらい前にご贔屓にしていた女優ニコール・ガルシアが映画化したドラマ。
インドシナ戦争中のフランス。運命的な愛を求める余りストーカー的な奇行が目立つ妙齢美人ガブリエル(マリオン・コティヤール)は、その行動を落ち付かせる為に母親によって、ジョゼ(アレックス・ブレンデミュール)と愛のない結婚をさせられる。
やがて彼が建設業に乗り出した後、流産をした結果彼女は腎臓結石を持っていることが判明、温泉治療の為に入院することになる。そこで片方の腎臓がない中尉アンドレ(ルイ・ガレル)を見て運命の人と確信するが、彼は間もなく転院する。戻って来た彼と彼女はすっかり懇ろになるが、今度は彼女が快癒した為に帰郷することになる。
帰郷後夫にアンドレとの生活の為に家を出て行くと宣言するも実行に至らず、アンドレへ手紙を書いても梨の礫。かくして17年の年月が経ち、息子のピアノ・コンクールに向かう途中に彼の住んでいるはずの町に通りかかり降車する。そこで知ったのは彼の死である。
ここで一旦お話の叙述を中断しなければならない。それを経ずに幕切れが説明できないからである。
本作における温泉地で彼女が経験した後半部分(アンドレの帰還以降)は、彼女の主観もっと激しく言えば妄想だったことが判明する。「シックス・センス」のドラマ版みたいなものでござる。ショックを与えるのが目的ではないドラマだから卑怯といった指摘は当たらないわけだが、劇中そのヒントとなるような見せ方があれば納得しやすく、作劇的に上手いと言うことが出来ただろう。
アンドレの住居を管理している中国系下士官によると、転院した当日に中尉は死去している。手紙に返事がないのが当たり前で、実は夫君がその経緯を概ね知っていて、最終的にガブリエルは自分を庇護し続けた夫に感謝する、という幕切れになっている。
彼女が誰を愛するにしても、愛を綴るというよりは愛を求める女性の一代記という体裁で、少なくとも不倫ものという枠に嵌めることは無理がある。僕も説明を簡潔にするために不倫とか不倫ものという表現を時に使うが、特に現代ものにおいては使いたくない。
東洋では儒教が女性の不倫、少し前の言い方で不貞・不義という概念を確立した。その狙いは家を維持するという儒教的発想であっただろう。封建制度の下ではどんな非道な男、或いは子供を作る能力のない男でも、一度嫁いだら女性は金輪際他の男を求めることはできない。他方、既婚の男は相手が未婚であれば不義にはならない。その時代のことはとにかく言わぬ。しかるに、今でも日本人の中にはその概念に立脚する観念を持っている人がいて、概して男性に比べ女性芸能人へのバッシングが激しい。イスラム原理主義者と大して変わらない精神性と恥ずかしくなる。不倫という概念ができた経緯を考えれば、積極的に核家族を成す現代人に不倫をとやかく言う資格はないのだ。
何故こんな話をしたかと言えば、結婚した男女特に女性が愛を求めるのを内容・主題とする映画をそれを根拠に否定的に見る人が少なからずいるからである。しかし、人が愛を求めるのは人間の本質である(但し、単なる好色から不倫をするのは僕としても容易に認めがたい)。たまたま結婚しているかどうかで人間性がないように考えるのは不合理にすぎる。ましてそれで映画の評価を左右させるのは異常と言っても良い。
極端な事例として、夫君に子供を作る能力のない夫人が別の男性と結ばれることによって子供を作った場合、その夫人を“生産性がある”として某国会議員は認めるのだろうか? 彼女のような考えは儒教的な因循な道徳観が根幹にあると思うが、この場合、生産性と道徳とは矛盾しはしないか?
2016年フランス=ベルギー=カナダ合作映画 監督ニコール・ガルシア
重要なネタバレあり。未鑑賞の方は要注意。
ミレーナ・アグスというフランス語圏の女流作家の小説「祖母の手帖」を30年くらい前にご贔屓にしていた女優ニコール・ガルシアが映画化したドラマ。
インドシナ戦争中のフランス。運命的な愛を求める余りストーカー的な奇行が目立つ妙齢美人ガブリエル(マリオン・コティヤール)は、その行動を落ち付かせる為に母親によって、ジョゼ(アレックス・ブレンデミュール)と愛のない結婚をさせられる。
やがて彼が建設業に乗り出した後、流産をした結果彼女は腎臓結石を持っていることが判明、温泉治療の為に入院することになる。そこで片方の腎臓がない中尉アンドレ(ルイ・ガレル)を見て運命の人と確信するが、彼は間もなく転院する。戻って来た彼と彼女はすっかり懇ろになるが、今度は彼女が快癒した為に帰郷することになる。
帰郷後夫にアンドレとの生活の為に家を出て行くと宣言するも実行に至らず、アンドレへ手紙を書いても梨の礫。かくして17年の年月が経ち、息子のピアノ・コンクールに向かう途中に彼の住んでいるはずの町に通りかかり降車する。そこで知ったのは彼の死である。
ここで一旦お話の叙述を中断しなければならない。それを経ずに幕切れが説明できないからである。
本作における温泉地で彼女が経験した後半部分(アンドレの帰還以降)は、彼女の主観もっと激しく言えば妄想だったことが判明する。「シックス・センス」のドラマ版みたいなものでござる。ショックを与えるのが目的ではないドラマだから卑怯といった指摘は当たらないわけだが、劇中そのヒントとなるような見せ方があれば納得しやすく、作劇的に上手いと言うことが出来ただろう。
アンドレの住居を管理している中国系下士官によると、転院した当日に中尉は死去している。手紙に返事がないのが当たり前で、実は夫君がその経緯を概ね知っていて、最終的にガブリエルは自分を庇護し続けた夫に感謝する、という幕切れになっている。
彼女が誰を愛するにしても、愛を綴るというよりは愛を求める女性の一代記という体裁で、少なくとも不倫ものという枠に嵌めることは無理がある。僕も説明を簡潔にするために不倫とか不倫ものという表現を時に使うが、特に現代ものにおいては使いたくない。
東洋では儒教が女性の不倫、少し前の言い方で不貞・不義という概念を確立した。その狙いは家を維持するという儒教的発想であっただろう。封建制度の下ではどんな非道な男、或いは子供を作る能力のない男でも、一度嫁いだら女性は金輪際他の男を求めることはできない。他方、既婚の男は相手が未婚であれば不義にはならない。その時代のことはとにかく言わぬ。しかるに、今でも日本人の中にはその概念に立脚する観念を持っている人がいて、概して男性に比べ女性芸能人へのバッシングが激しい。イスラム原理主義者と大して変わらない精神性と恥ずかしくなる。不倫という概念ができた経緯を考えれば、積極的に核家族を成す現代人に不倫をとやかく言う資格はないのだ。
何故こんな話をしたかと言えば、結婚した男女特に女性が愛を求めるのを内容・主題とする映画をそれを根拠に否定的に見る人が少なからずいるからである。しかし、人が愛を求めるのは人間の本質である(但し、単なる好色から不倫をするのは僕としても容易に認めがたい)。たまたま結婚しているかどうかで人間性がないように考えるのは不合理にすぎる。ましてそれで映画の評価を左右させるのは異常と言っても良い。
極端な事例として、夫君に子供を作る能力のない夫人が別の男性と結ばれることによって子供を作った場合、その夫人を“生産性がある”として某国会議員は認めるのだろうか? 彼女のような考えは儒教的な因循な道徳観が根幹にあると思うが、この場合、生産性と道徳とは矛盾しはしないか?
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