映画評「北の桜守」

☆☆☆(6点/10点満点中)
2018年日本映画 監督・滝田洋二郎
ネタバレあり

吉永小百合主演=那須真知子脚本による「北」シリーズ第3作(因みに「北」シリーズは当方の命名)。内容的には最初の「北の零年」(2004年)に近く、史実を基にしたフィクションである。史実というのは本作の場合70年以上前のサハリンにおける日本人の悲劇という枠であって個人レベルのものではない。

昭和46(1971)年札幌、マクドナルドとケンタッキー・フライド・チキンを併せたような“ミネソタ20”というファースト・フード店の日本支社長になった堺雅人が、開発で居場所のなくなる母親を迎えることになる。母親とは、サハリンから出征したまま帰らぬ夫・阿部寛を待ちつつ網走で戦後を迎え、おにぎり屋を営む吉永小百合である。
 夫のマザコン気味の姿にアメリカからの帰国子女たる細君・篠原涼子が辟易する一方、堺社長はアメリカ的な味付けや品揃えでは客が寄り付きまいと、母親譲りのおにぎりを開発、今まで人様の役に立ったことがないと自虐する母親を喜ばせる。
 彼が母親と旅をする間に会長たる父親・中村雅俊を迎えた細君は不平たらたらだが、当の父親が店と店員の様子に大満足、婿の親孝行ぶりを喜んで帰っていくと、やがて母子の真実を知って夫の母思いを遂に理解する。

那須真知子の脚本はある種の枠に属する作品が好きな方には受けるだろうが、うるさ型には完成度や厳しさが疑問を覚えさせるケース多々あり。本作の場合は、時々入る劇中劇(舞台そのもの)の存在意義が薄い。一種のナレーションの役目もしくはナレーションを補完するような役目を負っているような印象を受けるのだが、目的が僕には掴みにくい。最後に堺夫婦がその劇を観ている形で終わるのもどちらかと言うと匠気が勝って、効果のほどが疑わしく、結局目的が把握し切れずに終わる。

事実上の回想で綴られる昭和21年の段階でそれまで登場していた長男が姿を見せなくなる部分の扱いも良くない。長男の不在は一体何なのかという興味がそそられる一方で、些か引っ張り過ぎである。しかし、これは回想形式であることにより意味を成す。即ち、長男がソ連に撃沈された船の悲劇により海の藻屑となりその近くに居合わせた母親として彼女にとって思い出したくない記憶だったことが判り、展開上の長男に関する描写の不在と長男の死亡に罪悪感を覚え思い出したくない彼女の心情が一致して納得させられる次第。上手いとは言えないもののこれなら無問題。

ここからお話は少し方向を変えて、罪悪感で稚内の海へ入ってしまった母親が入院、堺が札幌へ帰宅している間に抜け出るという事件を起こす。関係者の努力で桜林にいる彼女が発見される。堺が探し回る過程で戦後闇市で関係のあった運送会社社長・佐藤浩市と母親との関係性が扱われ、最終的に母親の罪悪感に染められた人生航路が物語として浮き彫りになる。

といった次第で、同じく北海道を舞台にした一種の歴史劇「北の零年」よりコンパクトですっきり見られ、うるさ型を自認する割に結構人情に甘い僕はそれなりに楽しんだ。

言葉に少々煩い僕は、昭和46年のお話なのに、医者の息子に対する説明の中に平成になって普及・定着した“アルツハイマー”という言葉が出て来るのが時代ムード的に気になった。多分ポリティカル・コレクトネスの観点から当時一般的であった“痴呆症”と言えないので、その代表格として代わりに使ったのであろう。しかし、それならその前に出てきた“ぼけ”で良かったのではないかと思う。

「北」シリーズは、行定勲、阪本順治、滝田洋二郎という実績のある監督が起用されているのだが、どれも見せ方が似たり寄ったり。監督の個性以上に、吉永小百合主演の映画には一定の作り方があることを示している。

正月に挨拶に見えた義兄が映画におけるLGBTについて話してきたので、欧米映画ではLGBTは既に主題たり得ず、特にアメリカ映画ではポリティカル・コレクトネスが跋扈している(ので不愉快)と話した。邦画界ではLGBTは概して避けられてきたのでまだまだ新鮮なテーマであるが、インディ映画以外では殆ど作られまい。ポリ・コレについても日本は言葉の調整くらいでさほどではない。アメリカがとにかく極端なのだ。

この記事へのコメント

浅野佑都
2019年01月11日 13:55
今年初コメントです。
プロフェッサー、どうか今年もよろしくおねがいします!そして末永くこの良質な映画ブログを続けていかれることを切に希望しております・・。

 >那須真知子の脚本
「北のシリーズ」三部作の中では、一番良かったと思いますが、はっきり言って、国民的女優の彼女に対してサユリストの目を気にするのか、日本の監督は(特に実績のある者ほど)腰が引けていることが多い・・。まるで、SAYURI CODE でも存在するかのようです(笑)・・。
『天国の駅 HEAVEN STATION』など、毒婦を演じるために2回も自慰シーンがあるのですが、ディズニーでももうちょっと過激に演出するだろうと思えるくらいで・・。

中年以降の彼女の作品でよいと思ったのは「おとうと」とNHKドラマの「夢千代日記」くらいですね・・。

日活時代から彼女をよく知る、吉永小百合の盟友ともいうべき女性のエッセイを読みましたが、彼女が女優として殻を破れなかったのは、マネジメントに口出ししすぎる父親の影響だそうですね・・(名作「忍ぶ川」もヌードシーンがあるため言下に断ってしまった)

むしろ、全くの新人監督か外国人ならばどうでしょうね?イーストウッドあたりが彼女主演で撮ってくれたら・・

こう書くと手厳しいようですが、僕は、彼女がパーソナリティを務めるNHKラジオ番組をずって聞いてるくらいでして・・。年齢的にはサユリストではないですが、あと10年、15年早く生まれてればあるいは(笑)

>昭和46年のお話
当時は、医師も痴呆症と言っていましたね。
恍惚の人なんて言葉も流行りました・・。

万博が終わってから一気にファストフードやファミレスの波が日本中に押し寄せましたね・・
我が家でも、おせち料理は「おでん」しか作らなくなりました(おでんはお節ではないですが・・)笑
オカピー
2019年01月11日 21:54
浅野佑都さん、こんにちは。
本年も相変わらずよろしくお願いいたします。

パソコンが使える環境にいる限りは続けるつもりです。但し、毎日映画を観るということがいつまで続けられるか問題ですが、毎日でなくて良ければ楽にいけますね。

>SAYURI CODE
なるほど。正鵠を射るご意見! その為“どこを切っても金太郎”状態になっていると考えられますね。
 「忍ぶ川」は1972年の公開。吉永小百合は二十代半ばでこれから女優として円熟していく年齢でしたから、確かにこの作品に出ていれば映画芸術的に高く評価される作品がぐっと増えたかもしれません。

僕も吉永小百合は好きですよ。くだんの SAYURI CODE に縛られる為に、シネフィルから真面目に観てもいないのに馬鹿にされることが多い彼女の主演作品ですが、僕は少なくともそういう態度は取らない。そういう人たちは個人攻撃も多いですよね(演技力がないとか、この作品では阿部寛の母親に見えるとか)。

>万博が終わってから一気にファストフード
その点ではミネソタ20という店は時代考証的に合っていましたね。
 一方、くだんの“アルツハイマー”は白ける。昔使っていた言葉をその時代を舞台にした作品で使わせないのは一種の“歴史修正主義”と言って批判したいと思います。反面教師という事もあるわけですからね。

>おせち料理
現状ではうちも間に合わせのおでんが多い。
 貧乏だったこともあり、我が家では昔からおせちよりお雑煮が多かった。僕もマザコン気味だから、亡母のお雑煮が食べたくなることしばしばデスヨ。

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