映画評「リメンバー・ミー」(2017年)
☆☆☆(6点/10点満点中)
2017年アメリカ映画 監督リー・アンクリッチ、エイドリアン・モリーナ
ネタバレあり
「リメンバー・ミー」という邦題の映画は多く、為にまた括弧付きになった。
ピクサーのアニメで、相変わらずセンスが良い。メキシコの行事“死者の日”をテーマにし、彼岸と此岸とを往来する着眼点がなかなかユニーク。結論としては日本人に受けやすいところと受けにくいところがあるという印象である。僕は後者に重点を置いて少なめの☆★に留めた。何のことだか解らないだろうから、これについては改めて後で説明する。
主人公ミゲル少年(声:アンソニー・ゴンサレス)は今は亡き高祖母イメルダから代々靴屋を営んでいる家に生まれる。彼女の夫がギターを抱えて出奔したものだから音楽が厳禁とされているのだが、音楽好きの彼としては祖母にギターを壊されて憤懣やるかたなく家を飛び出し、音楽の英雄デラクルス(声:ベンジャミン・ブラット)の像が置かれている広場で催されるコンテストに出場したくも肝心のギターがない。しかも、デラクルスは彼の曽々祖父らしい。そこで彼の墓に忍び込んでギターを借用しようとしたところ、少年は死者の国に紛れ込んでしまう。
死者の国ではイメルダを始めとする祖先に遭遇し、元の世界に戻るには墓を荒らした相手デラクルスの赦しが日の出までに得る必要があると告げられる。
事情があって彼岸と此岸の橋を渡ろうとしていた元音楽家ヘクター(声:ガエル・ガルシア・ベルナル)と知り合い、彼のツテにすがってデラクルスに会うことができるが、伝説の大歌手は相棒だったヘクターの曲を盗む為に彼を殺した悪党であったばかりか、玄孫(やしゃご)と思われるミゲルまで亡き者にしようとする。
しかし、ヘクターと再会したことで判るのは、ヘクターこそ彼の高祖父で、殺害された為に家に帰れなかったこと、そして彼を記憶する最後の一人である娘ココ(ミゲルの曾祖母)が彼を忘れようとしていることでヘクターは死者の国でも死の間際にいること。ミゲルは何とかヘクターの願いを叶えるべくその重要なアイテムである写真をデラクルスから取り返そうと奮闘する。
死者は忘れられることでもう一度死ぬ、と言われる。これを初めて聞いたのはアメリカ映画「メッセージ・イン・ア・ボトル」(1999年)においてだったような気がするが、記憶は既に曖昧。ともかく、その後、洋画・邦画を問わず、何度も聞いた。
昔の人々もそういうことを考えて、メキシコでは“死者の日”、日本ではお盆が生れた(お盆は日本独自と聞く)のであろう。冒頭で“日本人に受けやすい”と述べのは彼岸と此岸をめぐってそういう共通点があるという意味からである。
逆に“日本人に受けにくい”と言ったのは、主題である“家族が一番”という観点ではなく、骸骨に対して何の抵抗もないメキシコ人(あるTV番組でそう紹介されていた)に対して、日本人は不気味に思う人が多いということである。僕などもその典型で、アニメだから大した抵抗もなく見てしまうとは言え、どうも素直に楽しめると言いかねるものがあるのである。
しかし、実際には、日本での評価も(アメリカ同様に)高いので、家族・一族の愛情という主題が勝った形。ご同慶の至りでござる。
結局は“浪花節だよ人生は”なんだね。ところで、この辺は40年くらい前まで土葬であった。子供時代、母の実家の墓地に行き、土を掘り返したらしゃれこうべが出て来て腰を抜かしたのを思い出す。
2017年アメリカ映画 監督リー・アンクリッチ、エイドリアン・モリーナ
ネタバレあり
「リメンバー・ミー」という邦題の映画は多く、為にまた括弧付きになった。
ピクサーのアニメで、相変わらずセンスが良い。メキシコの行事“死者の日”をテーマにし、彼岸と此岸とを往来する着眼点がなかなかユニーク。結論としては日本人に受けやすいところと受けにくいところがあるという印象である。僕は後者に重点を置いて少なめの☆★に留めた。何のことだか解らないだろうから、これについては改めて後で説明する。
主人公ミゲル少年(声:アンソニー・ゴンサレス)は今は亡き高祖母イメルダから代々靴屋を営んでいる家に生まれる。彼女の夫がギターを抱えて出奔したものだから音楽が厳禁とされているのだが、音楽好きの彼としては祖母にギターを壊されて憤懣やるかたなく家を飛び出し、音楽の英雄デラクルス(声:ベンジャミン・ブラット)の像が置かれている広場で催されるコンテストに出場したくも肝心のギターがない。しかも、デラクルスは彼の曽々祖父らしい。そこで彼の墓に忍び込んでギターを借用しようとしたところ、少年は死者の国に紛れ込んでしまう。
死者の国ではイメルダを始めとする祖先に遭遇し、元の世界に戻るには墓を荒らした相手デラクルスの赦しが日の出までに得る必要があると告げられる。
事情があって彼岸と此岸の橋を渡ろうとしていた元音楽家ヘクター(声:ガエル・ガルシア・ベルナル)と知り合い、彼のツテにすがってデラクルスに会うことができるが、伝説の大歌手は相棒だったヘクターの曲を盗む為に彼を殺した悪党であったばかりか、玄孫(やしゃご)と思われるミゲルまで亡き者にしようとする。
しかし、ヘクターと再会したことで判るのは、ヘクターこそ彼の高祖父で、殺害された為に家に帰れなかったこと、そして彼を記憶する最後の一人である娘ココ(ミゲルの曾祖母)が彼を忘れようとしていることでヘクターは死者の国でも死の間際にいること。ミゲルは何とかヘクターの願いを叶えるべくその重要なアイテムである写真をデラクルスから取り返そうと奮闘する。
死者は忘れられることでもう一度死ぬ、と言われる。これを初めて聞いたのはアメリカ映画「メッセージ・イン・ア・ボトル」(1999年)においてだったような気がするが、記憶は既に曖昧。ともかく、その後、洋画・邦画を問わず、何度も聞いた。
昔の人々もそういうことを考えて、メキシコでは“死者の日”、日本ではお盆が生れた(お盆は日本独自と聞く)のであろう。冒頭で“日本人に受けやすい”と述べのは彼岸と此岸をめぐってそういう共通点があるという意味からである。
逆に“日本人に受けにくい”と言ったのは、主題である“家族が一番”という観点ではなく、骸骨に対して何の抵抗もないメキシコ人(あるTV番組でそう紹介されていた)に対して、日本人は不気味に思う人が多いということである。僕などもその典型で、アニメだから大した抵抗もなく見てしまうとは言え、どうも素直に楽しめると言いかねるものがあるのである。
しかし、実際には、日本での評価も(アメリカ同様に)高いので、家族・一族の愛情という主題が勝った形。ご同慶の至りでござる。
結局は“浪花節だよ人生は”なんだね。ところで、この辺は40年くらい前まで土葬であった。子供時代、母の実家の墓地に行き、土を掘り返したらしゃれこうべが出て来て腰を抜かしたのを思い出す。
この記事へのコメント
私もあれは、露骨に死体感があるんで、?になりますね。死者であれば霊ということで、ふつうに顔でもいいんじゃないかと思ったりしますが、アニメだと骸骨でも愛嬌のあるキャラにはなりますね。
一般的に、日本人は骸骨は嫌がると思いますね。
実際映画ブログの感想でも、概ね好評ながら、その辺りの指摘を散見されます。
アニメだと相当緩和されるとは言え、依然抵抗がありました。仰る通り普通の様子のほうが良いですが、メキシコの方には全く抵抗がないそうですし、差別化のつもりもあったのでしょう。