映画評「スワンの恋」
☆☆☆(6点/10点満点中)
1983年フランス=西ドイツ合作映画 監督フォルカー・シュレンドルフ
ネタバレあり
長い小説を色々と読んでいる中、恐らく一番苦労したのがマルセル・プルーストの「失われた時を求めて」である。長いだけでなく恐ろしく低回的でうんざりしたのである。ちょっとした心境を述べる一段だけで百ページくらいあったりする。
本作はその第一部第二編「スワンの恋」を「ブリキの太鼓」で有名になったフォルカー・シュレンドルフが映画化した作品であるが、当時の僕は売値が高すぎて主演作品が公開されなくなったアラン・ドロンが出演する作品として注目した。今回は、公開よりずっと後に読んだ「失われた時を求めて」が、ごく一部とは言え、どう映画化されているか注視するつもりで観た。
19世紀末フランスの上流階級の風俗を丹念に描く内容である。ユダヤ系の教養人シャルル・スワン(ジェレミー・アイアンズ)が、商売女との噂もある美人オデット(オルネッラ・ムーティ)に振り回される様子が、男色家シャルリュス男爵=メメ(アラン・ドロン)との交友を交えて描かれる。
最終幕は、十数年後(20世紀初め)、馬車と自動車が道路に混交する時代になり、余命も少ないと自覚するスワンと男爵の前にオデットが通り過ぎる。実は彼女は今やスワン夫人なのである。
西部劇「砂漠の流れ者」(1970年)でもそうだったように、自動車は時代変転の象徴であり、同様に幕切れに無粋な自動車が出て来るこの作品も前世紀へのノスタルジーに満ちている。撮影監督スヴェン・ニクヴィストの撮影をもって、その時代の情緒を徹底的に画面に定着させようとして、かなり成功しているのである。
ゆっくりした移動撮影の多用は、プルーストの実にゆっくりと進む文章の感覚を画面により再現している感じがする。通俗的な意味で全く面白い映画とは言えず、その点も考慮して採点するが、文学的ムードや19世紀の世紀末的情緒を楽しもうとするならば全く悪い映画ではない。通常の作家が3ページで済ます描写に100ページもかけるプルーストを読む退屈さに比べたら、本作の退屈度など全く問題にならないはずである。
耽美的俳優ジェレミー・アイアンズが好調。逆にアラン・ドロンは彼の俳優としての性格に合わず。
近松秋江「黒髪」三部作を日本一の耽美的俳優・森雅之で作れば、こんな作品になったかもしれない。
1983年フランス=西ドイツ合作映画 監督フォルカー・シュレンドルフ
ネタバレあり
長い小説を色々と読んでいる中、恐らく一番苦労したのがマルセル・プルーストの「失われた時を求めて」である。長いだけでなく恐ろしく低回的でうんざりしたのである。ちょっとした心境を述べる一段だけで百ページくらいあったりする。
本作はその第一部第二編「スワンの恋」を「ブリキの太鼓」で有名になったフォルカー・シュレンドルフが映画化した作品であるが、当時の僕は売値が高すぎて主演作品が公開されなくなったアラン・ドロンが出演する作品として注目した。今回は、公開よりずっと後に読んだ「失われた時を求めて」が、ごく一部とは言え、どう映画化されているか注視するつもりで観た。
19世紀末フランスの上流階級の風俗を丹念に描く内容である。ユダヤ系の教養人シャルル・スワン(ジェレミー・アイアンズ)が、商売女との噂もある美人オデット(オルネッラ・ムーティ)に振り回される様子が、男色家シャルリュス男爵=メメ(アラン・ドロン)との交友を交えて描かれる。
最終幕は、十数年後(20世紀初め)、馬車と自動車が道路に混交する時代になり、余命も少ないと自覚するスワンと男爵の前にオデットが通り過ぎる。実は彼女は今やスワン夫人なのである。
西部劇「砂漠の流れ者」(1970年)でもそうだったように、自動車は時代変転の象徴であり、同様に幕切れに無粋な自動車が出て来るこの作品も前世紀へのノスタルジーに満ちている。撮影監督スヴェン・ニクヴィストの撮影をもって、その時代の情緒を徹底的に画面に定着させようとして、かなり成功しているのである。
ゆっくりした移動撮影の多用は、プルーストの実にゆっくりと進む文章の感覚を画面により再現している感じがする。通俗的な意味で全く面白い映画とは言えず、その点も考慮して採点するが、文学的ムードや19世紀の世紀末的情緒を楽しもうとするならば全く悪い映画ではない。通常の作家が3ページで済ます描写に100ページもかけるプルーストを読む退屈さに比べたら、本作の退屈度など全く問題にならないはずである。
耽美的俳優ジェレミー・アイアンズが好調。逆にアラン・ドロンは彼の俳優としての性格に合わず。
近松秋江「黒髪」三部作を日本一の耽美的俳優・森雅之で作れば、こんな作品になったかもしれない。
この記事へのコメント
さて、ドロン・ファンとしては、従来の彼のキャラクターとは全く異なるものですから、確かになかなか受け入れがたい役作りでしたよね。
しかしながら、私としてはヴィスコンティからマルセル役を強く望まれていたドロンの想い入れが強く伝わってくるのも本作なんです。更にメルヴィルの助監督でもあったシュレンドルフの演出となれば、ドロンとしてはクレマン、ヴィスコンティ、ロージー・・・自分の師匠たちが次々ろ頓挫したプルースト作品の映像化・・・でも、ちょっと遅かったかもしれません。
ヴィスコンティも映画化の目処がたっていたのに突然「ルードウィッヒ」に取り掛かっちゃったみたいです。何でかな?
ただ、ドロンの演技はプルーストのシャルリュス像にかなり近い演技ではあったらしく、ヨーロッパの批評家の間では、助演ドロンは絶賛されたようですが、スターシステム、エンターテインメントととしてのドロンのイメージは崩壊してはいますよね。
世評と専門家の批評とは分裂していたんでしょう。また、「太陽がいっぱい」や「サムライ」のようにこの作品が彼の分岐点になって、その後のキャラクターに影響を持ったわけでもない。
アラン・ドロンキャラクターとしては、おっしゃるように「逆にアラン・ドロンは彼の俳優としての性格に合わず。」だと思います。
私としては、それでもなお、ドロンの天才性は発揮されていたのではないかとは思っているんですが・・・。
では、また。
僕はアラン・ドロンに関してあくまでミーハーですから、どうしてもミーハー的なアングルによる俳優ドロン像と適合性で見てしまいます。それは「もういちど愛して」でも同じような傾向があると思います。
>ヴィスコンティ
男色は出て来るし、彼の映画化は実現させてほしかったですねえ。
>自分の師匠たちが次々ろ頓挫した
偶然だったのかもしれませんが、興味深い監督候補群。作品のタイプとしてはロージーでも相当面白くなったかもしれません。
30余年前に観た時は大して面白いと思いませんでしたが、原作を読んだ後、しかも年齢を加えて恐らくシャルリュス男爵くらいの年になった今見ると、決してつまらなくないですね。一般性を考えた結果☆は少ないのですが、実は、19世紀を舞台にした文学の好きな僕としては寧ろ買いです。