映画評「香華」
☆☆☆☆(8点/10点満点中)
1964年日本映画 監督・木下恵介
ネタバレあり
1984年に銀座の並木座かどこかで観た。木下恵介監督が有吉佐和子の同名小説を映画化した計202分の二部作(第一部88分、第二部114分)である。映画評は二作一緒に扱う。
明治30年代から昭和30年までの流転の人生を歩まざるを得なかった女性の一代記。
ヒロイン朋子(成人後:岡田茉莉子)は和歌山の良家に生まれるが、父親の死後家を出て再婚した母・郁代(乙羽信子)に捨てられたも同然の孤独な少女時代を送る。父方の祖母(田中絹代)が亡くなったため母の再婚相手に連れられて静岡の芸者置屋兼遊女屋に売られ芸者の見習いになるが、やがて母も夫に捨てられて女郎としてその遊女屋にやって来、奇妙な再会を果たす。
半玉となったヒロインは東京に出された後、やがて、以前に知人の紳士・野沢(岡田英次)を通して伯爵の妾に甘んじると同時に、若い士官候補生・江崎(加藤剛)と恋に落ち将来を誓い合う。その為に伯爵に頼んで置屋の女将に転身し機会が巡って来るのを待っている間に、男は彼女ではなく母の前歴に気付いて離れていく。郁代はそんな彼女の悲痛もお構いなく彼女の家にやって来、その折に関東大震災に遭遇する。
というのが第一部で、日本的悲劇として類型的に過ぎてやや辟易させられるところがあるが、母親の自己中心的な生き方の犠牲になった立場が実に丹念に描かれるのが良く、また、ヒロインの性格が単に受動的でないことに救われる。
第二部では、伯爵に旅館を作って貰い一から出直すヒロインの身辺に色々と変化が起こる。資金源である伯爵が亡くなり、野沢の愛人になるが、彼も数年後には逝去、急激に軍部台頭で暗い時代に入る。
かくして昭和20年の終戦を迎える時は再び無産状態、しかも昔の下男・八郎(三木のり平)と再婚した郁代は相変わらず出鱈目な生活ぶりで娘を翻弄する。再びしかし今度は自力で旅館を始めた朋子は、江崎が戦犯として死刑判決をうけたことを知ると、処刑までに一目会おうとする。再会に向けての努力と執念は凄まじいと形容できるほどで彼女の秘められた情熱を物語り、胸を熱くする。
また時が流れて老母が交通事故で死ぬ。父違いの妹(岩崎加根子)の息子を養子に迎えた朋子は、打ち寄せるだけで戻らない波のような老いの心境に至る。
第二部になると、純悲劇的な要素が減り、なかなか充実した人生劇となっている。木下監督としてもこちらの方が心境をきめ細かく描出して本領発揮と言えるのではないか。
メロドラマ的な要素が拭われると、母親のせいで平凡な女の幸福を享受することなく年老いた女性の悲劇を超えて、母娘の分かちがたい絆の重さが浮かび上がってくる。それだからこそ、幕切れで、真の子供を持てなかった女の悲しみがより深く我々に迫ることになるのである。
撮り方はぐっと正攻法、ややハイポジション気味のカメラで人物を捉え続ける。
二階の描写が多いのが特徴で、妊娠して二階でお茶を引くまでにうらぶれた乙羽信子が二階へ上がるのをその上昇に合わせてクレーンで捉え続けるショットは鬼気迫る感じがする。ヒロインが置屋に引き取られた直後に見習いとして三味線を猛練習する彼女を直接映さず(障子のガラス越しに僅かに後姿が見える)、回廊に沿って回るように移動撮影し続けるショットも迫力がある。古典的な手法と言って良いが、文芸作品らしいムードが最大限に発揮された箇所と思う。
TVの勢いに映画が押されがちになった1960年代は、それに抗うように、水上勉の映画化作品など文芸映画の秀作が多く作られた。僕が最も好きな十年間である。
NHKは黒澤明の作品でアンタッチャブルな態度を取るのとは対照的に、木下映画で使われる“放送自粛用語”を遠慮なく消去する。酷い差別である。何が”最小限の音声処理”だ。腹が立つ。
1964年日本映画 監督・木下恵介
ネタバレあり
1984年に銀座の並木座かどこかで観た。木下恵介監督が有吉佐和子の同名小説を映画化した計202分の二部作(第一部88分、第二部114分)である。映画評は二作一緒に扱う。
明治30年代から昭和30年までの流転の人生を歩まざるを得なかった女性の一代記。
ヒロイン朋子(成人後:岡田茉莉子)は和歌山の良家に生まれるが、父親の死後家を出て再婚した母・郁代(乙羽信子)に捨てられたも同然の孤独な少女時代を送る。父方の祖母(田中絹代)が亡くなったため母の再婚相手に連れられて静岡の芸者置屋兼遊女屋に売られ芸者の見習いになるが、やがて母も夫に捨てられて女郎としてその遊女屋にやって来、奇妙な再会を果たす。
半玉となったヒロインは東京に出された後、やがて、以前に知人の紳士・野沢(岡田英次)を通して伯爵の妾に甘んじると同時に、若い士官候補生・江崎(加藤剛)と恋に落ち将来を誓い合う。その為に伯爵に頼んで置屋の女将に転身し機会が巡って来るのを待っている間に、男は彼女ではなく母の前歴に気付いて離れていく。郁代はそんな彼女の悲痛もお構いなく彼女の家にやって来、その折に関東大震災に遭遇する。
というのが第一部で、日本的悲劇として類型的に過ぎてやや辟易させられるところがあるが、母親の自己中心的な生き方の犠牲になった立場が実に丹念に描かれるのが良く、また、ヒロインの性格が単に受動的でないことに救われる。
第二部では、伯爵に旅館を作って貰い一から出直すヒロインの身辺に色々と変化が起こる。資金源である伯爵が亡くなり、野沢の愛人になるが、彼も数年後には逝去、急激に軍部台頭で暗い時代に入る。
かくして昭和20年の終戦を迎える時は再び無産状態、しかも昔の下男・八郎(三木のり平)と再婚した郁代は相変わらず出鱈目な生活ぶりで娘を翻弄する。再びしかし今度は自力で旅館を始めた朋子は、江崎が戦犯として死刑判決をうけたことを知ると、処刑までに一目会おうとする。再会に向けての努力と執念は凄まじいと形容できるほどで彼女の秘められた情熱を物語り、胸を熱くする。
また時が流れて老母が交通事故で死ぬ。父違いの妹(岩崎加根子)の息子を養子に迎えた朋子は、打ち寄せるだけで戻らない波のような老いの心境に至る。
第二部になると、純悲劇的な要素が減り、なかなか充実した人生劇となっている。木下監督としてもこちらの方が心境をきめ細かく描出して本領発揮と言えるのではないか。
メロドラマ的な要素が拭われると、母親のせいで平凡な女の幸福を享受することなく年老いた女性の悲劇を超えて、母娘の分かちがたい絆の重さが浮かび上がってくる。それだからこそ、幕切れで、真の子供を持てなかった女の悲しみがより深く我々に迫ることになるのである。
撮り方はぐっと正攻法、ややハイポジション気味のカメラで人物を捉え続ける。
二階の描写が多いのが特徴で、妊娠して二階でお茶を引くまでにうらぶれた乙羽信子が二階へ上がるのをその上昇に合わせてクレーンで捉え続けるショットは鬼気迫る感じがする。ヒロインが置屋に引き取られた直後に見習いとして三味線を猛練習する彼女を直接映さず(障子のガラス越しに僅かに後姿が見える)、回廊に沿って回るように移動撮影し続けるショットも迫力がある。古典的な手法と言って良いが、文芸作品らしいムードが最大限に発揮された箇所と思う。
TVの勢いに映画が押されがちになった1960年代は、それに抗うように、水上勉の映画化作品など文芸映画の秀作が多く作られた。僕が最も好きな十年間である。
NHKは黒澤明の作品でアンタッチャブルな態度を取るのとは対照的に、木下映画で使われる“放送自粛用語”を遠慮なく消去する。酷い差別である。何が”最小限の音声処理”だ。腹が立つ。
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