映画評「女の園」

☆☆☆☆(8点/10点満点中)
1954年日本映画 監督・木下恵介
ネタバレあり

1954年木下恵介は絶好調で、キネマ旬報で1位に「二十四の瞳」、2位に本作が選ばれた。僕はどちらも四半世紀くらい後に観たわけだが、違う種類の感銘を受けた。原作は阿部知二の「人工庭園」。

京都にある私立女子大学の寮に関する因循な規則をめぐって岸恵子、久我美子といった寮生たちが反旗を翻す。寮への門限、消灯時間後の勉強禁止、郵便物の検閲等に堪忍袋の尾を切った形である。
 大学生の恋人・田村高廣との交際を禁じられて父親の希望する相手との結婚を避ける為に銀行員として3年間過ごした後に学生になったヒロイン高峰秀子は、寮則と父親の圧制に追い込まれ、寮を抜け出て田村の下宿先に赴くものの、未来を儚みまた学園闘争をする他の寮生を無視できずに、結局学園に戻って自殺を遂げる。
 これに生徒たちは益々反発し、収拾がつかなくなるのである。

民主主義が根付こうとしていた時代に、理不尽とも言える封建的な考えに生徒たちの息が詰まるのはむべなるかなで、個人主義の僕は大いに義憤にかられた。一番許しがたいのは、自分の決めた相手ではない男性との交際を一切認めないヒロインの父親である。終戦後8,9年ではこういう父権主義的な家も多くあったはずだが、社会が変わっている時代だけに親と子の間に大きな齟齬が生まれ悲劇に終わりやすい。それを最後まで理解できなかった父親は大バカだ。

学生たちの反旗を“赤”“共産党”という言葉で表現する学校側の認識は誤解も甚だしい。同時に、あの時代にアメリカを席巻していた“赤狩り”のターゲットは実際には自由主義者であったと僕は思っているだけに、本作に出て来るこれらの言葉は何気なく本質をついているような気がする。
 枝葉末節に余りに口を挟む現在の過剰な人権主義には気に入らないところがあるものの、人を追い詰める人権無視はやはり許されず、この映画の幕切れ以降に彼女らが勝利を収めたかどうかはともかく、“大人たち”が彼女らの考えを認める時代はそう遠くない。但し、現在の子供達が本当に息苦しさを感じないほど自由なのかと言えば疑問である。そこには社会の別なる要求が厳然と存在しているのではないか?

映画的には、学生VS学校側という単純な図式に推移せず、寮則に疑問を覚えている寮生の間に存在する温度差というべき立場の差や、純粋に恋愛問題に苦しむヒロインが他の寮生を慮らざるを得ない心境が繊細に描き込まれ、優れている。

ヒロインが冬休みに姫路に帰郷して父親の目を盗んで田村としのび逢いをする場面は些か長たらしいが、二人が海浜近くを語りながら歩くのを延々と捉える移動撮影が素晴らしく、姫路城から彼の乗る列車を見送るヒロインが0.1秒でも長く見ていようと一つ違う窓に移る(超ロングショット)気持ちにはじーんとさせられる。
 寮が同じ部屋構成の三階立てで、彼女らが観客側に向かって来る一階から階段に足をかけた瞬間に階段を一切見せずに二階に切り替わるところが何回も出て来るのだが、一階と二階が同じ構造だけに面白い効果があり、画面的にはこれが僕のハイライトだ。

if もしも・・・・」の女子大版でした。

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