映画評「ある女流作家の罪と罰」
☆☆☆(6点/10点満点中)
2018年アメリカ映画 監督マリエル・ヘラー
ネタバレあり
先日観た「天才作家の妻 40年目の真実」と重なるところのある内容の実話である。あちらでは嘘をついていた純文学作家に関する伝記を書こうとしていた伝記作家が脇役として出て来たが、こちらは伝記作家がインチキをする。
キャサリン・ヘプバーンの伝記で実績のある伝記作家リー・イズラエル(メリッサ・マッカーシー)が家賃も払えないほど食い詰め、仕方なくかつてキャサリンから貰った手紙を古本屋に売る。彼女は伝説的な舞台女優ファニー・ブライスの伝記を練っているのだが、現在では問題にされない対象である為エージェントから相手にして貰えない。
それでも伝記執筆の参考にしようと手にした資料に彼女の手紙があった為これを売ることにする。書店から刺激的な内容であれば高く買えると言われ、本物に文言を加えて味をしめ、次々と偽の手紙をものすのだが、やがてブラックリストに載る。そこで友人の老人ジャック・ホック(リチャード・E・グラント)に売らせに行くが、彼が逮捕されたことで犯行がばれる。
執行猶予の判決を受けた彼女は、したたかにその過程を綴った自叙伝を書いて評判を取る。
メリッサ・マッカーシーの演技が好調、割合しっかり作られている一方、スター俳優が不在であり、興味深いものの地味な内容なので、日本ではお蔵入りになった。
ヒロインがでっち上げるのはタイプライターの手紙だから、同じ時代の日本とは事情が違う。日本で、例えば夏目漱石、芥川龍之介、太宰治、三島由紀夫の手紙が発見されれば一桁違う高い値がつく。また、こうした作家の場合は学術的な研究に付され、安易に売り買いしないのが日本文化である。その辺りの感覚の違いが解るところが興味深い。
同時に、彼女が偽手紙の筆者として取り上げる英国劇作家ノエル・カワード(「逢びき」の原作戯曲などを書く)、「ファニー・ガール」の女優ファニー・ブライス、「ミセス・パーカー/ジャズエイジの華」の閨秀作家ドロシー・パーカーが日本ではさほどお馴染みでないのが、日本の大衆にはピンと来にくい。マレーネ・ディートリッヒが知名度で勝負ができる程度だろう。
残念なのは、かくして実話として映画になっている以上、落ち着くところが見え過ぎている為に、興味を繋ぐという意味でのサスペンス性を欠くことである。だから、この作品の場合は、実話ものと謳わないほうが映画としては有利になったと思う。
彼女が偽物を売った書店の女店主アナ(ドリー・ウェルズ)の短編小説の扱いも中途半端ではないか。これをうまく扱ったとしても印象が大きく変わるというものではなさそうだが。
先月の「朝まで生テレビ」でパックンが、”女性芸人”などと頭に女性などを付けるのが男女差別の諸悪の根源、といった内容のフェミニズム寄りの発言をしていた。言葉自体は男性社会であったことを示す職業の過去の実態を表しているだけ。つまり、男性が数で圧倒してきた職業などに″女”の冠が付く。実際女性が多いモデルの場合は、男性モデルと言う。五分になれば、男児・女児、男優・女優の如く、どちらにも冠がつく(古い職業の場合はなかなかそうならない)。僕の場合は、女性の俳優は俳優ではなく女優と言ってほしい。但し男性の俳優は男優に。冠がつくと理解が早いからである。芸能人などの人気投票の場合男女別にしないと実際が反映されにくい。また、オリンピックの各競技・各種目が男女別になっているように区別が必要である場合が多い。これをしないと小説など成り立たないだろう。区別が差別に発展するのが問題なのだ。
2018年アメリカ映画 監督マリエル・ヘラー
ネタバレあり
先日観た「天才作家の妻 40年目の真実」と重なるところのある内容の実話である。あちらでは嘘をついていた純文学作家に関する伝記を書こうとしていた伝記作家が脇役として出て来たが、こちらは伝記作家がインチキをする。
キャサリン・ヘプバーンの伝記で実績のある伝記作家リー・イズラエル(メリッサ・マッカーシー)が家賃も払えないほど食い詰め、仕方なくかつてキャサリンから貰った手紙を古本屋に売る。彼女は伝説的な舞台女優ファニー・ブライスの伝記を練っているのだが、現在では問題にされない対象である為エージェントから相手にして貰えない。
それでも伝記執筆の参考にしようと手にした資料に彼女の手紙があった為これを売ることにする。書店から刺激的な内容であれば高く買えると言われ、本物に文言を加えて味をしめ、次々と偽の手紙をものすのだが、やがてブラックリストに載る。そこで友人の老人ジャック・ホック(リチャード・E・グラント)に売らせに行くが、彼が逮捕されたことで犯行がばれる。
執行猶予の判決を受けた彼女は、したたかにその過程を綴った自叙伝を書いて評判を取る。
メリッサ・マッカーシーの演技が好調、割合しっかり作られている一方、スター俳優が不在であり、興味深いものの地味な内容なので、日本ではお蔵入りになった。
ヒロインがでっち上げるのはタイプライターの手紙だから、同じ時代の日本とは事情が違う。日本で、例えば夏目漱石、芥川龍之介、太宰治、三島由紀夫の手紙が発見されれば一桁違う高い値がつく。また、こうした作家の場合は学術的な研究に付され、安易に売り買いしないのが日本文化である。その辺りの感覚の違いが解るところが興味深い。
同時に、彼女が偽手紙の筆者として取り上げる英国劇作家ノエル・カワード(「逢びき」の原作戯曲などを書く)、「ファニー・ガール」の女優ファニー・ブライス、「ミセス・パーカー/ジャズエイジの華」の閨秀作家ドロシー・パーカーが日本ではさほどお馴染みでないのが、日本の大衆にはピンと来にくい。マレーネ・ディートリッヒが知名度で勝負ができる程度だろう。
残念なのは、かくして実話として映画になっている以上、落ち着くところが見え過ぎている為に、興味を繋ぐという意味でのサスペンス性を欠くことである。だから、この作品の場合は、実話ものと謳わないほうが映画としては有利になったと思う。
彼女が偽物を売った書店の女店主アナ(ドリー・ウェルズ)の短編小説の扱いも中途半端ではないか。これをうまく扱ったとしても印象が大きく変わるというものではなさそうだが。
先月の「朝まで生テレビ」でパックンが、”女性芸人”などと頭に女性などを付けるのが男女差別の諸悪の根源、といった内容のフェミニズム寄りの発言をしていた。言葉自体は男性社会であったことを示す職業の過去の実態を表しているだけ。つまり、男性が数で圧倒してきた職業などに″女”の冠が付く。実際女性が多いモデルの場合は、男性モデルと言う。五分になれば、男児・女児、男優・女優の如く、どちらにも冠がつく(古い職業の場合はなかなかそうならない)。僕の場合は、女性の俳優は俳優ではなく女優と言ってほしい。但し男性の俳優は男優に。冠がつくと理解が早いからである。芸能人などの人気投票の場合男女別にしないと実際が反映されにくい。また、オリンピックの各競技・各種目が男女別になっているように区別が必要である場合が多い。これをしないと小説など成り立たないだろう。区別が差別に発展するのが問題なのだ。
この記事へのコメント
>メリッサ・マッカーシーの演技が好調、割合しっかり作られている一方、スター俳優が不在であり、興味深いものの地味な内容なので、日本ではお蔵入りになった。
こういう映画ってスターが出ていない方がいいかもです。
面白く観ましたよ。
このM・マッカーシーはアメリカでは有名人ですか?
ニューヨーク?の下町をなりふり構わずズシズシ歩く後ろ姿が良かったです。こういうガムシャラな人、好きです。
(私、ガムシャラさに欠けるもんで・・笑)
彼女は一応愛猫の医療費を稼ぐという大義名分があったわけですが、私の感覚からいったらそんなに悪い事とも思えず・・・
なんでも鑑定団なんか見てたら、日本の骨董屋も相当やばいですよね。
あんなに偽物を売りつけて犯罪行為にならないのかな・・・
欧米はタイプライターだから捏造しやすいですね。
かつての日本は筆書きですもんね。昔の人は達筆だから捏造はかなり難しいでしょうね。
>こういう映画ってスターが出ていない方がいいかもです。
そう思います。
しかし、集客できる洋画が限られている現在、スター不在は買いにくい。実際にはスター俳優が出ていてもお蔵入りするのが多いのが実際。1980年代のミニシアター・ブームが懐かしいです。
>このM・マッカーシーはアメリカでは有名人ですか?
多分喜劇女優としてそれなりに有名と思います。主役3人を女性に変えた「ゴーストバスターズ」リメイクで、その一人に扮していました。
>私の感覚からいったらそんなに悪い事とも思えず・・・
彼女としては、自分の文才が発揮できるという矜持もあったような気がしますね。
>なんでも鑑定団なんか見てたら、日本の骨董屋も相当やばいですよね。
偽物を承知して売ったら詐欺ですから、犯罪ですよ。しかし、骨董には真贋が解らないことも多く、「鑑定団」でも当番組の鑑定家の判断ですとお断りをすることがありますね。その点おもちゃは楽です(笑)
>昔の人は達筆だから捏造はかなり難しいでしょうね。
そうでしょうねえ。葉書や原稿用紙であれば、当時のものは偽造できないでしょうし。
ところで、あの女性店主は同性愛者でしょうか? リーに接する態度が妙なきがしました。それとも、優秀な文筆家としての単なる憧憬だったのでしょうか?
女医とか女教師とか、どこがいけないんでしょうね。女性を「女性」と示すことが差別になるという考え方の方が、女性蔑視になってるんじゃないかと思うんですが、差別的ニュアンスで使う人がいて不快な思いをしている職業婦人がまだ多いということでしょうか。
>ところで、あの女性店主は同性愛者でしょうか? リーに接する態度が妙なきがしました。それとも、優秀な文筆家としての単なる憧憬だったのでしょうか?
う~ん、微妙でしたね。妙な色目を使ってました。(笑)
ノエル・カワードとディートリッヒはバイセクシャルでしたね? 何か関係あるんでしょうか・・・
差別言葉の問題ですが、先日、「風と共に去りぬ」の時にお話ししていた荒このみさんの動画でもこの問題に触れておられました。
黒人の呼び方一つでも、かつて「ブラック」はだめだったが、60年代のブラックパワー運動の頃からポジティブな意味を込めて使われるようになったと。
ニグロも当初は学術的な言葉だから蔑称ではないという事で使われだしたとか。
どんな言葉に替えても差別意識がなくならない限り、言葉に「差別」の烙印が押されてしまう日が来るという事でしょうか。
荒さんは日本人に分かりやすい例として「便所」を挙げておられて、厠、御不浄etc と呼び方は次々変わっていって、一つの言葉が定着すると、また別の呼び方で物そのものからくるイメージを隠す、或いは和らげていく、といったことをおっしゃっていました。(正確な内容は動画を見てくださいね)
結局、言葉そのものには罪はなく、言葉を発する人間の意識の問題なんじゃないでしょうか。
差別的な言葉を使わなくても非常に不快な差別意識を感じさせる話し手もいますし、逆に言葉に無頓着で昔ながらの物言いしかできないけれど、差別意識を持たない人もおられると思います。
>男性なら俳優でも構わないです。
僕もそうなのですが、寧ろ″俳優”がほぼ男性にしか使われなくなったら、堂々と使いたいです。下手に使うと差別主義者と誤解されてしまう(苦笑)。
>女性を「女性」と示すことが差別になるという考え方の方が、
>女性蔑視になってるんじゃないか
僕もそう思います。そもそも人の考えは色々あるわけですから、フェミニストその他が、一つの考えに染めようとしていること自体が、全体主義的で嫌いです。全体主義者に人権を語ってもらいたくありません。
>職業婦人がまだ多いということでしょうか。
当事者は案外気にしていないと思いますがねえ。女性芸人と言われて、嫌だと思っている人は少ないでしょう。女優もそうでしょう。そう言えば、区別を必要としない状況では、女性歌手とは余り言いませんよね?
女性作家は、色々考える方々ですから、違うかもしれませんね。
言葉の問題。 女優、男優の問題でしたね。
論点を反らしてしまいました。すいません。
もう30年ほど前ですが、日本のフェミニスト三羽烏(上野千鶴子と小倉千加子はバリバリですが、富岡多恵子はフェミニストかな?)が「男流文学論」を上梓して話題になりましたね。
たしかに女流とはいっても男流とは言いませんね。
内容は「噴飯もの」の部分と「思わず膝を打つ」部分の両極端で面白かった記憶があります。
ま、文芸批判というよりは男批判なところが、何とも寂しい感じもしましたが。
>ノエル・カワードとディートリッヒはバイセクシャルでしたね?
そうですね。19世紀末以降、作家に非常に多いですね。アンドレ・ジッド、ヘルマン・ヘッセ、サマセット・モームなど。20世紀でも最重要の作家たちですよ。
彼らには僕のような凡俗な大衆には解りがたい人間観があるのでしょうねえ。
>荒このみさんの動画
すみません。まだ冒頭部分を見ただけです。
しかし、その一つの事象を示す言葉の変遷への言及は興味深いですね。面白そうだ。
>言葉に無頓着で昔ながらの物言いしかできないけれど、差別意識を持たない
そう思います。クリント・イーストウッドの「運び屋」の主人公も、黒人夫婦にニグロと言ってブラックと言い直されているのですが、夫婦のエンストした車の面倒を見ている時点で差別意識がなく、その類の人と理解できました。
>上野千鶴子と小倉千加子はバリバリですが、富岡多恵子は
小倉千加子という人は存じ上げませんでした。Wikiで調べてみたら、結構滅茶苦茶に近いことを言っていますね。ここまで行くとどうなのかな。
>「男流文学論」を上梓して話題になりましたね。
昔新聞の文芸欄に載っていた記憶がありますが、タイトルからして皮肉満点で、面白そうです。
男流ではありませんが、世間的に男が頭につくのは、男性モデル(これはごく一般的)、男性ストリッパー、男芸者(これは風刺的な言葉に過ぎない)くらいですかね。確かに男性社会が生み出した職業ばかりです。
家族なる形態が生まれた頃は女性が中心だった(ボーヴォワール)らしいですが、土地所有などの経済活動が始まると、体力のある男性社会に代わったのだとか。
>芸批判というよりは男批判なところが、何とも寂しい感じも
極端なのは何でも良くないです。変化は段階を踏んで進まないと反発が強くて、却って先に進まない感じがします。
新聞によりますと、自民党議員に選択的夫婦別姓制度を理解する人が徐々に増えて来ているらしいと聞きました。10年後(そんなにかからないかな)くらいには導入されるかもしれません。この議論が始まった当初、僕は自民党議員と同じ考えでしたが、別姓により家族が崩壊するという考えは勘違いでした。洋画を見ればよく解ります。
夫婦別姓
確か中国は女性は結婚しても姓も名も変わらないとか?
どちらの姓を名乗るのかなんてどっちでも良い話で、みんながそういうのに慣れてしまえば何ら問題はないと思いますが、何をそんなにこだわるのか理解できません。
昔、上野千鶴子がまだ京都の某大学に勤めていた頃、隣の町内に住んでいまして、彼女と同じマンションに住んでいた友人によるとやはりイメージ通りなかなか手ごわい女史のようでした。
>確か中国は女性は結婚しても姓も名も変わらないとか?
儒教の国はそう。韓国もそう。恐らく日本も江戸時代まではそうでした。
基本的に過去形になりまして、今は変えても良いようです。しかし、長年の習慣で買えない人の方が多いのではないでしょうか。
日本も江戸時代までは実は夫婦別姓であり、同時に同姓であったと思われます。要はどっちでも良かったし、他人にフルネームを言う必要もなかった社会でしょう。
100%正しい事実は、明治31(1890)年に夫婦同姓が強制になったということ。僅かに120年くらいの歴史です。
自民党議員は、基本的に明治時代にできたことを伝統と言っているので、長い歴史を考えると実は伝統でないことを伝統と言っているんですよね。
>どちらの姓を名乗るのかなんてどっちでも良い話で、
全くその通り。両親が違う場合は、子供をどちらにするか多少もめるかもしれませんがね。そのうち、鈴木さんと佐藤さんが結婚して、欧米式に鈴木佐藤なんて名前がうまれるかもしれませんよ(笑)。
これに反対する人は、もしかしたら、同棲(事実婚)への強い抵抗が潜在意識としてあるのかもしれません。