映画評「記憶にございません!」
☆☆☆(6点/10点満点中)
2019年日本映画 監督・三谷幸喜
ネタバレあり
政治風刺映画は英米映画が得意とするところで、日本映画では余り作られて来なかった。そこに切り込んだ意欲を一応買っておきたい。
“記憶にございません” という措辞は疑獄の証言等で使われる常套句で、必ずしも政治における言葉ではないが、三谷幸喜の新作である本作はその欺瞞性を逆手に取る。即ち、第127代総理大臣の中井貴一を記憶喪失にするのだ。彼は聴衆の一人に石を頭部に受けて記憶喪失になる。都合が悪いことを忘れたのではなく、都合の良いことも思い出せない。
無事に退院したものの、支持率が2.3%と低くても政権維持の為に、その事実を知るディーン・フジオカと小池栄子らの秘書官が、閣僚たちを含め他人に洩れることを防ごうと奮闘する。
隠すのも一種の嘘であるから、これもシチュエーション・コメディーに必須の定石を踏襲しているわけである。こういう視点で映画を見れば、そう簡単につまらない云々かんぬんとは言えない。
現安倍政権への風刺が多少ある。アメリカ大統領を迎えてゴルフ接待の場面が出て来るのは風刺として笑えるだろう。ゴルフをルールから勉強しなおすだけでなく、子供時代の先生(山口崇)に来てもらって政治の勉強をするなんても馬鹿馬鹿しいまでの可笑し味がある。
アメリカの大統領が日系の女性というのは、現在では既に現実味のある設定で、面白いというより興味深い。演じるのは木村佳乃だが、英語が実にうまい。本作で一番感心したのは彼女の英語の発音でござる。
主人公が実は途中で記憶が回復していたという種明かしがちょっとした捻り。彼は政治や家族に対する態度を改めるに負傷を利用したわけで、設定として余り普遍性のない恨みはあるが、人情として解らないでもない。
政権をコントロールしている官房長官に草刈正雄、総理や官房長官をゆする政治ゴロに佐藤浩市。政治ゴロが政権の汚濁排除に役立つなんてのは実に人を食っているが、政治風刺としては食い足りない作品に終わり、寧ろ肩の凝らない大衆喜劇として見るのが一番でござろう。
その人が極めて良い政治をするのであれば、選挙法の違反をしようが贈賄しようが構わないと思う。必要悪である。政治なんてそんな綺麗なものではない。8%の安倍支持者がなかったと信じている加計学園の問題は、人間の行動原理から言って明らかにお友達故に起きた事件。賄賂等がないのは確かだから刑法上の事件ではないが、その事件性よりその後の関係者の答弁等が気に入らない。殆どが噴飯ものだ。森友学園のほうは、首相の一言が結果的に一人の死者を生んだ。そこに関しては、この間の「朝まで生テレビ」において、安倍政権支持ぶりが著しい産経新聞の編集委員も異を唱えなかった。安倍政権を大体において支持する全体主義者も時にその政策(移民法改正など)に異を唱えることがある。何故こういうことが起きるか? 要は、彼らは安倍政権以上に日本会議支持(というかそのもの)なのである。安倍政権は保守と言われるが、小林よしのり氏に倣って言えば、似非保守、共産党より左翼だろう。森友の籠池氏も同じことを言っている。以上、イデオロギーではなく、個人主義者としての感想でした。
2019年日本映画 監督・三谷幸喜
ネタバレあり
政治風刺映画は英米映画が得意とするところで、日本映画では余り作られて来なかった。そこに切り込んだ意欲を一応買っておきたい。
“記憶にございません” という措辞は疑獄の証言等で使われる常套句で、必ずしも政治における言葉ではないが、三谷幸喜の新作である本作はその欺瞞性を逆手に取る。即ち、第127代総理大臣の中井貴一を記憶喪失にするのだ。彼は聴衆の一人に石を頭部に受けて記憶喪失になる。都合が悪いことを忘れたのではなく、都合の良いことも思い出せない。
無事に退院したものの、支持率が2.3%と低くても政権維持の為に、その事実を知るディーン・フジオカと小池栄子らの秘書官が、閣僚たちを含め他人に洩れることを防ごうと奮闘する。
隠すのも一種の嘘であるから、これもシチュエーション・コメディーに必須の定石を踏襲しているわけである。こういう視点で映画を見れば、そう簡単につまらない云々かんぬんとは言えない。
現安倍政権への風刺が多少ある。アメリカ大統領を迎えてゴルフ接待の場面が出て来るのは風刺として笑えるだろう。ゴルフをルールから勉強しなおすだけでなく、子供時代の先生(山口崇)に来てもらって政治の勉強をするなんても馬鹿馬鹿しいまでの可笑し味がある。
アメリカの大統領が日系の女性というのは、現在では既に現実味のある設定で、面白いというより興味深い。演じるのは木村佳乃だが、英語が実にうまい。本作で一番感心したのは彼女の英語の発音でござる。
主人公が実は途中で記憶が回復していたという種明かしがちょっとした捻り。彼は政治や家族に対する態度を改めるに負傷を利用したわけで、設定として余り普遍性のない恨みはあるが、人情として解らないでもない。
政権をコントロールしている官房長官に草刈正雄、総理や官房長官をゆする政治ゴロに佐藤浩市。政治ゴロが政権の汚濁排除に役立つなんてのは実に人を食っているが、政治風刺としては食い足りない作品に終わり、寧ろ肩の凝らない大衆喜劇として見るのが一番でござろう。
その人が極めて良い政治をするのであれば、選挙法の違反をしようが贈賄しようが構わないと思う。必要悪である。政治なんてそんな綺麗なものではない。8%の安倍支持者がなかったと信じている加計学園の問題は、人間の行動原理から言って明らかにお友達故に起きた事件。賄賂等がないのは確かだから刑法上の事件ではないが、その事件性よりその後の関係者の答弁等が気に入らない。殆どが噴飯ものだ。森友学園のほうは、首相の一言が結果的に一人の死者を生んだ。そこに関しては、この間の「朝まで生テレビ」において、安倍政権支持ぶりが著しい産経新聞の編集委員も異を唱えなかった。安倍政権を大体において支持する全体主義者も時にその政策(移民法改正など)に異を唱えることがある。何故こういうことが起きるか? 要は、彼らは安倍政権以上に日本会議支持(というかそのもの)なのである。安倍政権は保守と言われるが、小林よしのり氏に倣って言えば、似非保守、共産党より左翼だろう。森友の籠池氏も同じことを言っている。以上、イデオロギーではなく、個人主義者としての感想でした。
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