映画評「渚にて」
☆☆☆☆(8点/10点満点中)
1959年アメリカ映画 監督スタンリー・クレイマー
ネタバレあり
キューバ危機の前、冷戦がピークに達した頃に作られた反核SFで、初めて観たのは1970年代中学生か高校生の頃。徹底して静かであるが故に怖く、極めて強い印象を残した。二回目は多分今世紀に入ってブログを始める前に衛星放送による完全版で観たと思う。今回は図書館から借りたDVDでの鑑賞。
製作5年後の1964年が舞台だから当時としては近未来。お話は既に第3次世界大戦で核兵器合戦により北半球が全滅した後から始まる。恐らく米ソ以外の国の大半は核兵器による直接死ではなく、原爆症による死と考えられる(追記:コバルト爆弾とのこと)。
グレゴリー・ペックが艦長と務める米国原子力潜水艦が潜航中に帰るべき母国が廃墟になった為、依然放射能に汚染されていないオーストラリアに寄港する。乗組員の大尉アンソニー・パーキンズにとっては祖国で、妻ドナ・アンダースンとの間に子供が生まれたばかり。ペックは、パーキンズや潜水艦関係者の科学者フレッド・アステアらの招待で、市井で暫しの休憩を取る。その中に孤独な美人エヴァ・ガードナーがいて昵懇になっていくが、亡くなった妻子を慮って深い関係にはなれない。
潜水艦が捉える不思議な交信を追ってペックらはサンフランシスコに向かう。そこの水力発電所が発信源で、その意味を探る為である。しかし、厳重な装備で上陸した乗組員がそこで見たのは、カーテンの紐とコーラの瓶と風による合作に過ぎない。
彼らは帰還する頃にはオーストラリアも既に死の灰がやって来ており、人々は最期にあたってそれぞれの覚悟をしていく。
本格的に核戦争が起きれば、この映画(原作は直前に発表されたネヴィル・シュートの小説)が描いたようなことが起こるかもしれないが、個別的な核兵器合戦では人類滅亡までには至らず、SFアクションなどが描く荒廃した世界のほうが近いであろう。しかし、あれらの映画の描く荒廃ぶりも些か極端とは思う。
いずれにしても、この映画が描く立場と違って、核兵器は強力であればあるほど抑止力は高くなり(「ヒロシマへの誓い サーロー節子とともに」で述べたように技術的理由による発射は別問題)、下手に小型の核兵器など作ればそのほうが世界にとっては危機であると僕は考える。そうではあっても、この映画の価値は小さいなどとは全く思わない。
作者は(現在の分析では、ここで起こる現象は実際以上に過剰と思うが)放射能の恐怖を扱ったわけで、核というものは原発を含めて人間の御せるものでないという、我々が東日本大震災を通じてよく知るに至った事実と重なる。
長いとか退屈という人がいるが、想像力の欠如による退屈感であろう。それどころか、多くの上映時間を割く、登場人物の最後の静かな日常の描写群は、大変な感銘を生む。彼らの生活が平凡であればあるほど、この状況下においては、強い意味を呈する。特に三組の男女、ペックとエヴァ、パーキンズ夫妻、提督と秘書の最後は余りに美しく、じーんとさせられてしまう。今世紀に入って盛んに作られた終末論映画と重なるところもあるが、そういう宗教や哲学ではなく、もっと人間的なレベルで語ったところが胸に迫るのである。
製作者上がりに余り成功した監督はいないが、スタンリー・クレイマーは良い作品を色々と作り、その中でも本作は白眉。
保守には国家を個人より重んじる全体主義故に経済を理由とする原発維持・推進派が多いが、IMFの研究結果によると、日本の技術力であれば、原発から再生可能エネルギーに大幅に転換すれば、しない場合と比較して、GDPが毎年数兆円増えていくらしい。この報告が正しければ、原発推進派は意に反して日本に経済損失をもたらすことになる。現時点では断言しないけれど、世界経済の安定と成長にしか興味がないIMFが言うことだから傾聴すべきものがある。
1959年アメリカ映画 監督スタンリー・クレイマー
ネタバレあり
キューバ危機の前、冷戦がピークに達した頃に作られた反核SFで、初めて観たのは1970年代中学生か高校生の頃。徹底して静かであるが故に怖く、極めて強い印象を残した。二回目は多分今世紀に入ってブログを始める前に衛星放送による完全版で観たと思う。今回は図書館から借りたDVDでの鑑賞。
製作5年後の1964年が舞台だから当時としては近未来。お話は既に第3次世界大戦で核兵器合戦により北半球が全滅した後から始まる。恐らく米ソ以外の国の大半は核兵器による直接死ではなく、原爆症による死と考えられる(追記:コバルト爆弾とのこと)。
グレゴリー・ペックが艦長と務める米国原子力潜水艦が潜航中に帰るべき母国が廃墟になった為、依然放射能に汚染されていないオーストラリアに寄港する。乗組員の大尉アンソニー・パーキンズにとっては祖国で、妻ドナ・アンダースンとの間に子供が生まれたばかり。ペックは、パーキンズや潜水艦関係者の科学者フレッド・アステアらの招待で、市井で暫しの休憩を取る。その中に孤独な美人エヴァ・ガードナーがいて昵懇になっていくが、亡くなった妻子を慮って深い関係にはなれない。
潜水艦が捉える不思議な交信を追ってペックらはサンフランシスコに向かう。そこの水力発電所が発信源で、その意味を探る為である。しかし、厳重な装備で上陸した乗組員がそこで見たのは、カーテンの紐とコーラの瓶と風による合作に過ぎない。
彼らは帰還する頃にはオーストラリアも既に死の灰がやって来ており、人々は最期にあたってそれぞれの覚悟をしていく。
本格的に核戦争が起きれば、この映画(原作は直前に発表されたネヴィル・シュートの小説)が描いたようなことが起こるかもしれないが、個別的な核兵器合戦では人類滅亡までには至らず、SFアクションなどが描く荒廃した世界のほうが近いであろう。しかし、あれらの映画の描く荒廃ぶりも些か極端とは思う。
いずれにしても、この映画が描く立場と違って、核兵器は強力であればあるほど抑止力は高くなり(「ヒロシマへの誓い サーロー節子とともに」で述べたように技術的理由による発射は別問題)、下手に小型の核兵器など作ればそのほうが世界にとっては危機であると僕は考える。そうではあっても、この映画の価値は小さいなどとは全く思わない。
作者は(現在の分析では、ここで起こる現象は実際以上に過剰と思うが)放射能の恐怖を扱ったわけで、核というものは原発を含めて人間の御せるものでないという、我々が東日本大震災を通じてよく知るに至った事実と重なる。
長いとか退屈という人がいるが、想像力の欠如による退屈感であろう。それどころか、多くの上映時間を割く、登場人物の最後の静かな日常の描写群は、大変な感銘を生む。彼らの生活が平凡であればあるほど、この状況下においては、強い意味を呈する。特に三組の男女、ペックとエヴァ、パーキンズ夫妻、提督と秘書の最後は余りに美しく、じーんとさせられてしまう。今世紀に入って盛んに作られた終末論映画と重なるところもあるが、そういう宗教や哲学ではなく、もっと人間的なレベルで語ったところが胸に迫るのである。
製作者上がりに余り成功した監督はいないが、スタンリー・クレイマーは良い作品を色々と作り、その中でも本作は白眉。
保守には国家を個人より重んじる全体主義故に経済を理由とする原発維持・推進派が多いが、IMFの研究結果によると、日本の技術力であれば、原発から再生可能エネルギーに大幅に転換すれば、しない場合と比較して、GDPが毎年数兆円増えていくらしい。この報告が正しければ、原発推進派は意に反して日本に経済損失をもたらすことになる。現時点では断言しないけれど、世界経済の安定と成長にしか興味がないIMFが言うことだから傾聴すべきものがある。
この記事へのコメント
>長いとか退屈という人がいるが、想像力の欠如による退屈感であろう。
こういう状況を想像するのはなかなか難しいのでしょうね。
若い人なら大騒ぎするパニック映画を期待してしまうのかもしれませんね。
映画を観たのは原作を読んだ後でしたが、静かにじわじわと未知の恐怖に浸食されていく感じはデュ・モーリエの「鳥」に少し似ていたように思います。 「鳥」も大戦中の空爆の記憶が色濃く反映されているようにも思えます。
どちらもイギリス的な抑制がきいていて品が良いです。グレゴリー・ペックが出てくると下品になりようがないとも言えますが・・・あ、トニパキも品がありました。(笑)
ネヴィル・シュートは空軍に在籍しながら執筆していたとか。
「パイド・パイパー」も良かったですが映画になってましたか?
あんこに塩を加えて味を濃密にするように、水爆の残りカスにすぎない中性子を利用し、水爆など比較にならない膨大な放射線を作り出し、建物は破壊せずに生き物を根絶やしにしてしまう恐ろしい兵器で、1950年にレオ・シラードが構想しましたが現時点ではまだ実用化されていません。
>宗教や哲学ではなく、もっと人間的なレベル
救いを求める人が教会に集うシーンこそ出てきますが、キリスト教徒による終末思想や、神に自らを委ねるような映画進行になっていないのが普遍的かつ根源的なんですよね・・。
俳優陣は、皆、好演でしょうね!
熾火のような残された愛に命を燃やすグレゴリー・ペッグとエヴァ・ガードナー・・。
不可能を承知で子供に未来を託そうとするアンソニー・パーキンスとドナ・アンダーソンの若夫婦に涙を禁じえませんが、なかで、シリアスドラマ初出演のフレッド・アステアのミュージカルスターのオーラを一切封印した演技は流石です・・。
>核兵器は強力であればあるほど抑止力は高くなり
これは確かにそうでしょう・・。
抑止力はないという人は、夜道を、ミニスカートにハイヒールで歩く女性と、同じ女性でも催涙スプレーにジャージを着た女性とで、痴漢はどちらを襲うか考えてみてほしいですね・・。
この映画の3年後に起こるキューバ危機など、知れば知るほどヤバかった!としか言いようがなく、ピッグス湾の失態など「腰抜け」と保守派から揶揄されたJFKは、やはり、よくやったのではないか、と思いますけどね・・。
>こういう状況を想像するのはなかなか難しいのでしょうね。
人間ではなく、現象を描いた作品しか面白いと思わない人々が一定の割合でいますね。しかし、ここまで極端ではなくても、病気とか、想像できることは色々とあると思いますが、それもできないのでは、いやはやなんとも。
>映画を観たのは原作を読んだ後でしたが、静かにじわじわと未知の恐怖に
>浸食されていく感じはデュ・モーリエの「鳥」に少し似ていたように
なるほど。人が閉じこもるなどして町に人がいない風景は何だかぞっとしますね。今回のコロナ禍の町も一時それに近い時もありました。
僕は、ミケランジェロ・アントニオーニの「太陽はひとりぼっち」は案外この映画の影響を受けているのではないかと思います。あの映画の主題“愛の不毛”の背後には核兵器の恐怖が揺曳している、と僕は見ました。
>どちらもイギリス的な抑制がきいていて品が良いです。
どちらもアメリカ映画ですが、原作の英国風味が強いということですね。
>「パイド・パイパー」も良かったですが映画になってましたか?
すぐ調べる課がすぐに動いた結果、1942年に同名で映画化されていますが、日本未輸入のようです。また1989年に“Crossing to Freedom"のタイトルでTV映画化(主演ピーター・オトゥール)され、90年に日本でも「はるかなるドーバー」という邦題で放映されたようです。
>通常の核兵器ではなく、コバルト爆弾なんですね。
これは不勉強で言及できませんでした(本文に軽く追記)。
だから、あそこまで極端なのですね。
>フレッド・アステア
彼のカー・レースに関するところがバランス的に問題を感じないでもなかったのですが、絶望が彼を車に走らせるのですね。車に走らせ、車を走らせる!
>JFKは、やはり、よくやったのではないか、と思いますけどね・・。
同意です。あれほどの大事ですから、彼は歴史に名を遺す大統領と思います。
>僕は、ミケランジェロ・アントニオーニの「太陽はひとりぼっち」は案外この映画の影響を受けているのではないかと思います。
ミーナの歌う主題歌が印象的でしたが、映画そのものはあまり記憶にないです。
”マドモアゼル アンニュイ” ことモニカ・ベルッチじゃなくてモニカ・ヴィッティの不思議な美貌とアラン・ドロンの冷たい美貌がなんだかしっくりこないが故に「愛の不毛」の雰囲気を醸し出していたような・・・それにしても、この頃観たヨーロッパ映画の女優さんはどうしてみんなあんなに美しかったんでしょう。
カルチャーショックでしたよ、アヌーク・エーメとか。
すぐ調べる課さんはきっと調べてくださると思ってました。
ありがとうございます!
「パイド・パイパー」ピーター・オトゥール版を観たいです。
大戦中のヨーロッパを戦火をくぐって民間人が移動する映画はけっこうありますね。「パティニョールおじさん」と混同してました。
最近、「二つの名前を持つ少年」を観ましたがあれは東に逃げる話でした。日の登る方に向かって行け、と。
>ミーナの歌う主題歌が印象的
インストゥルメンタル版が大好きで子供の頃レコードでよく聴きました。山本リンダの「困っちゃうナ」で、遠藤実はこの曲のアレンジを拝借したと直感しました(子供の時ではなく最近ですけれど)。
>”マドモアゼル アンニュイ” ことモニカ・ベルッチじゃなくて
>モニカ・ヴィッティの不思議な美貌
実に得難い女優でしたよねえ。
70年代に入ってアントニオーニがパッとしなくなって彼女も余り出て来なくなりましたけれど。アントニオーニがパッとしなくなったのは、愛の不毛が冷戦を背景にしていて、60年代末から70年代に雪解けしたことにその遠因があると思っています。僕の勝手な考えに過ぎませんが。
>「パティニョールおじさん」
見ていますが、まるで憶えていません。40までに観た映画は結構憶えているのに、それ以降は見ることが目的となってしまった感があり。ミヒャエル・エンデ「モモ」はそういうことはいけませんと言っているようですが、ここまで来たらそのまま突っ走ろう!
>「二つの名前を持つ少年」を観ましたがあれは東に逃げる話でした。
これはミシュランならで、見ちょらんです。あは、つまらん洒落^^;
>日の登る方に向かって行け、と。
ええ、リチャード・ウィドマーク主演に「太陽に向って走れ」、ロバート・レッドフォード主演に「夕陽に向って走れ」という作品がありましたね。関係ないけど。
今日はやや暴走気味で、失礼しました。
僕らが子供のころにヒットしたのは、コレットテンピア楽団のバージョンでしたね。レコードも家にありました。
>山本リンダの「困っちゃうナ」
イントロの部分でしょうか。
山本リンダは、同時代の小山ルミなど”混血児タレントや、中村晃子ら一人GS歌手の持つやさぐれ感が全くなく、タレ目で今でいうならキャリー・マリガンみたいにノーブルな顔立ちでした・・。
69年に、近所のお兄さんに連れて行ってもらったジャズ喫茶で、ザ・ターマイツという売れないGSを従えてライブ活動してる彼女を観ました。(そのころ、すでに落ち目の三度笠という印象でしたが)歌も踊りも上手で迫力があり、3年後、「どうにもとまらない」でブレイクする兆しはあったと今になって思います・・。
>「太陽はひとりぼっち」の愛の不毛の背後に核兵器の恐怖が揺曳
津村秀夫の言うアントニオーニ三部作の急所、”静寂と孤独”とは、まさに、核戦争後の現在のそれでしょう・・。
愛の不毛や、男女の関係の不可能性を主題に捉えてるサイトがあまりにも多い(確かにアントニオーニは細君に三行半を渡されてます‥笑)ですが、そう観る人は、この作品の字面しか読みこんでいないからでしょう・・。
モニカ・ビッティが、迫りくる核戦争の恐怖の前で自己解体したのは明白です。
実存の恐怖に晒されてしまい、それまでの自分と日常がすべて壊れてしまってますね・・。
だから、ローマにいるのに外国にいるように感じていると、ドロンに訴えます。
映画ラストに男性が読んでいた新聞の見出しも、冷戦の不安を暗示させるものでした。
>>山本リンダの「困っちゃうナ」
>イントロの部分でしょうか。
そうですね。「太陽はひとりぼっち」でテナー・サックスのリフをほぼそのまま、「困っちゃうナ」ではギターが演奏していますね。楽器の編成もそっくり。
>中村晃子
「虹色の湖」!
結構好きでした。
>愛の不毛や、男女の関係の不可能性を主題に捉えてるサイトがあまりにも多い
僕が再鑑賞した時に、まずモニカ・ヴィッティが一人で歩く(彼女以外)無人の風景が「渚にて」を思い起こさせ、これは冷戦構造を意識した風景かと考え、やがて浅野さんも指摘する新聞の文字を見て、僕は確信しました。原題が示すであろう「日蝕」も核に関連させたくなりますよね。
僕のような見方をした人は、十人に一人もいない気がしますねえ。長く映画を観ていると、こういう勘が働くこともあります。そういう時は得をした気になりますね^^
このスタンリー・クレイマー監督の映画「渚にて」が、反戦的なテーマを持っていることは自ずと明らかであるように思います。
遂に、誰もいなくなった広場にかかっている「まだ時間はある。兄弟たちよ」という横断幕が写し出されるシーンで、この映画は終るのですが、明らかにこの横断幕は、この映画を観ている人々に対して提示されているのだと思います。
この映画が製作された1950年代終盤というのは、冷戦下における、東西陣営の両極化が明瞭になり、軍拡の時代がまさに到来せんとしていたような時代でありました。
まだ時間があるというメッセージは、そういう軍拡競争が手遅れなポイントまで達するのを阻止することが、今ならまだ出来ると我々観る者に向かってアピールしているように思えます。
この映画の面白いところは、戦争の残虐さを残虐なシーンを見せることによって訴えるというような、通常よくある手法を用いるのではなく、逆に全くそういうシーンを描くことなく、見事に戦争の無益さというテーマを表現している点です。
例えば、核戦争で世界が壊滅したのなら、TV映画の「ザ・デイ・アフター」(1983)のような、どこもかしこも廃虚になっているような舞台を想像してしまうのですが、この「渚にて」には、ガラガラに崩れた廃虚など、どこにも登場しないんですね。
この映画においては、核戦争が発生したならば、軍事施設の次にターゲットになるであろうはずのサンフランシスコのような大都市ですら、無傷で残っているのです。
ただし、そこには誰一人生存者はいないわけであり、無傷で残った大都市に、ただの一人も人間が住んでいないという不思議な光景が、実に奇妙な虚無感を生み出すことに成功しているように思われます。
それから、放射能汚染による即時の生命の壊滅から免れた、地球上で唯一の国であるオーストラリアにも徐々に放射能が迫ってくるのですが、そこで営まれている生活が、最後の最後まで通常通り続いていく様を描いた後に、最後のシーンで、そのオーストラリアも無人の廃虚と化したシーンが写し出されます。
今まであったものがなくなってしまう様子を通じて、なんとも言えない虚無感、あるいは無為感が表現されているように思います。
こういう表現になったというのも、恐らくこの映画が製作された時代の、時代的な背景も一役買っていたのかもしれません。
もちろん、先ほど述べたような、東西の冷戦の初期の頃という背景もそうなのですが、この時代が、第二次世界大戦及び朝鮮戦争が終った後で、なおかつ、ベトナム戦争はまだ先であったという、中間的な時代であったということです。
戦争をリアルな戦争シーンとしてではなく、いわば"what-if"的なシナリオで描くような、婉曲的な表現方法が好まれたのかもしれないということです。
この映画の数年先には、キューバ危機のような事件も発生するのですが、「渚にて」という映画は、戦争の無益さを描いた、東西冷戦時代の映画の先駆けだと言ってもいいのではないでしょうか。
いずれにしても、「渚にて」は常套的な手段に頼らない、非常に変わった印象のある映画であり、カテゴリー的には、時としてSFとして扱われることもありました。
だが、製作意図という見地から見た場合には、時代的背景も考え合わせてみれば、SFというよりは、もっとより現実感覚へのアピールという側面が強い映画だったのではないかと思います。
>カテゴリー的には、時としてSFとして扱われることもありました。
僕は映画ファン雑誌として「スクリーン」を購読していましたが、たまに買うこともあった「ロードショー」のSF映画を紹介することころで、この映画も入っていましたね。
この映画の2年後に作られる「太陽はひとりぼっち」に、僕はこの映画の影を観ました。ミケランジェロ・アントニオーニは冷戦を心配していたようです。