映画評「青春の殺人者」
☆☆☆☆(8点/10点満点中)
1976年日本映画 監督・長谷川和彦
ネタバレあり
原作の小説を書いたのが中上健次、監督をしたのがこれが第一作の長谷川和彦。二人とも伝説的な人物となってしまった。
中上は1992年に46歳で夭折してしまったし、長谷川はこの三年後に「太陽を盗んだ男」を撮ったきりメガフォンを取っていないからである。
本作の評価は、【キネマ旬報】で1位に選ばれた当時と比べると大分下がっているが、当時はなかった観客の棒読みシンドロームによる俳優の演技に対する偏見が強いようである。
本作を観たのは、40年くらい前オールナイト四本立てにて。一緒に観たのは長谷川の第二作、水谷繋がりで「幸福」(これも現在観にくい)、そして関係の薄い当時の話題作「駅Station」。
とにかく、この作品が(無償で)観られるのは半強制的にプライム会員になったことによる僥倖。とは言え、貴重品はどんどん減っていくわけで、いつまで続くかそれが問題。
自動車整備業の父親(内田良平)に言われるままその資金で始めたスナックのマスターを務める若者斉木順(水谷豊)は、取り上げられた車を取り返しに実家に戻った時に、父親にスナックの手伝いをしている恋人ケイ子(原田美枝子)との関係について干渉されたのにかっとして包丁で刺してしまう。
死体を処理しようとしているところへ母親(市原悦子)が戻り、当初当惑するものの、存外冷静に死体の処理や逃亡計画を離し始める。
この彼女の反応が観客を少々驚かせるが、同時に息子との対応で明らかになって来る彼女の溺愛が、それなりに優等生だった息子をかかる事件に追い込む結果になったと思わせる。そして、激しい葛藤を経て、彼女自身も刺殺されてしまう。
一旦戻ったスナックから追いかけるように現れた恋人ケイ子もなかなかの変わり者で、死体を見てもさほど動揺せず、恋人が死体を始末する様子を淡々と見守るのである。
大学生の頃は登場人物のドライさばかりが心に引っかかりショックを受けたが、今観ると、中上由来で神話的な印象が強い。特に回想と幻想場面での父子の対立はオイディプス的で、その為幻想場面はどこかピエル・パオロ・パゾリーニ監督「アポロンの地獄」(1967年)を想起させたりもする。
この幻想はケイ子の偽装的幻想に惹起される形で順が思い浮かべるのだが、そこにおいて彼が父親を殺した直接の原因が示されている。
父親との確執は授けては奪う父親の権力が遠因としてあり、自分を破滅させてもくれない官憲を含めた権力者への苛立ちが若者を暴走させる。若者は人生を狂わせる原因とも言えるスナックに放火し、自分の閉塞感を解放するには全く無力な恋人を置いて、トラックの荷台に乗って闇に消えていく。
学生運動のエネルギーが雲散霧消した後の、閉塞感を抱えた時代における、反権力的な意識が沈潜した作品と言って良いのだろう。
映画は、半ば密室化した家での母親との妙な葛藤場面における序盤の舞台的ムードから、リアリズムに移行し、そして野趣や神話性を大いに感じさせる幻想や回想を挿入する。
新人監督長谷川の、こういう自由奔放な作り方はエネルギッシュである。完成度よりエネルギーの映画である。
その序盤の舞台劇的なムードは、市原悦子の大袈裟な演技がもたらすところが大きい。対し、若手・原田美枝子の口跡は棒読みと言われても反論できず(同時に若い俳優による演技の未熟は若者の青臭さを感じさせる効果もあり、一概に否定できない)、水谷豊はその中間であって、彼の演技が一番実際的。かくして、本作は少なくともタッチ上はリアリスティックに感じられるという次第。本作における彼の台詞を下手と見なすのは、全く融通性のない演技観によるものであり、僕は全く首肯できない。
今回の再鑑賞では幻想場面の野趣が印象深いほか、赤っぽい殺人現場の場面から青々した死体遺棄の場面への移行・変化が圧巻と思われた。殺人直後の自宅場面や放火前後のスナック場面におけるカット割りにも面白いところがあるが、映画技術的インパクトと言えばここに尽きる。
原田美枝子は同じ年に「大地の子守歌」にも出ている。若かったなあ。
1976年日本映画 監督・長谷川和彦
ネタバレあり
原作の小説を書いたのが中上健次、監督をしたのがこれが第一作の長谷川和彦。二人とも伝説的な人物となってしまった。
中上は1992年に46歳で夭折してしまったし、長谷川はこの三年後に「太陽を盗んだ男」を撮ったきりメガフォンを取っていないからである。
本作の評価は、【キネマ旬報】で1位に選ばれた当時と比べると大分下がっているが、当時はなかった観客の棒読みシンドロームによる俳優の演技に対する偏見が強いようである。
本作を観たのは、40年くらい前オールナイト四本立てにて。一緒に観たのは長谷川の第二作、水谷繋がりで「幸福」(これも現在観にくい)、そして関係の薄い当時の話題作「駅Station」。
とにかく、この作品が(無償で)観られるのは半強制的にプライム会員になったことによる僥倖。とは言え、貴重品はどんどん減っていくわけで、いつまで続くかそれが問題。
自動車整備業の父親(内田良平)に言われるままその資金で始めたスナックのマスターを務める若者斉木順(水谷豊)は、取り上げられた車を取り返しに実家に戻った時に、父親にスナックの手伝いをしている恋人ケイ子(原田美枝子)との関係について干渉されたのにかっとして包丁で刺してしまう。
死体を処理しようとしているところへ母親(市原悦子)が戻り、当初当惑するものの、存外冷静に死体の処理や逃亡計画を離し始める。
この彼女の反応が観客を少々驚かせるが、同時に息子との対応で明らかになって来る彼女の溺愛が、それなりに優等生だった息子をかかる事件に追い込む結果になったと思わせる。そして、激しい葛藤を経て、彼女自身も刺殺されてしまう。
一旦戻ったスナックから追いかけるように現れた恋人ケイ子もなかなかの変わり者で、死体を見てもさほど動揺せず、恋人が死体を始末する様子を淡々と見守るのである。
大学生の頃は登場人物のドライさばかりが心に引っかかりショックを受けたが、今観ると、中上由来で神話的な印象が強い。特に回想と幻想場面での父子の対立はオイディプス的で、その為幻想場面はどこかピエル・パオロ・パゾリーニ監督「アポロンの地獄」(1967年)を想起させたりもする。
この幻想はケイ子の偽装的幻想に惹起される形で順が思い浮かべるのだが、そこにおいて彼が父親を殺した直接の原因が示されている。
父親との確執は授けては奪う父親の権力が遠因としてあり、自分を破滅させてもくれない官憲を含めた権力者への苛立ちが若者を暴走させる。若者は人生を狂わせる原因とも言えるスナックに放火し、自分の閉塞感を解放するには全く無力な恋人を置いて、トラックの荷台に乗って闇に消えていく。
学生運動のエネルギーが雲散霧消した後の、閉塞感を抱えた時代における、反権力的な意識が沈潜した作品と言って良いのだろう。
映画は、半ば密室化した家での母親との妙な葛藤場面における序盤の舞台的ムードから、リアリズムに移行し、そして野趣や神話性を大いに感じさせる幻想や回想を挿入する。
新人監督長谷川の、こういう自由奔放な作り方はエネルギッシュである。完成度よりエネルギーの映画である。
その序盤の舞台劇的なムードは、市原悦子の大袈裟な演技がもたらすところが大きい。対し、若手・原田美枝子の口跡は棒読みと言われても反論できず(同時に若い俳優による演技の未熟は若者の青臭さを感じさせる効果もあり、一概に否定できない)、水谷豊はその中間であって、彼の演技が一番実際的。かくして、本作は少なくともタッチ上はリアリスティックに感じられるという次第。本作における彼の台詞を下手と見なすのは、全く融通性のない演技観によるものであり、僕は全く首肯できない。
今回の再鑑賞では幻想場面の野趣が印象深いほか、赤っぽい殺人現場の場面から青々した死体遺棄の場面への移行・変化が圧巻と思われた。殺人直後の自宅場面や放火前後のスナック場面におけるカット割りにも面白いところがあるが、映画技術的インパクトと言えばここに尽きる。
原田美枝子は同じ年に「大地の子守歌」にも出ている。若かったなあ。
この記事へのコメント
今観ると、主人公の身勝手さや幼さ、優柔不断さが目につき、学生運動も含めて同世代の中途半端な若者の自己主張に対しては、東大のノンポリ学生だったゴジは批判的だったのではないかと僕は察します。
長谷川和彦の名は、この作品の1年前、当時毎週見ていた沢田研二主演のテレビドラマ「悪魔のようなあいつ」の脚本家の一人として知っていましたが、この映画を観たのはプロフェッサーと同じく、40年以上前の高田馬場パール座(早稲田松竹の反対側)という三番館でした・・。
当時、彼はマスコミの寵児で、GORO、PLAY BOYなどの雑誌メディアに頻繁に登場し、アウトローな映像作家という印象でした。
初見時に強烈に覚えた、従来と異なる新しい傑作映画との認識に関しては、今観なおせば、かなり希薄化するでしょうが、それでも、ヤフー映画のような低い評価は不当でしょうね。
若い人に限らず、主人公に共感できない作品は興味の対象外、という人は多いデス。
>市原悦子の大袈裟な演技
主人公の”母殺し”にリアリティを与える強烈な存在であり、水谷豊との台詞の応酬は、プロフェッサーの言われるように迫真の舞台劇を観ているようです。
公開当時、17歳の原田美枝子については仰る通りと思いますが、棒読み云々に関しては、今のファンは、ボソボソした若手俳優の聴き取りにくい台詞を、ナチュラルな演技と思っているからなのでしょうね。
俳優のハッキリ発声する台詞がリアリティを損ねると感じるのでしょう。
僕が演技が上手いと認めている西島秀俊、池松壮亮なども台詞はかなり棒読みに近いですが、彼らの芝居は作品に生命を吹き込むことのできる力がありますね。
>東大のノンポリ学生だったゴジは批判的だったのではないかと僕は察します
学生運動の事実上の消滅後の閉塞感が背景にある映画であることは間違いないでしょうが、ノンポリ学生であったのであれば、批判的であった可能性が高いですね。
>主人公に共感できない作品は興味の対象外
ジャンル映画であれば、概して共感が必要であろうと思いますが、ドラマであれば、概して共感は必要ないでしょう。そもそも人間を見せるのがドラマなのですから。共感を前提としたドラマは、即ち、毒にも薬にもならない。
>僕が演技が上手いと認めている西島秀俊、池松壮亮なども台詞はかなり
>棒読みに近いですが、彼らの芝居は作品に生命を吹き込むことのできる力があります
そうですね。
池松壮亮は仰る通り、今の基準で言えば棒読みと言われるレベルかも知れませんが、立派な役者ですよねえ。
昔の俳優に関しては、「東京物語」を初めて観た若い人が、笠智衆をさして棒読みと言っていたのにビックリ。棒読みシンドローム(命名者オカピー)が始まって四半世紀くらいかな?
自分の心に全く刺さってこない映画についてどうこう言うのはポリシーに反するのですが、ちょっとだけ言わせてくださいね。
原作者や監督の資質故に1976年という時代性を読み取りたくなる気持ちはわかりますが、この映画に関してそれを言うのはこじつけでしかないように思います。
挿入歌がいやに爽やかなので、中上健次ということで音を消してアルバート・アイラーのレコードをかけて映像だけ見てみましたが合わなかったです。アイラーを使っていたら当時のスノッブな似非インテリにを喜ばせる効果くらいはあったかもしれませんけどね。
”父親殺し” なら私の場合は、ドアーズのファーストアルバムを聴くほうが余程深い衝撃があると思ってしまいます。
それと母親役は白川和子のほうが淫靡な感じが出て適役だったんじゃないかな・・? (ドアーズ的には・・笑)
昨年の京都アニメーションの放火事件を見てしまうと、ガソリンをまき散らして裾を引きずるベルボトムのGパンにも当然オイルがかかっていたのに何で燃え上がる火の上にぶら下がって引火もせずに助かったのかと「甘いなぁ」と失笑してしまいました。
何だか辛辣になってしまいましたが、こんな意見もあるという事でご容赦くださいませ。
貶しまくりましたが、主人公に共感出来ないとか棒読みを誹謗中傷したりはしていませんので。
何故だか分かりませんが刺さってこないのです。
こういう映画は心に刺さってこそナンボのもんやと思うのです。何でしょうね?
作り手の人間に関する洞察の浅さ?ハッタリのようなものを感じるのです。はい。
>この映画に関してそれを言うのはこじつけでしかないように思います。
うーむ、この文章を読んで、僕もそうかなとちょっと思いましたが、製作に至っていないものを含む彼のフィルモグラフィーと、ネットで探し出した長谷川和彦の発言を総合的に勘案すると、僕の表現は、それほど事実から遠くないと思います。
フィルモグラフィーとしては、
主人公が学生運動に絡んだ後、大手企業という権威にすがって成功したと思った瞬間に、邪魔となった年下の恋人を殺して挫折する「青春の蹉跌」の脚本。
本作の後に作った「太陽を盗んだ男」は、プルトニウムを盗んで小型原爆を作り、議事堂に置いて政府という権力を脅迫する(ローリング・ストーンズの公演をさせろ、という要求が面白い)。
その前に連合赤軍を、組織ではなく個をテーマに描こうとするが、素材の難しさ、スケールの大きさの為に巧く行かずここ(2000年頃)まで実現しなかったと言っています。或いは、Wikipediaによると、学生運動史の映画を作ろうとしたが、これも挫折したらしい。
長谷川は、本作も「太陽」も連合赤軍も、(個の問題を軸にした)犯罪のロマンという意味で、同軸にあると言う。
で、連合赤軍を描こうと思ったことについて。今村昌平の「神々の深き欲望」の為に出かけた1968年の沖縄ロケから帰った自分は、学生運動の渦を知って、浦島太郎の気分になった。だから、却って、同じ全学連世代の映画関係者が避けたがる“あの時代”を(傍観者でもないが当事者でもない故に)作りたいのだ、と。
本作は、実際の事件が千葉県であったこともありますが、半ば強引に三里塚闘争を絡める為に機動隊が出て来る場面を入れて、浦島太郎になった自分と、反対運動を近くで眺めるだけであったろう主人公を重ねていると思います。
http://goji.pepper.jp/go/message/data/6.html
この連合赤軍に関するインタビュー記事を読むと、彼は連合赤軍をひきずってこの映画を作ったことが、おぼろげながら見えて来ると思います。
>ドアーズのファーストアルバムを聴くほうが余程深い衝撃がある
偶然にも、今週はドアーズを聴いています。第一作と二作は昨年車の中で聞いたので、三作から六作までの位置付けを再確認しようと。
個人的にはジム・モリソン在籍最後の第六作「LAウーマン」が一番好きなんですが。これに第一作、第二作が続くかな。
しかし、どれも充実しているなあ。第一作を別にすると、Allmusicの評価は低すぎる。気に入らん(笑)。ドアーズに関しては、ローリング・ストーン誌のほうが僕の感覚に近い。
>挿入歌がいやに爽やか
本格的に売れる前のゴダイゴですね。
本当はビートルズを使いたかったのだけれど、著作権料が製作費の数倍もするので諦めたそうです。
ああいういかにも甘い音楽を、そのまま受け取って糞センスと批判する輩がいるんですが、そういうセンスこそ糞センスです。作者は、敢えて甘い音楽を付けて、裏の裏をかいているはずですよ。
その正否はともかく、ビートルズをつけるとしたら、モカさんは何を選びます?
僕は、通奏低音として「レボリューション」。少し傍観者的なところが通底しましょうか。自暴自棄的な感じとしては「ヤー・ブルース」でも良いかな。
市原悦子との半密室場面では「へルター・スケルター」。
あの気味悪い学生フィルムの場面ではやはり不気味な「レボリューション9」。
原田美枝子との逃避行では「ハッピネス・イズ・ア・ウォーム・ガン」。She's not a girl who misses much という歌詞がぴったり。
ホワイト・アルバムばかりですが、あのレコードには不気味な曲も多いですから。
物わかりの悪い頑固婆に丁寧に答えていただきありがとうございます。
もちろん監督の意図したところはそんな事だろうと察しはついていました。成田もでてきましたしね。
浅野さんがコメントの最初にこの映画に関する文を紹介して「これは間違っていると思う」と書いておられましたが、まさにその通りなのです。
大学進学率が確か10%台?の時代の大学生の争乱は東大を頂点にする有名大学での大騒ぎ(一番有名?なのが東大安田講堂占拠のあれですね)なのでマスコミにも取り上げられて、変な言い方ですが一世を風靡したわけです。
でも例えば1969年に二十歳の人口のうちのどれだけの人間が運動に関わったかといえば実際は本当にわずかなんですよね。
京都でも当時京大のある百万遍辺りでは機動隊と学生の市街戦があったりしました。
友人のお兄さんが京大医学部の学生でしたが彼女によると「お兄ちゃんは授業がないからテニスばっかりしてるわ」とのことでした。 大多数の学生はそんなもんでしたし、ましてや高卒で働いている人口のほうが圧倒的多数でしたし。
結局あの世代のうちに「学生運動終焉後の社会の閉塞感」を感じていた若者がいったいどれ程いたのか、という事です。
後付けのレッテルのように安易にそういう言葉を使われると文句を言いたくなるのです。
関わった人それぞれの思いは色々でしょう。挫折感、閉塞感、敗北感 etc でも実際によく耳にするのはそんな文学的?な言葉ではなく「あほやったわ・・」に代表される自虐的「若気の至りでした・・恥ずかしい・・」的言葉が多いですし、それがまともな意見だと思います。
さすがに最近見かけませんがまるで武勇伝のように語る人がいて、「なんで北朝鮮に行かへんかったんですか?」と聞きたくなります。 実際同級生(頭が良くてナイーブな人でした)で志願して?行っちゃったらしい男子がいます。たぶん永久に行方不明者です。 賢い人ほどのめり込んでしまうというその後のオウム真理教と共通する何かがあるようです。
結局この映画の作り手の意図するところはまぁまぁわかるけれど、意図は分かったけれど、「So what ? 」と思うのです。
余談ですが、面白いのが元全共闘で未だに共産党を目の敵にしてる人が結構いまして、共産党のビラを配っている年寄りを見たら元民青に見えるらしいです。(笑)
立命館って民青の牙城だったのにそれを知らずに全共闘に入ったので、ゲバ俸持って追いかけられて御所に逃げ込んだけどリンチに合いそうになったとか、聞きましたね。
いやらしい事に全共闘の中にも学閥があったのです。京都なら京大、同志社、立命館とまぁこの辺は今でいう偏差値順で権力構造ができていて桃山大学なんて京大エリートに「ピンクを一番前に出しとけ」とデモの最前線にいかされていたとか・・(笑)
笑いごとと違うかったんですけどね・・・籠城するのに女子学生にお結び作らせたりもよくある話だったようで、頭の一部が今の”森”と同じようなもんですかね。
話が映画と関係ないほうに行ってしまいましたが、あの時代を描くのは一筋縄ではいかない、という事でご容赦ください。
やはり常識的?には「ホワイトアルバム」でしょうね。
まさか「プリーズ プリーズ ミー」とかいうわけにはいきませんでしょう。 でもゴダイゴよりは良いかも?
ゴダイゴの楽曲で逆の逆を狙っているとか、オカピー先生のように好意的には見られないですね。
>結局あの世代のうちに「学生運動終焉後の社会の閉塞感」を感じていた若者がいったいどれ程いたのか、という事です。
>後付けのレッテルのように安易にそういう言葉を使われると文句を言いたくなるのです。
結局、閉塞感という言葉がいけなかったわけですね。
僕は、社会全体というより、本作で言えば、長谷川和彦の感じた閉塞感というつもりで書いたつもりですが、少なくとも“時代”という言葉を使っているので、言い訳になってしまいますね。すんません。今後気を付けます。
しかるに、多分に、映画作者や映画批評家はまあインテリ、若しくは似非インテリで、平均よりは学生運動を実際に体験するか、若しくは長谷川のようにとぼけた顔して実は意識高く見ていた(それがまあ仕事)人々のグループですから、その間で本作は概ねそのように理解されて、高評価だったのだと思います。実際彼の映画はジュリーが主演した「太陽を盗んだ男」でさえヒットしなかった(大衆にほぼ無視された)のですから。
キネ旬を紐解き、極めて高い評価をした人の顔触れを見ると、意外や既に映画評論歴30年以上のベテランが多い。僕の予想と違いました。比較的若いのは、昨年亡くなった左翼系の松田政男(大島渚派?のこの人は当然最高点)や河原畑寧、河野基比古、南俊子あたり。
翻って、映画評を離れると、僕も、普段はモカさんの仰るようなことを言っているわけですよ。僕に比べるとかなり反共的な姉に対しても、迎合する意図なく、“学生運動なんて大半の学生が半ばムードでやっていたと思う”などと昨年も述べたくらい。
>話が映画と関係ないほうに行ってしまいましたが、あの時代を描くのは
>一筋縄ではいかない、という事でご容赦ください。
そう思います。長谷川がものにできていないのもそういうことなのだと思います。
ともかく、過激派がリンチをやったり色々事件を起こしたのは、完全に僕の地元(浅間山、榛名山、妙義山)なので、他人事ではない感じがあります。ほぼ同じ時期に大久保清が連続殺人を起こし、群馬県人には全く良くない時代でした。中学の遠足のバスから、浅間山荘を眺めましたよ。
>やはり常識的?には「ホワイトアルバム」でしょうね。
やはり、そうなりますよね。
「リボルバー」の「トゥモロー・ネバー・ノウズ」なんてのも良いかも。
>結局、閉塞感という言葉がいけなかったわけですね。
僕は、社会全体というより、本作で言えば、長谷川和彦の感じた閉塞感というつもりで書いたつもりですが、少なくとも“時代”という言葉を使っているので、言い訳になってしまいますね。すんません。今後気を付けます。
すいません。あまり深く考えないでくださいね。
私は自戒の意味も込めていますので。
「時代の閉塞感」「日本中が感動した」etc マスコミが当然のごとくに(垂れ)流すキャッチコピーに洗脳されそうになるのを警戒してしまうのです。
「本当に閉塞感ってあった?」
「日本中がどうした、こうしたって言われても私はしてないよ」
ひねくれ者なので(素直なところもあるんですけどね、念の為)押し付けられると反抗してしまうのです。
井上陽水の「氷の世界」にはまさにあの時代の何かが圧縮されて入っていますね。何度も言って恐縮ですが顔も声も好きじゃないけど天才だと思います。
浅間山荘事件は高校卒業間近の頃で家のテレビで実況中継を観ていました。 大久保清は衝撃でしたね。 群馬でしたか・・・
"tomorrow never knows "
あの「20歳の原点」の高野悦子が立命の学生の頃、荒神口の ”しあんくれーる” で好んで聴いていたというSteve Marcus バージョンでもいいかもしれませんね。
私は読んでいませんが、昔を懐かしがってマーカス版を聞きたがる人がいたのでレコードはあげてしましました。
YOUTUBEで聞けますしね。
>私は自戒の意味も込めていますので。
立派な心掛けだと思います。
>「日本中が感動した」
僕もこの表現にはかなり抵抗を覚える方です。
>あの「20歳の原点」の高野悦子
姉が全部持っていました。映画にもなりましたね。
>"tomorrow never knows "
>Steve Marcus バージョン
ミスター・チルドレンもあるでよ(ああ、あれは別の曲ですね)。
冗談はともかく、マーカスのバージョンなかなか面白いですね。フュージョンはよく解らないけれど、ロック色の濃いジャズは楽しい!
>キネ旬を紐解き、極めて高い評価をした人の顔触れを見ると、意外や既に映画評論歴30年以上のベテランが多い。昨年亡くなった左翼系の松田政男(大島渚派?のこの人は当然最高点)
左翼系の人たちは、自分たちのやった事をいったん否定してその実、オブラートに包むように大切にしまい込み、矯めつ眇めつ眺め自己評価するようなところがあるので始末が悪いです(笑)
僕は、この作品よりもキネ旬2位の「太陽を盗んだ男」の、佐久間のドロップス缶をひっくり返したようなポップ感を高く評価しているので・・。
ゴジも、連合赤軍なんて若松孝二に任せて、第二作のような映画を撮ってればなあ・・。今では、女優室井滋のヒモみたいな存在か(笑)
>モカさんの、武勇伝のように語る人に「なんで北朝鮮に行かへんかったんですか?」
言われる通りで、「就職が決まって髪を切ってくるくらいなら( by荒井由実)いっそ、よど号に乗ってあしたのジョーになりなはったらよろしおす!」と言いたいですね。
僕は、サヨク少年でして(笑)、高校1年のときには、中学時代の担任だった若い男性教師の下宿に遊びに行って麻雀しては、その部屋にいるときだけ許可された煙草を吸い、天皇陛下のことを「天チャン」と呼ぶような不良学生でしたが、森元首相の「我が国は天皇を中心とした神の国であるぞよ」発言は、(将来はともかく)現時点では正しいと思いますね・・。
少なくとも、英国王室などと比べたら、日本人は皇室が大好きですね。
秋篠宮の長女の結婚相手に国民が本気で反対してるのを見れば良くわかります。
イギリス人にとって、エリザベス女王は、タブロイド紙を飾るゴシップガールに過ぎない。
僕の亡くなった祖母は、神道とは全く疎遠でしたが、応接間に昭和天皇ご一家の写真を飾っていました。
親戚でも友人でもない家族の写真を額に入れて飾るのは日本人のほかにそういないでしょう・・。
浅野さんの
「左翼系の人たちは、自分たちのやった事をいったん否定してその実、オブラートに包むように大切にしまい込み、矯めつ眇めつ眺め自己評価するようなところがあるので始末が悪いです(笑)」
そうなんですよ! 異議な~し!です。
まぁでもね・・・遅れてきた青年?としてはあんまり偉そうに言えないところもあるんですけどね・・・私の世代はずっと傍観者でしたからね。村上春樹が初期の本であの時代のことを「ちょっと力を入れて蹴飛ばせば何もかもが簡単に崩れてしまいそうな」(大体こんな感じの事)と書いていて、正にそうだったなぁ上手い事いうなぁ、と感心したことがあります。
私の世代は自分が蹴飛ばさずに上の世代が蹴飛ばして破壊してくれたら面白いと半ば期待して見ていたところがあります。(私だけかもしれませんけれど)
「何で北朝鮮に行かへんかったんですか?」なんて聞いたら「よど号にも定員があって誰でも行けるものと違うかったんや」とか言いそうです。(笑) この手の人は実は2,3回誘われてデモに行ってみたレベルの人かもしれませんね。
二十歳の原点ってそんなに話題になってたんですね。映画になったのも知りませんでした。
そういえば、義父が高野悦子のお父さんと大学の同級だったようで、「高野君の娘さんが山陰線で自殺しはってな、それから日記が本になってえらい売れたそうや」って言ってました。
>左翼系の人たちは・・・
僕は長谷川和彦とは次元の違うノンポリで、一つ間違えばアパシーになってしまうレベル。選挙権を得たばかりの頃は投票にも行かなかったです。
自分が生れた後の本は、まして文学以外の本は読みもせず、学生運動に関わった人々、或いは関わらなかった同世代の言葉も碌に知らないので、彼らに関する定見はありません。仰っていることが、感覚的に解る程度です。うーむ、残念。
>ゴジも、連合赤軍なんて若松孝二に任せて
若松監督も、“ゴジがいつまでも作らないので、俺が作った”と言っていますね。
東大の文系に行くような人は、或いは作家になるようは人は、ノンポリを標榜していても、どこか政治的な素質があるのではないでしょうか?
>森元首相の「我が国は天皇を中心とした神の国であるぞよ」発言
ふーむ、主権在民の時代にあって、さすがに復古的で、社会学的にはともかく、政治的には問題と思いました。
今回の発言にしても言いたいことに蓋が出来ない、正直な人なんでしょうね。差別が真意ではないというのは多分本当で、今回の叩かれ方は少し気の毒になってきました(寧ろ謝罪会見は少々見苦しかった)。
>少なくとも、英国王室などと比べたら、日本人は皇室が大好きですね。
そうですね。僕が子供の頃は、当時の皇太子夫婦の写真が額に入って居間にどーんと掲げられていました。それが当たり前だったのでしょうね。
僕は特別皇室に傾倒しているわけでもなく、NHK「平清盛」での“王家”が一部保守の間で問題になったのは実にくだらないと思いましたよ。国会にまで取り上げられて。
他方、女性週刊誌が皇室の悪口めいたことを書くのはひどく不快です。尤も、これは僕の人間主義の視点からであって、皇室云々とは余り関係ありませんが。
>遅れてきた青年?
大江健三郎の小説を知ってから、僕もこの表現をよくします。
尤も、当方はビートルズに関してですけど。昨日YouTubeで、ピーター・バラカンが小学生(12歳)だったけど最初から聴いていたと言っていました。一緒に話をしていた星加ルミ子は80歳を超えていますが、えらく元気です。「フール・オン・ザ・ヒル」で、たまたま居合わせて、ポールの歌詞をジョンが直して云々、という辺りは興味深かったですよ。
8月にドキュメンタリー「ゲット・バック」が公開されます。僕が去年CDにしていた音源と重なるものが多いようです。だから、去年の夏に突然YouTubeからゲットバック・セッションの音源が大量に消えた理由はこれだと想像しています。
僕らがビートルズやピンク・フロイドの話ばかりしていた頃、あの時代にも三里塚絡みのビラを配っている殊勝な学生がいました。受け取るだけは受け取りましたが。
大学の先輩たるゴダイゴのタケカワユキヒデは、大学に8年が限度のところを11年も通った強者で、卒業が僕と同じになりました(その年の総代)。だから、この映画のゴダイゴに余りケチをつけられない(笑)
>義父が高野悦子のお父さんと大学の同級だったようで
おおっ。それはそれは。
以前申しましたっけ? 学科の後輩に島田雅彦がいます。僕が個人的に知っている中では一番の有名人でしょう。
当方は卒論を書かずに済ませる為に余分に大学に通ったので、卒業は一緒だったような気がしますが(笑)。実は、彼に一般教養の経済学の模範解答を渡したのにお礼を貰っていない(笑)
昨夜の地震、ニュースを見てびっくりしました。
お見舞い申し上げます。余震の可能性もあるようですね。ご用心ください。
島田雅彦って写真通りの男前でしたか? 一時期この人と池澤夏樹の区別がつかなかったことがありました。池澤は2冊くらい読みましたが島田は手付かずですが。
今日は L.A.WOMAN を聞いています。
かなりご無沙汰でしたが久しぶりに聞くと良いですね!
danceable!
レコードに入っている解説の出だしが
「蘇ったジム・モリソン。不死鳥といわれ不屈の精神をもったこの男は何の戸惑いもみせずに我々のもとへ帰ってきた。」
えぇ~? びっくり! 生き返ったかと思ってしまいました。
そんな訳はなくて、レコードのリリースが1971年4月でジムの死が7月でどうやらその間に書かれたライナーノーツのようです。感無量・・・
初期に較べるとギターが全面に出てきてキーボードがちょっと後ろに下がって、独特の透明感やおどろおどろしさが減った分ブルースやシンプルなロックになっていて、でも音は硬派なのでこれはこれでいい感じです。
今日の発見は4曲目の " cars hiss by my window "
これは ”ball&chain" みたいに始まって ”i'm a king bee"になっていくというブルースで面白かったです。
ドアーズで一番聞いていないのが「ソフトパレード」で、理由は当時買った日本盤のLPの形状にあるのです。切り絵?を施された全面カバーがレコードを覆っていまして、帯は速攻捨てる私でもこれは面白いのでつけていたので出しにくかった。
これが!なんと今やレア物で3万くらいするらしいです。
しかも私の所有物はそのカバーは検品係も見過ごしたのか表と裏を逆に糊付けしてあるというレアな不良品なのです。家宝です。
ご興味があれば ワールドニューロックシリーズ レコード で検索してみてください。ジェスロ・タルやPBブルースバンドとか色いろ出ていました。
>昨夜の地震、ニュースを見てびっくりしました。
>お見舞い申し上げます。余震の可能性もあるようですね。ご用心ください。
蒲団に入ってKindleを読んでいたら、買ったばかりのスマホが変な音を立てた直後に地震がやってきました。長く揺れていましたから怖かった。
前回の地震で締まりのなくなっている筈の我が家が、こうした地震の積み重ねで、そのうち倒壊するかも。死ぬまで持ってくれ!
>島田雅彦って写真通りの男前でしたか?
二枚目でしたよ。しかも、クールで変人。もう一人の島田と仲が良かった。
作家デビューする前には、島田の島が“首”に見えるのようなサインを書いていました。
>LA WOMAN
>初期に較べるとギターが全面に出てきてキーボードがちょっと後ろに下がって
そうですね。キーボードがピアノなのもあったかな?
>ブルースやシンプルなロックになっていて
前作の「モリソン・ホテル」(聴き直したら思った以上に良い)からブルース色が強まったと思いますが、もっとブルースですね。
モリソンが肥って声が少し太くなったので、その面でも多少印象が違うと思います。
>今日の発見は4曲目の " cars hiss by my window "
>これは ”ball&chain" みたいに始まって ”i'm a king bee"になっていく
>というブルースで面白かったです。
さすが。
確認したら、序盤の歌詞が Ball and Chain に似ていて、途中でストーンズで聞いたことのある“I'm a King Bee"そっくりに聞こえました。
>「ソフトパレード」で、理由は当時買った日本盤のLPの形状にあるので
>す。切り絵?を施された全面カバーがレコードを覆っていまして
知らなかったなあ。ネットで写真を発見しました。確かにジャケットが部分的に見える仕掛けになっていますね。
僕も一番聴いていないですね。非常にメロウな「タッチ・ミー」は良い曲ですが、少しドアーズらしくないと思いつつ、最後のサックスがなかなか格好良いと感心もしたり。
でも最後に警官にあまり相手にされない場面は良かったです。
>オーストリアというのは極めて抽象的なものだったでしょうね。
わかりやすい表現です。ありがとうございます。
>中上健次
藤田敏八監督「十八歳、海へ」、柳町光男監督「十九歳の地図」を見ました。
>ワクチン接種で死亡したら4420万円支払い 厚労相
https://news.yahoo.co.jp/articles/71277dd230bfa2ab94feb53227c3ff23b76a126a
あの世に金は持っていけません。
>この作品は血生臭い場面から始まって驚きました。
実話をベースにしていますが、父殺しはギリシャ悲劇以来、文学上の重要なテーマ。原作者の中上健次も監督の長谷川和彦も、実話から離れて、神話的にこれを扱おうとしたのだと思いました。
>でも最後に警官にあまり相手にされない場面は良かったです。
自滅を目指した主人公がそれに失敗する最初の場面です(続いては自殺失敗の場面)が、権力に相手にされないことは、なかなか意味深長です。
>ワクチン接種で死亡したら4420万円支払い 厚労相
>あの世に金は持っていけません。
逆説なんでしょうね。
高齢者は3割くらいですが、若い人は半分以上当座は接種したくないと言っているので、国がそこまで保証するほど安全なのだ、ということを仰りたいのでしょう。
実際世界中で相当数の方が接種していますが、死亡者はゼロ。ノルウェーで報告された多数の死亡者はワクチン接種ではなく持病で死んだとWHOが断定しました。まあ信じるしかないですね。間違いなくウィルスより危険といいうことはないでしょう。