映画評「楽園」

☆☆☆(6点/10点満点中)
2019年日本映画 監督・瀬々敬久
ネタバレあり

吉田修一の短編集「犯罪小説集」収録の短編二編を組み合わせて作ったドラマ。

長野県の限界集落で、学校帰りの小学3年生くらいの女児・愛華が行方不明になる。直前まで一緒にした同級生・紡は喧嘩別れした後なので自分のせいのように感じる。
 12年後似た事件が発生、前の被害者家族の一言からカンボジアからの移民・豪士(綾野剛)が犯人と決めつけられて追われ、動揺しやすい性格の為に店に飛び込んで焼身自殺する。
 1年後、妻を失い親の介護の為に13年前の事件の直前に帰郷した善次郎(佐藤浩市)が、村おこし(の予算)の相談に市役所に出かけたのを区長を出し抜いたと誤解され、それからあらぬ噂を色々と立てられ嫌がらせも続出、妻の遺骨を埋めて植林した土地も法律違反を問われて強制執行される。遂に怒り心頭に発した彼は区長以下嫌がらせに加担した二家族6人を殺害、愛する山で自殺する。
 愛華の一家から冷たい視線を投げかけられる紬は村に居場所を見出せず東京の青果市場で働いているが、それでも祭の演奏の為に年に一度帰郷する。紬は1年前に豪士の車に置き忘れた紙入が戻ってきた為自分の母親に届けた豪士のカンボジア人の母親(黒沢あすか)を訪れた後、善次郎の事件を聞いて村に戻り、愛華の祖父・五郎(柄本明)に自分は艱難に立ち向かうと宣言する。その直後、東京で癌の闘病をし始めた幼馴染・広呂(村上虹郎)から退院の一報を聞く。彼女に僅かに希望が生ずる。

監督の瀬々敬久は意気軒昂に次々と作品を発表しているが、欠点は些か極端もしくは大袈裟になるところである。原作があるものでもそれは同じで、今回も小説には登場しないらしい広呂を重病に仕立て希望を予感させる展開ぶりなどやりすぎの感がある。原作由来と思われる挿話も、もっと抑えめに描写したほうが良いと思われるところが多い。

本作の舞台は隣県長野県である。ここら辺りも似たような限界集落で、親の世代ではまだ本作に出て来るような村八分が起こるようなムードがあり子供心にかなり怖い思いをしたこともあったが、僕らの世代が村運営の中核になった現在は大分民主的になって過ごしやすい。映画の村は当地より遅れている感じだ。

閑話休題。
 テーマは“人が皆して(=言葉で)人を殺すこと” だろうか? この間観た「地の群れ」(1970年)で少女が “みんなで母ちゃんを殺したんだ” と叫ぶところがあったが、それに通ずる。世界が排他的になりSNSが人を殺す時代にあって瀬々監督には言わねばならないという思いがあったのだろう。
 加害者になった二人(カンボジアの青年=多分日本人とのハーフ=は加害者かどうか確かではないが)は集落の安寧秩序の為に排他の犠牲になった。カンボジア人の母親に “日本は楽園だ” と言って連れて来られたという若者の発言から考えてタイトルは反語であり、現在日本への皮肉であろう。

土着ムードを濃厚に打ち出して極めて文学的な作り方をしているが、内実は社会派映画である。総じて思いが空回りした感が強い。

あと三日で班長任務から解除される。大難なく終われそう。やれやれ。

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