映画評「夜の来訪者」(2015年)
☆☆☆★(7点/10点満点中)
2015年イギリス映画 監督アスリング・ウォルシュ
ネタバレあり
チャールズ・ブロンスン主演のスリラーに「夜の訪問者」(1970年)という邦題の作品があるが、全く関係ない。英国の人気大衆文学作家J・B・プリーストリーの戯曲のTV映画化である。日本でも文庫本が出たほどの人気作で、TV映画を中心に何回も映像化されている。劇場用映画では1954年に作られた作品が知られ、翌年本邦にも輸入された(未鑑賞)。
第一次大戦の前1912年のロンドン。爵位にもありつこうかという大手工場経営者ケン・ストットの屋敷では、娘クロエ・プリーと婿となる青年カイル・ソラーの婚約記念会が内輪で行われようとしている。
そこへ警部を名乗るデーヴィッド・シューリスが登場し、自殺で病院で死んだ女性(ソフィー・ランドル)について報告(聞き取りに訪れたと匂わし)、まずストットにストを引率したとして彼女を首にした経緯を聞く。警部曰く、首になった女性はデパートに就職するが、クロエの一言からそこも首になり、首にされた理由から再就職もままならない。
商売女が集まる酒場に出かけた女性はソラーに救われるも、結局すぐに関係を断たれる。やがて妊娠した彼女が婦人救済協会に現れるが、会長であるストットの妻ミランダ・リチャードスンに拒否される。ミランダが我が家に責任を負わされても困ると言うと、警部反論して曰く、妊娠させた相手は一家の息子フィン・コールで、彼女は彼の援助する金が父親の会社から盗んだ金であることを理由に拒否したのだ、と。反省する様子を見せないミランダもこれには一言もない。
かかる一連の事実を確認すると警部は去っていく。一家は激しく狼狽する。
しかるにストットは閃く、警部は本物なのか? 知り合いの署長に聞くとノーである。一家が別々に苦しめた女性が果して同一人物なのか? これについては確証がない。しかし、病院に聞くと自死した女性はいない。これで一家は安心するが、そこへ警察から電話がかかってくる。
非常に着想が良い。しかし、この映画版では欠点もある。特に女性が同一人物か否かというギミックの効果が発揮し切れていない。
というのも、舞台版では女性が全く姿を見せないらしいが、本作では各人が回想する女性が全てソフィー・ランドルという一人の女優により演じられている為に、絵面(えづら)とギミックとの間に齟齬を生じるという次第。それでも、警部と自称する男性が写真を別々に示したこと、三つの名前が出て来ることが伏線として一応利いているとは思う。
自称警部が邸を去った後に彼が過去の話として語ったように女性が服毒死する。非常に現実的にこれを捉えると、彼が事件が起こることを知っていたのに阻止しようとしなかったことに後味の悪さが残る。これを受けて本物の警察が一家に電話をするのであるが、女性が “神は信じる。人は信じない” と言っていたことを考えると、彼は神であったのであろう。一家に実体をもって現れたことは説明がつきにくいが、そう寓意的に考えた方がお話の座りが良い。
本作でTV映画作者が見せようとしたのは、自己本位にならず利他的になれという寓意である。それも1912年のことではない。警部もしくは神の口を通して第一次大戦が起こることを暗示しているが、映画作者側が念頭に置いたのは勿論新自由主義に庶民が苦しめられる現在への言及であろう。
会話における切り替えなど画面がしっかりしている。最近劇場用映画にカメラが落ち着かない作品が多いのに比べると、TV映画は見やすくて却って良いと言いたいくらい。
ストットがストを起こした女性をとっとと解雇したっと。
2015年イギリス映画 監督アスリング・ウォルシュ
ネタバレあり
チャールズ・ブロンスン主演のスリラーに「夜の訪問者」(1970年)という邦題の作品があるが、全く関係ない。英国の人気大衆文学作家J・B・プリーストリーの戯曲のTV映画化である。日本でも文庫本が出たほどの人気作で、TV映画を中心に何回も映像化されている。劇場用映画では1954年に作られた作品が知られ、翌年本邦にも輸入された(未鑑賞)。
第一次大戦の前1912年のロンドン。爵位にもありつこうかという大手工場経営者ケン・ストットの屋敷では、娘クロエ・プリーと婿となる青年カイル・ソラーの婚約記念会が内輪で行われようとしている。
そこへ警部を名乗るデーヴィッド・シューリスが登場し、自殺で病院で死んだ女性(ソフィー・ランドル)について報告(聞き取りに訪れたと匂わし)、まずストットにストを引率したとして彼女を首にした経緯を聞く。警部曰く、首になった女性はデパートに就職するが、クロエの一言からそこも首になり、首にされた理由から再就職もままならない。
商売女が集まる酒場に出かけた女性はソラーに救われるも、結局すぐに関係を断たれる。やがて妊娠した彼女が婦人救済協会に現れるが、会長であるストットの妻ミランダ・リチャードスンに拒否される。ミランダが我が家に責任を負わされても困ると言うと、警部反論して曰く、妊娠させた相手は一家の息子フィン・コールで、彼女は彼の援助する金が父親の会社から盗んだ金であることを理由に拒否したのだ、と。反省する様子を見せないミランダもこれには一言もない。
かかる一連の事実を確認すると警部は去っていく。一家は激しく狼狽する。
しかるにストットは閃く、警部は本物なのか? 知り合いの署長に聞くとノーである。一家が別々に苦しめた女性が果して同一人物なのか? これについては確証がない。しかし、病院に聞くと自死した女性はいない。これで一家は安心するが、そこへ警察から電話がかかってくる。
非常に着想が良い。しかし、この映画版では欠点もある。特に女性が同一人物か否かというギミックの効果が発揮し切れていない。
というのも、舞台版では女性が全く姿を見せないらしいが、本作では各人が回想する女性が全てソフィー・ランドルという一人の女優により演じられている為に、絵面(えづら)とギミックとの間に齟齬を生じるという次第。それでも、警部と自称する男性が写真を別々に示したこと、三つの名前が出て来ることが伏線として一応利いているとは思う。
自称警部が邸を去った後に彼が過去の話として語ったように女性が服毒死する。非常に現実的にこれを捉えると、彼が事件が起こることを知っていたのに阻止しようとしなかったことに後味の悪さが残る。これを受けて本物の警察が一家に電話をするのであるが、女性が “神は信じる。人は信じない” と言っていたことを考えると、彼は神であったのであろう。一家に実体をもって現れたことは説明がつきにくいが、そう寓意的に考えた方がお話の座りが良い。
本作でTV映画作者が見せようとしたのは、自己本位にならず利他的になれという寓意である。それも1912年のことではない。警部もしくは神の口を通して第一次大戦が起こることを暗示しているが、映画作者側が念頭に置いたのは勿論新自由主義に庶民が苦しめられる現在への言及であろう。
会話における切り替えなど画面がしっかりしている。最近劇場用映画にカメラが落ち着かない作品が多いのに比べると、TV映画は見やすくて却って良いと言いたいくらい。
ストットがストを起こした女性をとっとと解雇したっと。
この記事へのコメント
完璧にまとめてくださりありがとうございます。せっついた甲斐がありました。
(最後の一言コメントが若干滑っておられますが目をつぶらせていただきます。笑・・)
ミランダ・リチャードソン
すっかり貫禄がつきましたね。昔観た「ダンス ウィズ ア ストレンジャー」をもう一度観たくなりました。
面白いアイデアの作品でした。
原作の持つ潜在力を生かすには、被害者の女性を出さないのがベストですが、芝居と違って映像作品では難しいのでしょうね。
>ミランダ・リチャードソン
>すっかり貫禄がつきましたね。昔観た
>「ダンス ウィズ ア ストレンジャー」をもう一度観たくなりました。
正に正に。
僕も全く同じ事を考えました。