映画評「活きる」
☆☆☆☆(8点/10点満点中)
1994年中国=香港合作映画 監督チャン・イーモウ
ネタバレあり
邦題は黒澤明監督「生きる」と同じ読み方。今よりは多少表現の自由があった中国と香港の合作映画で、かなりかつての政策を風刺的に捉えているので、中国本土では上映禁止になっているらしい。
中国映画も80年代後半から暫く本作を監督したチャン・イーモウ、チェン・カイコーといった大型の監督が出て映画ファン的には嬉しかったものだが、最近はてんでまともな作品が公開されない。程度の低いCGで彩られた安っぽいファンタジーくらいしか観られない。
で、チャン・イーモウが監督した本作は観たと思って IMDb を訪問したところ採点していない。では観なかったのかとアマゾンプライムで観始めたら、観ていたと確信する。多分、投票を始めた20世紀末の時点で、IMDbにこの作品を発見できなかったのだろう。
1940年代半ば、まだ共産党が国民党と主導権を争っていた頃からお話は始まる。
地主階級の青年フークイ(グォ・ヨウ)は妻チアチェン(コン・リー)が止めるのも聞かず賭け事を続けた為に父祖の不動産を全て失う。怒って娘フォンシアと共に家を出た妊娠中の妻は、やがて、生まれた息子を連れて帰って来る。
反省したフークイは、趣味人として玄人はだしの影絵の技術を生かし、財産を奪った形の事業家ロンアルから借りた影絵道具を元手に旅巡業に出るが、内戦に巻き込まれ翻弄され結局共産党軍に喜ばれる活動の為に無事に戻って来る。一家は貧乏暮らしで、病気の後遺症で娘は唖となっている。
50年代。ロンアルが地主階級として処刑される。夫婦は運命の皮肉に嘆息する。巡業仲間で軍隊でも共に働いたチュンション(グオ・タオ)は区長に出世するが、彼の起こした事故の為にフークイの息子が死ぬ。かくして両者の関係は暫し途絶する。
60年代。面倒見の良い町長の世話でフォンシア(リウ・チャンチ)に婿(ジアン・ウー)が見つかる。しかし、出産を終えた娘は紅衛兵しかいない病院で術後の処理拙く死んでしまう。チュンションは批判の対象となって没落する。
数年後孫を連れて子供たちの墓参りを済ませたフークイとチアチェンは、団欒の時間を過ごす。
共産党批判とは言わないまでも、息子の死を50年代の大躍進政策の失敗に、娘の死を60年代の文化大革命の失敗に重ねていると思う。後者の部分では文字通り文革の象徴にもなった紅衛兵がマイナスにしかならない存在であったことを示す。そして、息子にヒヨコが最後に共産党になると言った言葉を孫には繰り返さない。作者側の無言の抵抗になっているような気がする。
それでも全体として実際の中国よりはずっとソフトな扱いになっていると想像される。その中にあって、同じ街並みが時代と共に良くなるどころか悪くなっているのを見せるのは、あっぱれである。
確かにここまでやれば中国での公開は無理と思う。しかし、映画として立派なのは、そうした批判的態度以上に、30年間くらいの夫婦の生き方を中国社会の変遷と共に生活感情たっぷりに描き出したことだろう。その一体感あってこそ、その態度も生きて来る。
夫婦に扮したグォ・ヨウ、ゴン・リーの好演も印象深い。
中国共産党もひどいが、アメリカも実は他人(ひと)のことを言えないところが多い、とよく思いますデス。
1994年中国=香港合作映画 監督チャン・イーモウ
ネタバレあり
邦題は黒澤明監督「生きる」と同じ読み方。今よりは多少表現の自由があった中国と香港の合作映画で、かなりかつての政策を風刺的に捉えているので、中国本土では上映禁止になっているらしい。
中国映画も80年代後半から暫く本作を監督したチャン・イーモウ、チェン・カイコーといった大型の監督が出て映画ファン的には嬉しかったものだが、最近はてんでまともな作品が公開されない。程度の低いCGで彩られた安っぽいファンタジーくらいしか観られない。
で、チャン・イーモウが監督した本作は観たと思って IMDb を訪問したところ採点していない。では観なかったのかとアマゾンプライムで観始めたら、観ていたと確信する。多分、投票を始めた20世紀末の時点で、IMDbにこの作品を発見できなかったのだろう。
1940年代半ば、まだ共産党が国民党と主導権を争っていた頃からお話は始まる。
地主階級の青年フークイ(グォ・ヨウ)は妻チアチェン(コン・リー)が止めるのも聞かず賭け事を続けた為に父祖の不動産を全て失う。怒って娘フォンシアと共に家を出た妊娠中の妻は、やがて、生まれた息子を連れて帰って来る。
反省したフークイは、趣味人として玄人はだしの影絵の技術を生かし、財産を奪った形の事業家ロンアルから借りた影絵道具を元手に旅巡業に出るが、内戦に巻き込まれ翻弄され結局共産党軍に喜ばれる活動の為に無事に戻って来る。一家は貧乏暮らしで、病気の後遺症で娘は唖となっている。
50年代。ロンアルが地主階級として処刑される。夫婦は運命の皮肉に嘆息する。巡業仲間で軍隊でも共に働いたチュンション(グオ・タオ)は区長に出世するが、彼の起こした事故の為にフークイの息子が死ぬ。かくして両者の関係は暫し途絶する。
60年代。面倒見の良い町長の世話でフォンシア(リウ・チャンチ)に婿(ジアン・ウー)が見つかる。しかし、出産を終えた娘は紅衛兵しかいない病院で術後の処理拙く死んでしまう。チュンションは批判の対象となって没落する。
数年後孫を連れて子供たちの墓参りを済ませたフークイとチアチェンは、団欒の時間を過ごす。
共産党批判とは言わないまでも、息子の死を50年代の大躍進政策の失敗に、娘の死を60年代の文化大革命の失敗に重ねていると思う。後者の部分では文字通り文革の象徴にもなった紅衛兵がマイナスにしかならない存在であったことを示す。そして、息子にヒヨコが最後に共産党になると言った言葉を孫には繰り返さない。作者側の無言の抵抗になっているような気がする。
それでも全体として実際の中国よりはずっとソフトな扱いになっていると想像される。その中にあって、同じ街並みが時代と共に良くなるどころか悪くなっているのを見せるのは、あっぱれである。
確かにここまでやれば中国での公開は無理と思う。しかし、映画として立派なのは、そうした批判的態度以上に、30年間くらいの夫婦の生き方を中国社会の変遷と共に生活感情たっぷりに描き出したことだろう。その一体感あってこそ、その態度も生きて来る。
夫婦に扮したグォ・ヨウ、ゴン・リーの好演も印象深い。
中国共産党もひどいが、アメリカも実は他人(ひと)のことを言えないところが多い、とよく思いますデス。
この記事へのコメント
良い映画でしたね。 と言いながら公開時にしか観ていないかもしれませんが・・・
ラストシーンで万感胸に迫るといいますか・・・
「人生を全うする」というのはこういう事なんだと感動の涙が出たのを憶えています。
>夫婦に扮したグォ・ヨウ、ゴン・リーの好演も印象深い。
頼りない夫としっかり者の妻の様子に説得力がありましたね。
でも夫は段々しっかりしていったんでしたよね?
チャン・イーモウ 「HERO」あたりから路線が変わり始めたのでしょうか? 「HERO」は面白かったと記憶していますがその辺までですね。 確か北京オリンピックのセレモニーの演出なんかにも関わっていましたか?
中国社会で表現者として生き延びるのは難しいのとお察しはしますが。
「紅いコーリャン」や「至福のとき」の原作者の莫言は文学者の特権?「小説は一人で書ける」し「マジックリアリズム」という手法がありますけれど、映画はお金も掛かりますしね・・それともチャン・イーモウ本人の上昇志向の問題なんでしょうか。
ゆっくり落ち着ける時間を作って再見してみます。
>「人生を全うする」というのはこういう事なんだ
共産党の批判もありますが、それが全てという気がします。批判が目的ではなく、手段でしたね。
>でも夫は段々しっかりしていったんでしたよね?
まあ「夫婦善哉」の柳吉みたいな男でした。江戸時代のぼんぼんのようでもありました。
>チャン・イーモウ 「HERO」あたりから路線が変わり始めたのでしょうか?
章民を扱い土の匂いがするタッチからがらりと華麗に変わりましたね。
以降もたまに従来通りのタイプの作品を作りますが、以前ほどの深みがないような気がします。
>北京オリンピックのセレモニーの演出なんかにも関わっていましたか?
そのようです。
色々騒動もあったようですが、忘れました。
>中国社会で表現者として生き延びるのは難しいのとお察しはしますが。
自国を批判する発言を非愛国的と考える国家ですからね。良い作品もしくは自分の作りたい作品を作るには、中国を脱出するしかないでしょう。
>出産を終えた娘は紅衛兵しかいない病院で術後の処理拙く死んでしまう。
ここは憶えています。 酷い話でした。
スターリンやポルポトの大量粛清の後にまともな人材が居なくなったのと同じような事でしょうね。
共産党批判をする意図がどの程度あったのかは分かりませんが余程のプロパガンダ映画を作ろうとしない限りこんな感じになってしまいそうです。
小津か黒澤か忘れましたが、「人を描けば社会は自ずからついてくる」みたいな事を言っていたように思いますが、まさにそういう事かもしれませんね。
>スターリンやポルポトの大量粛清の後にまともな人材が居なくなったのと
>同じような事でしょうね。
共産主義を目指す社会主義国家は、それ故に人民を統制する必要があるのは解りますが、どうしてああバカなんだろうと思いますね。
特に、ポルポトが中国の文革をパクって行ったようなデタラメでは、経済発展など覚束ないですよね。
>小津か黒澤か忘れましたが、「人を描けば社会は自ずからついてくる」
>みたいな事を言っていたように思いますが
検閲をしているような国でも時に現実社会を背景にした優れた人間劇が生れるのは、そういうことなのかもしれませんね。
小津? 黒澤? どちらも言いそうだなあ(笑)
「人間を描けば・・・社会・・・」これは小津安二郎の言葉でした。
この辺の言葉で検索をかけたら出てくると思います。
私がこの映画で引用するには少しニュアンスが違っていたかもしれませんので検証してみてください。
>この辺の言葉で検索をかけたら出てくると思います。
確かに小津安二郎の言葉として出てきました。
要は、社会性を打ち出す作品を作る要請への反論でしたね。
僕は、映画の価値はメッセージ性だけで測れないという主張をしていますので、この小津の言葉には我が意を得たりの思いが致します。
モカさんの引用は必ずしも的外れではないと思いますよ^^