映画評「港の日本娘」

☆☆☆(6点/10点満点中)
1933年日本映画 監督・清水宏
ネタバレあり

歩くのを撮るのが好きな監督に近年ではリチャード・リンクレイターがいるが、元祖とも言えそうなのが我が邦の清水宏監督である。共に会話をする二人を捉える時に歩くのと同じスピードのドリー・バックを使うことが多い。本作でも最初から歩く女学生二人が出て来る。
 僕が観る清水監督作の中で一番古い作品に当たる本作では、前面から歩行を捉えてはいないが、前面から歩行を捉えるのと同じ構図、即ち縦の構図は頻繁に出て来る。

欧米ではトーキーが当たり前になっていた1933年になっても日本では少なからぬ作品がサイレント映画で、本作もその例に洩れない。
 今回観たプライムビデオでの放映版では、最近付けたと思われる高音質の背景音楽が聞けるが、内容に合わない明朗な音楽で、誠に評判が悪い。時に内容に反する音楽を付けて成功する例もあるが、本作は上手く行っていないと言うべきだろう。

さてお話でござる。字幕が変則文字で、これまた読みにくいのだが、お話は解りました。

横浜港に近いキリスト教系学校に通っている二人の女学生あり。一人は砂子(及川道子)、一人は外国人若しくはハーフのドラ(井上雪子)。ちょっとした百合族の趣きがあるが、砂子は外国人若しくはハーフのヘンリー(江川宇礼雄)と恋愛関係にある。しかし、ヘンリーはその関係に飽きて不良と付き合い始め、漠連娘シェリダン耀子(澤蘭子)と教会で結婚しようかという関係になる。

そこへ嫉妬した砂子が現れ、シェリダン耀子に向けて発砲する。ここで間断ズームとでも言うべき手法が鮮やかに使われる。つまり、サイズの違う分割ショットで嫉妬にかられた砂子に接近し、発砲後今度は遠のいていく。その前にシェリダン耀子の声に相当するであろう字幕 “神様” が三種類の大きさで表される。これらが組み合わされるこのシークエンスは実に面白かった。終盤になって二人の関係の逆転を見せるシークエンスもあって更に面白い。

数年後、事件により落ちぶれた砂子は港町を転々とする商売女になっているが、神戸から横浜に戻って来る。ドラとヘンリーは新婚生活を営んでいるが、落ちぶれた砂子を温かく迎える。ヘンリーは彼女を真人間に返そうと頻繁にヒモのような画家(斎藤達雄)もいる彼女の部屋を訪れる。それを知ったドラは何となく面白くない。二人が不幸になるのに不本意な砂子は、やがてまたどこぞへ画家を伴って旅立っていく。

ちょっと同時代のフランス映画的な苦味のあるドラマ(一種の人情劇であろう)で、ちょっと大袈裟に言えば詩的リアリズムを先取りしたような感じ。が、映像の解像度が極めて悪く、少しロングになると顔の区別が付かなくなるところがある。特に序盤は仲良し女学生二人の場面が多いので難儀させられる。

ただ、今この映画を観る人は、お話ではなく、画面を構成する技術を見るであろうと思う。その分には相当面白い作品で、戦後の一時期の作品であればワイプを使って同じ若しくは似た場所における時間経過を示すシークエンスにおいて、オーヴァーラップを多用しているのが断然興味深い。同じ場所では透明人間のように消えていく感じの繋ぎもある。
 砂子がドラの為にヘンリーを探すシークエンスでもこの手法が使われる。最近の直にショットを繋ぐシーン構成に見慣れている若い方は違和感を覚えるかもしれないが、時間経過を表す手法としてオーヴァーラップ(一般的にはシーンの切り替えや回想の始まり・終わりに使われる)があるということの勉強になれば良いと思う。

サイレント映画では音が聞けない為にトーキーでは現れないであろうショットが挿入される。例えば、お話の進行には直接関係ないが、雨が降っていることを知らせる為だけに雨の降る野外のショットを挿入する。このようにサイレントとトーキーでは映画文法が違うことがある。

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