映画評「嘆きのテレーズ」

☆☆☆☆☆(10点/10点満点中)
1953年フランス映画 監督マルセル・カルネ
ネタバレあり

1980年頃に観て以来5年に一度くらい再鑑賞していたが、2000年代初めを最後に20年くらいご無沙汰した。ハイビジョン版も持っているものの、今回は省エネのためにプライムビデオで観た。画質はDVD並みで少し不満が残る。
 エミール・ゾラの「テレーズ・ラカン」の二度目の本格映画化ながら、40年代以降のアンリ=ジョルジュ・クルーゾー台頭の影響なのか、純文学寄りではなくサスペンス寄りの作劇になっている。初めて観た時幕切れに圧倒されたことを思い出す。

リヨン。生地屋ラカン夫人(シルヴィー)に子供時代に引き取られ、やがて病弱な息子カミーユ(ジャック・デュビー)と結婚させられたテレーズ(シモーヌ・シニョレ)が、夫が仕事の関係で喧嘩した挙句に仲良くなったイタリア人トラック運転手ローラン(ラフ・ヴァッローネ)を連れて来て何度か会ううちに昵懇の仲になる。彼から二人の関係を聞かされたカミーユはくどいて、テレーズをパリ旅行に連れて行く(本当は伯母さんの家に監禁するつもり)。
 その旨を漏れ聞いたローランは二人を追いかけ、列車の中で衝突したカミーユを突き落としてしまう。それをこっそり見ていてしらばっくれていた元兵隊(ローラン・ルザッフル)は、後日これが殺人か事故かを巡り裁判になりそうなのに気付くと、ラカン家の店を訪れ、黙る代わりに50万フランを寄越せとテレーズを脅迫する。
 結局法曹が事故と断定して鉄道会社から40万フランを得た彼女はローランと相談して、念書を書かせた上で全額渡す。彼は開店資金にするのだと喜んで寄宿しているホテルに帰ろうとする。しかし、バイクが不調で処理しようとしている時に子供を避けたトラックが彼を轢く。
 事前に裁判所への手紙を託されていた宿屋の女給(マリア・ピア・カジリオ)は約束した時間に元兵隊が戻ってこなかった為に手紙を投函する。

原作では湖か川に落とされてカミーユは死ぬわけで、この映画のような外部的なサスペンスは殆どない。ゾラは清濁持ち合わせた人間の様々な様相を写実的に見せるのを主眼にしていたと記憶するが、本作はフランス映画伝統(?)の運命論を見せる映画になっていると思う。
 僕の印象では、カルネが分類される詩的リアリズムの作家は運命論的にお話を綴る傾向が強く(特にジャック・フェデー)、1950年代に作られた本作は既に詩的リアリズムと言われるタイプの作品ではないが、幕切れの扱いの残酷味にその名残りを感じるのである。

同時代のお話であるとすれば、不貞の末の夫殺しであれば二人は死刑になる確率が高く、勧善懲悪的ではあるものの、眼目は避けがたい運命であろう。テレーズにとって、親と死別し親戚のラカン家に引き取られたところからそれが始まるわけで、映画では描かれない少女時代から続く残酷な運命の最後通牒に我々は大いにゾッとさせられることになる。裁判となれば、テレーズは“ローランの単独犯行で、私は全く関与していない”と言い、二人は確執を起こすだろう。原作の終盤はそういうムードであった。

ゾラとは少し違うが、やはり即実的な描写は切れ味が素晴らしく、元兵隊を轢くトラックの全く気を持たせない扱いなど全く素晴らしい。ヴァッローネから離れて左から右に歩いていくシモーヌ・シニョレを横移動しながらズーム・アップしていく別れ話切り出しのシーンのカメラワークが、情緒的で好きだ。

これぞ映画だ。わかるね(わカルネ)?

この記事へのコメント

モカ
2021年06月10日 17:46
こんにちは。

これはまさにお手本のような映画ですね。
無駄な会話もシーンも一つもないのにストーリーにどんどん飲み込まれていってしまう・・・まさに運命の濁流ってやつですね。 
同じゾラでも「居酒屋」のマリア・シェルに較べるとシモーヌ・シニョレはハードボイルドな美貌が冴えておられます。

トーマス・ハーディとゾラは奇しくも同じ生まれ年ですが、当時の英仏を代表する「不幸な女の話が得意な作家」ですね。
女だけが不幸なわけではないですけど、自然主義文学とは人の不幸を糧にしているのではないかと勘繰ってしまいます。(笑)
オカピー
2021年06月10日 22:48
モカさん、こんにちは。

>シモーヌ・シニョレはハードボイルドな美貌が冴えておられます。

まだ細くてシャープでしたねえ。彼女の存在自体がサスペンスフルでした。

>女だけが不幸なわけではないですけど、自然主義文学とは人の不幸を
>糧にしているのではないかと勘繰ってしまいます。(笑)

その感はありますね。
 翻って考えますと、女性が扱われることが多くなったのは、軽いフェミニズムの発露だったのかもしれません。

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