映画再鑑賞後小説「ハワーズ・エンド」を読む
三週間くらい前に、ジェームズ・アイヴォリー監督の「ハワーズ・エンド」映画評をアップした。四半世紀以上ぶりになる再鑑賞であった。一時原作となったE・M・フォースターの同名小説を読んでから観る腹づもりであったが、急遽マイ・ライブラリーからピックアップして観てしまったのだ。
米国出身の小説家ヘンリー・ジェームズが英国的な小説を書いたように、ジェームズ・アイヴォリーは米国出身ながら実に英国的な作品を撮る。私淑する双葉十三郎氏の言葉を借りれば、良い時の英国映画の感覚を十分満喫させる監督である。本作も、カメラを含めて、英国貴族調(何度も言ってきたように僕が作った映画用語)な佇まいがたまらない。
さて、ブログ友達や我がブログの常連訪問者なら拙評に多かれ少なかれ同調してくれるという思いは外れ、なかなか厳しいコメントが寄せられた。そこで原作を読んで少し検討してみようという気になり、池澤夏樹個人編集の『世界文学全集』のバージョン(吉田健一訳)を借りて来た、というのが経緯。お話は映画と殆ど同じだが、バランスが違う。結果的に印象が違って来るところがないでもない。
15年以上に及ぶブログ友達の十瑠さんは、運命論的であるという我が印象に近いものを覚えたらしい一方、 “色々と無理くりな設定、展開が感じられた” という昔の自身の記事から引用してコメントされた。
僕はこの程度であればさほど抵抗は覚えないのあるが、解説もする池澤夏樹がフォースターの傾向について、“プロットがなかなか派手で奔放で、思わぬ展開をする”と仰っている。十瑠さんの感想そのままである。さすがに十瑠さんと言ったところ。
補足すると、プロットは派手だが、描写は淡白で、人が死ぬところでも敵対する人物が出合った次の瞬間にもうどちらかが死んでいたりする。うっかりすると死んだことに気付かないまま読み進んでしまうくらいである。
一昨年から我がブログの読者になってくれたモカさんも、十瑠さんと似た考えで、特に主題展開上重要な下層階級のレナード・バストについて、作者が扱いに困って死なせてしまったのではないかという疑念を呈された。池澤が言うには、フォースターは作者の特権乱用と思われかねないくらいしばしば人を殺す(文意であって表現は違う)と。なるほど彼もモカさんと近いことを考えている。モカさんもさすがだ。
池澤の解説を総合すると、フォースターのモチーフは対立するもの同士の理解であるように理解できる。僕はそれを融和と表現した。理解と融和とは似て非なるものと思うが、とにかく僕は対立する階級(中産階級と労働者階級)の融和という結論を前提に、作者が演繹的に話を構築していったと考えたので、モカさんの疑念は理解するものの、扱いに困ったわけではないと今でも思う。
しかるに、小説では、映画で受ける印象より融和というムードが希薄。僕の映画に対する主題の理解もあながち間違いというわけではないだろうが、小説の主題はやはり対立するもの(者)同士の理解と考えるのが妥当なようである。
モカさんは、さらに、マーガレットは何故ヘンリーと結婚したのか?という疑問を投げかけた。モカさんは鋭さをここでも発揮している。“これほど離れた二人を結びつけることができるだろうか”が、この小説の命題・課題なのだと池澤氏は述べているのだ。着眼のスタートは違うのだろうが、結果的に同じことに帰着する。
僕は、家をなくして困ることになるマーガレットは案外打算的なのだと思うと答えた。勿論、インテリのマーガレットだから、ミステリー的な、或いは、先日お金目当てで結婚した老富豪を殺害して逮捕された日本のあの女性のような経済欲的打算ではない。もっと精神的な打算であるが、僕の理解と表現は少し足りなかった。
小説に比べて映画では二人の心情の接近が拙速に感じられ、モカさんのような疑念が生じる。小説の終盤、彼女の妹ヘレンは姉が結婚した理由を理解した、と書かれている。しかし、その前後を読んでも僕には明確に解らない。それでも、小説は、マーガレットとヘンリーはある一週間でそれまでの2年間に倍する急接近を成したと表現している。これを前段にマーガレットが一種の打算的挑戦を考えたに違いないのである。
その説明の前に彼らの立場について少し説明をば。映画評には、中産階級に上下の階層が絡んで・・・と書いたが、厳密には違うことが小説では明快に解る。恐らく身分的に一番高いのはヒロインの一族である。ヘンリーの一家は言わば成金で、知性では彼女の一家にまるで及ばない。あの程度の知性や精神性ではお里が知れている。実際の資産で差があるので、ヘンリー・ウィルコックスの一家が上に見えるだけである。ヘンリーのやがて故人となる妻をヴァネッサ・レッドグレーヴという貴族の雰囲気を漂わす名女優が演じた為に映画では身分的にもウィルコックス家が少し上に見えたのかもしれない。
閑話休題。
マーガレットは、知性や精神性で自分より劣るヘンリーを何とか御する=自分の世界に近付けることができると考えた。これが一文にもならないが彼女にとって重要な言わば “打算” であった。これがフォースター以外であれば、結婚した後に起こるであろう不一致に対する計算という設定になろうが、彼の作品世界においては、それ自体が半ば結婚の目的となり、挑戦的な実験となる(フォースターは直接的にそう書いていないので、あくまで僕の理解にすぎない。彼の文学的実験とも言えようか)。ただ、結婚すれば家を失う心配がなくなるという思いもあるにはあったであろう。ただ、それでは三文小説に過ぎなくなってしまう。
結局彼女の目論見は外れ、企図は失敗に終わったたようなのだが・・・。そこで作者が出したウルトラCがレナードの死、過失致死させたヘンリーの息子の逮捕であったのかもしれない。マーガレットは、現実の精神世界で世界観の違う二人は理解し合えないと思い、死後の世界での再会(そして理解)にまで思いを馳せる。
僕の総合的印象では、小説はあくまでマーガレット(とヘンリーの関係性)がテーマである。ヘレンとレナードは彼女の心情を比較対照し、或いは、浮き彫りにするツールに過ぎない印象だ。実際、比率としてはレナードは殆ど印象に残らない程度にしか述べられない。
甚だ興味深いのは、マーガレットとヘレンがレナードを接待している最中にヘンリーと娘が訪れる場面。小説でも映画でもレナードはひどく怒るが、実はこの時ヘンリーは(マーガレットとの関係を前提に)レナードに嫉妬していたというのだ。このエピソードを見ても、小説ではヘレンとレナードは映画の印象とは違う役割を果たしているような気がする。
映画評で、オースティンの「高慢(自負)と偏見」を思わせる雰囲気があると書いた。池澤は、こうした小説群を縦糸(経)に編んでいったのがこの「ハワーズ・エンド」である旨述べている。この辺りの僕の意見は全くの正解であったと言って良いだろう。
東京オリンピック期間中は、他国での五輪以上に、専念する気でいる。映画はまず観られない。一応記事を毎日アップするつもりなので、色々と無い知恵を絞っている。本稿はその第一弾とも言えないでもない、とご理解くださいませ。アイデア募集中(笑)
米国出身の小説家ヘンリー・ジェームズが英国的な小説を書いたように、ジェームズ・アイヴォリーは米国出身ながら実に英国的な作品を撮る。私淑する双葉十三郎氏の言葉を借りれば、良い時の英国映画の感覚を十分満喫させる監督である。本作も、カメラを含めて、英国貴族調(何度も言ってきたように僕が作った映画用語)な佇まいがたまらない。
さて、ブログ友達や我がブログの常連訪問者なら拙評に多かれ少なかれ同調してくれるという思いは外れ、なかなか厳しいコメントが寄せられた。そこで原作を読んで少し検討してみようという気になり、池澤夏樹個人編集の『世界文学全集』のバージョン(吉田健一訳)を借りて来た、というのが経緯。お話は映画と殆ど同じだが、バランスが違う。結果的に印象が違って来るところがないでもない。
15年以上に及ぶブログ友達の十瑠さんは、運命論的であるという我が印象に近いものを覚えたらしい一方、 “色々と無理くりな設定、展開が感じられた” という昔の自身の記事から引用してコメントされた。
僕はこの程度であればさほど抵抗は覚えないのあるが、解説もする池澤夏樹がフォースターの傾向について、“プロットがなかなか派手で奔放で、思わぬ展開をする”と仰っている。十瑠さんの感想そのままである。さすがに十瑠さんと言ったところ。
補足すると、プロットは派手だが、描写は淡白で、人が死ぬところでも敵対する人物が出合った次の瞬間にもうどちらかが死んでいたりする。うっかりすると死んだことに気付かないまま読み進んでしまうくらいである。
一昨年から我がブログの読者になってくれたモカさんも、十瑠さんと似た考えで、特に主題展開上重要な下層階級のレナード・バストについて、作者が扱いに困って死なせてしまったのではないかという疑念を呈された。池澤が言うには、フォースターは作者の特権乱用と思われかねないくらいしばしば人を殺す(文意であって表現は違う)と。なるほど彼もモカさんと近いことを考えている。モカさんもさすがだ。
池澤の解説を総合すると、フォースターのモチーフは対立するもの同士の理解であるように理解できる。僕はそれを融和と表現した。理解と融和とは似て非なるものと思うが、とにかく僕は対立する階級(中産階級と労働者階級)の融和という結論を前提に、作者が演繹的に話を構築していったと考えたので、モカさんの疑念は理解するものの、扱いに困ったわけではないと今でも思う。
しかるに、小説では、映画で受ける印象より融和というムードが希薄。僕の映画に対する主題の理解もあながち間違いというわけではないだろうが、小説の主題はやはり対立するもの(者)同士の理解と考えるのが妥当なようである。
モカさんは、さらに、マーガレットは何故ヘンリーと結婚したのか?という疑問を投げかけた。モカさんは鋭さをここでも発揮している。“これほど離れた二人を結びつけることができるだろうか”が、この小説の命題・課題なのだと池澤氏は述べているのだ。着眼のスタートは違うのだろうが、結果的に同じことに帰着する。
僕は、家をなくして困ることになるマーガレットは案外打算的なのだと思うと答えた。勿論、インテリのマーガレットだから、ミステリー的な、或いは、先日お金目当てで結婚した老富豪を殺害して逮捕された日本のあの女性のような経済欲的打算ではない。もっと精神的な打算であるが、僕の理解と表現は少し足りなかった。
小説に比べて映画では二人の心情の接近が拙速に感じられ、モカさんのような疑念が生じる。小説の終盤、彼女の妹ヘレンは姉が結婚した理由を理解した、と書かれている。しかし、その前後を読んでも僕には明確に解らない。それでも、小説は、マーガレットとヘンリーはある一週間でそれまでの2年間に倍する急接近を成したと表現している。これを前段にマーガレットが一種の打算的挑戦を考えたに違いないのである。
その説明の前に彼らの立場について少し説明をば。映画評には、中産階級に上下の階層が絡んで・・・と書いたが、厳密には違うことが小説では明快に解る。恐らく身分的に一番高いのはヒロインの一族である。ヘンリーの一家は言わば成金で、知性では彼女の一家にまるで及ばない。あの程度の知性や精神性ではお里が知れている。実際の資産で差があるので、ヘンリー・ウィルコックスの一家が上に見えるだけである。ヘンリーのやがて故人となる妻をヴァネッサ・レッドグレーヴという貴族の雰囲気を漂わす名女優が演じた為に映画では身分的にもウィルコックス家が少し上に見えたのかもしれない。
閑話休題。
マーガレットは、知性や精神性で自分より劣るヘンリーを何とか御する=自分の世界に近付けることができると考えた。これが一文にもならないが彼女にとって重要な言わば “打算” であった。これがフォースター以外であれば、結婚した後に起こるであろう不一致に対する計算という設定になろうが、彼の作品世界においては、それ自体が半ば結婚の目的となり、挑戦的な実験となる(フォースターは直接的にそう書いていないので、あくまで僕の理解にすぎない。彼の文学的実験とも言えようか)。ただ、結婚すれば家を失う心配がなくなるという思いもあるにはあったであろう。ただ、それでは三文小説に過ぎなくなってしまう。
結局彼女の目論見は外れ、企図は失敗に終わったたようなのだが・・・。そこで作者が出したウルトラCがレナードの死、過失致死させたヘンリーの息子の逮捕であったのかもしれない。マーガレットは、現実の精神世界で世界観の違う二人は理解し合えないと思い、死後の世界での再会(そして理解)にまで思いを馳せる。
僕の総合的印象では、小説はあくまでマーガレット(とヘンリーの関係性)がテーマである。ヘレンとレナードは彼女の心情を比較対照し、或いは、浮き彫りにするツールに過ぎない印象だ。実際、比率としてはレナードは殆ど印象に残らない程度にしか述べられない。
甚だ興味深いのは、マーガレットとヘレンがレナードを接待している最中にヘンリーと娘が訪れる場面。小説でも映画でもレナードはひどく怒るが、実はこの時ヘンリーは(マーガレットとの関係を前提に)レナードに嫉妬していたというのだ。このエピソードを見ても、小説ではヘレンとレナードは映画の印象とは違う役割を果たしているような気がする。
映画評で、オースティンの「高慢(自負)と偏見」を思わせる雰囲気があると書いた。池澤は、こうした小説群を縦糸(経)に編んでいったのがこの「ハワーズ・エンド」である旨述べている。この辺りの僕の意見は全くの正解であったと言って良いだろう。
東京オリンピック期間中は、他国での五輪以上に、専念する気でいる。映画はまず観られない。一応記事を毎日アップするつもりなので、色々と無い知恵を絞っている。本稿はその第一弾とも言えないでもない、とご理解くださいませ。アイデア募集中(笑)
この記事へのコメント
こうなったら私も読まないといけませんね。池澤夏樹の全集は重いのでみすず書房から出ている小池滋訳でいってみます。 夏休み明けにはレポート提出できるよう頑張ります。
オースティン 「高慢と偏見」
「分別と多感」がより近いですね。
アン リーの映画、「いつか晴れた日に」でもエマ トンプソンが長女でした。
>小池滋訳でいってみます。
訳者が違うと、また印象が違って来るかもしれませんね。
さすがに二つは読めませんが(笑)。
モカさんの印象で、比較出来たら良いと思います。
僕は映画は俯瞰で観、小説はざっと読み(スピードが命・・・笑)、丁寧さに欠ける傾向があるので、読み落とした部分を教えてもらえると有難いです。
>「いつか晴れた日に」でもエマ トンプソンが長女でした。
素晴らしい作品でしたねえ。
読書家でもある僕は小説と同じ邦題で公開して欲しかったですが、日本の一般客の知識を考えると仕方なかったでしょうか?
なので小説関係もとんとご無沙汰で「ハワーズエンド」を読む予定も無しでごわす。
映画「ハワーズエンド」もアイヴォリーの語り口を楽しみながら観ておりまして、ルースがマーガレットに“ハワーズエンド”を見せたいと言い出した頃から、この彼女の生家でもある屋敷の行く末が気になり出したように覚えています。
だから最後にルースの希望が叶うのが運命的で物語として(僕は)面白いわけですが、そういう風にするために(又は成るために)ちょっと強引な展開もあったように感じた次第です。
全体的な物語のモチーフについてはこの作品については考えませんでした。
右脳派ですので・・。
>字を追うのが億劫にもなっているジイジの十瑠
僕は近眼。もう10年くらい前から眼鏡をしていると近くが見にくくなりましたが、眼鏡を外せばばっちりなので、本を読むのは全く問題ないのです。
強い近眼の利点はこれのみですね。
ド田舎につき、後10年くらいは車に乗れないと困るわけですが、眼鏡がもう限界でして、いつもかつかつで免許を更新しているような次第。何とか良い対策がないかなあ?
>この彼女の生家でもある屋敷の行く末が気になり出したように
僕の意見ではないですが、ハワーズ・エンドが主人公だと仰る御仁もいらっしゃいます。
>右脳派ですので・・。
ふーむ。十瑠さんは結構論理的に分析されていることが多いような気がしますがねえ(笑)
やっと読み終えました! しんどかったです。
感想は、色々書き出したら400字詰原稿用紙20枚くらいは書けそうで(大した量ではないですけど・・・)さすがにそれははた迷惑な話なので控えさせていただきます。
当然ですが原作は映画に較べると難しかったです。
映画は20世紀末以降のアメリカ人も日本人も見るわけですから、小説の舞台となった当時のイギリスのお家事情の詳細まで詰め込んでしまうと話がややこしくなってしまうのでストーリーの上辺の展開を忠実になぞっていたのだと思います。
レナードの件ですが、作者が扱いに困って死なせたわけではない事はわかりました。
参考図書 岩波書店 「英米小説の読み方・楽しみ方」
P119~ にレナードが象徴する人間像の出どころがしっかり書かれていました。この本は東大駒場の講義を再現したもので難しい部分もありますが、なかなか勉強になりました。この講義をされた丹治愛先生によると小説は1906年6月から1910年6月までのことで、それは細部を読めばわかるといっておられます。(さすがですね!)
という事でこの時期の英国の政治事情がかなり絡んできている印象がありました。「自由党に投票する」とか「年金制度には反対」だとか・・
ヘレナ・ボナム=カーターの先祖に英国首相がいたとは何か読んだ覚えがありましたが正にこの小説の時代、1908年に首相に就任したアスキスがその人だったんですね。
私の無学な感覚では彼の手足となったロイド・ジョージやW・チャーチルのほうが有名人に思えて「アスキス?誰?」でしたが。
ウィキで読んだ程度の当時の自由党の政策しか知りませんが、この英国の危機ともいえる状況でのジレンマがフォースターのジレンマにリンクしているように思いました。
進歩的なシュレーゲル姉妹もその優雅なインテリ生活を支えてくれているウィルコックス家の代表される帝国主義を全否定することはできないわけです。
それで本の途中くらいまでは姉妹の言動にイライラして「時計仕掛けのオレンジ」でもアラン・シリトーでもいいから誰かこの嫌ったらしい世界観を叩きのめしてくれ~と思いながら読んでいました。(笑)
もしこれから読まれる方がおられたら小池滋訳をお勧めします。
本文中に訳者の註が入っていて私のようなもの知らずには非常に役立ちました。シェークスピアや聖書、ギリシャ神話などからの引用やモジりが多数ありますし時事ネタのしゃれなんかは吉田健一氏はまったくわかっておられません。どうして池澤夏樹は吉田訳を必要以上にヨイショしてるんですかね・・・何だかクレームが来る前に自分のネームバリューで有無を言わさず抑え込んでいるみたいで・・・大人の事情を鑑みますに小池訳は当初中央公論から出版されてそれをみすず書房が買った?ので版権の問題もあって河出からは出せなかった、と推測しています。
P.S.
41章でフォースター(語り手)が第一次世界大戦を予言していましたね。ヘレンとレナードの子供はちょうど第二次世界大戦に引っかかりそうです。
いつも楽な読書ばっかりしていますが、久方に知的好奇心を刺激される読書(読みにくかったのでフォースターってもう読まないと思いますが)の機会を与えていただきありがとうございました。
>やっと読み終えました! しんどかったです。
根を詰めて読んだ感じですねえ。僕にはそこまでは無理です。
>当時のイギリスのお家事情の詳細まで詰め込んでしまうと話がややこしくなってしまうのでストーリーの上辺の展開を忠実になぞっていたのだと
そうでなくても、長編小説の細部・深部まで映画化しようとすると、とんでもなく長い作品になってしまうでしょうね。映画と小説のリズムは違いますし。それを理解しない原作ファンがよく映画版を批判しますが。
>1906年6月から1910年6月までのこと
この時代の女性の相続権が気になっているんですけど、調べてもなかなか出て来ないんですよ。「高慢と偏見」の時代と違って、確か20世紀初めに女性もまがりなりに相続できるようになったと本か何かで読んだ記憶があるのですが、最近は忘れるのを専らとしていますので、すぐ忘れます。
>1908年に首相に就任したアスキスがその人だったんですね。
僕も、アスキスなんて、映画監督のアンソニー・アスキスしか憶えていないですね(息子だそうですが)。少なくとも僕が与えられた世界史の教科書では大きく扱われていなかった。
ヘレナ・ボナム=カーターが起用された理由もそこにあったのかもしれませんね。彼女は元来監督のジェームズ・アイヴァリーに気に入られていましたけれど。
ロイド・ジョージが首相の頃に一部女性の参政権が認められましたね。この騒動は昨年か一昨年に映画で見ましたよん。
>進歩的なシュレーゲル姉妹もその優雅なインテリ生活を支えてくれているウィルコックス家の代表される帝国主義を全否定することはできないわけです。
これに関しては僕もそう読みました。しかし、なかなか難しいな。
>訳者の註
欧州のものを読む時はこれは重要で、今日まで読んでいたゴーチエの「モーパン嬢」でもギリシャ神話とシェイクスピアが頻繁に登場し、一々説明されていました。僕はギリシャ神話は「変身物語」(これは欧州の小説を読む上で最重要な作品)ほか色々読んでいるので、一般の人より詳しいですが、それでも助かりましたよ。
>久方に知的好奇心を刺激される読書(読みにくかったのでフォースターってもう読まないと思いますが)の機会を与えていただきありがとうございました。
いやいや、却ってご迷惑をお掛けしたようで申し訳ございません。
全然迷惑なんかじゃありませんよ!
色々調べたりしてちょっと賢くなった気分です。そこがオースティンを読むのとは違うところでしょうか。オースティンは良くも悪くも自分の属する階級内の事しか書いていませんから「世の中平和」状態で人間観察の面白さという普遍性がありますが、フォースターの20世紀に入れば急速に変化していく社会の課題は山積みですし読者の方にもそれなりに歴史的知識がないと読み進められないと痛感しました。
女性の相続権
私の調べた所、イギリスでは1837年の遺言法 will act of 1937 の制定で不動産の世襲制は廃止されています。それ以前は遺言による動産は自由に相続できたようです。
ただ「限嗣相続」という制度は20世紀になっても残っていて、これが何だか難しいです。 代々爵位が受け継がれる位の家は爵位と不動産全てを男子に相続させないといけないらしいです。「ダウントンアビー」で得た知識ですけど(笑)
よく分かりませんがオースティンの時代から限嗣相続を採用しないという手段もあったようです。「高慢と偏見」のダーシーの叔母さんのレディなんとかさんが「そんなもんうちは採用してまへん」と言うてはりました。多分レディさんちは一代限りの爵位なので (ナイト? ビートルズやミックジャガーが貰ったヤツ?) 爵位の相続問題はないわけですし娘だけなら採用しなければいいんでしょうが…当主が死んでからでは相続方法を決めたりはできなかったのかもしれませんね。
まぁ、この法律のせいで(おかげで)英国ミステリーが発展したのかも?
ウィルコックス家とシュレーゲル家の階級ですが、どちらが上という事はないように思います。シュレーゲルの父親をドイツ人にする事で作者はうまくこの問題をぼかしましたが、母方も元々は多分ウィルコックスと同じミドルミドルかロウアーミドルでなんらかの事業で財を成したんでしょうね。シュレーゲル姉妹がウィルコックス的帝国主義を批判しても、そもそもの彼女たちの不労所得の元になる資産は何代か前のご先祖が儲けた物で、と言う事は植民地政策で発展してきたイギリスの産物だった可能性が大だと思います。
遺産という帝国主義の産物の「黄金の島」に乗っかって、お金は失いたくないけれど帝国主義には批判的である、と言う… フォースター自身の問題意識がこの姉妹に反映されているようです。 この自己矛盾の克服の一手としてエピローグに「ただ結びあわせよ」と書いているような(これも何かからの引用でしたか)
小池滋によると、「彼は日本のインテリアのように対象とは無縁な安全地帯からの批評家ではなく、自分が批判されている相手とどこかで結びついている苦しい立場にいる事を自覚している」(大意) との事で、ストーリーテラーとしては唐突に結婚させたり無理くりな展開があるのは否めませんが真に書きたい事はそこではなかったのだと理解しないといけませんね。モーリスを書いた人ですから男女の恋愛には疎かったのでしょう。という事で、ラストは一見ハッピーエンドに見えなくもないけれど、彼女たちの(作者の)自己矛盾の苦さを含んでいると言わざるを得ないでしょうね。
>フォースターの20世紀に入れば急速に変化していく社会の課題は山積みですし読者の方にもそれなりに歴史的知識がないと読み進められないと痛感
19世紀末くらいから小説が多様化したのもそれが背景にあるのでしょうねえ。知らんけど(笑)
>will act of 1937 の制定で不動産の世襲制は廃止されています。それ以前は遺言による動産は自由に相続できたようです。
>限嗣相続を採用しないという手段
な~るほど。
この辺りを良く知っていた方が特に映画「ハワーズ・エンド」は楽しめるかもですね。
>この法律のせいで(おかげで)英国ミステリーが発展したのかも?
発想がモカさんらしい!
世界文化において英国の貢献が高いのはミステリーとロックと思います。
>フォースター自身の問題意識がこの姉妹に反映されているようです。
確かに、この二つの家の結び付きにはそういう理解ができますね。勉強になりました^^v
20世紀以降の小説はテキトーに読んではいけないですね。と言いつつ、限られた余命の中では、それを実践できないのですが。