映画評「悪は存在せず」
☆☆☆★(7点/10点満点中)
2020年ドイツ=イラン=チェコ合作映画 監督モハマッド・ラスロフ
ネタバレあり
2020年度のベルリン映画祭の最高賞 “金熊賞" を受賞した力作。公式には日本劇場未公開作に当たる。監督はイラン人で、合作映画扱いだが、実質的にドイツ映画。こんな内容の映画をイラン当局が認めるわけがないのだ。
死刑反対を主題とする映画は幾つも作られてきた。しかし、4話構成のオムニバスである本作のようなアングルは珍しい。舞台は勿論、全てイラン。
第一話。妻と小学生の娘と多少の口論もするが好人物らしい中年男性が夜になって仕事場に向かう。部屋に入ってランプの色が変わると、彼はボタンを押す。その瞬間多数の死刑囚の一斉絞死刑が行われる。
第二話。兵役についている若者はその役目の一つである死刑囚の踏み台を外すのに堪えられない。他の兵士たちにその任務を避けようとすることを非難された彼は、死刑囚を護送する最中に監視兵から銃を奪って基地から脱走、事前に打ち合わせていた恋人とまんまと逃亡する。
三日間の休暇を得る為に政治犯を処刑する任務を果たした若者が、その政治犯が恋人とその家族にとって大事な人であったと知り、恋人と共に苦悩するというのが第三話。
第四話。父親と暮らすドイツから帰国した20歳くらいの女子大生が、父親の親友という男とその妻に迎えられる。その目的は肺病で死が迫った彼が娘の実の父親であると打ち明けること。彼が娘を友人に託し何にもない山奥にいるのはかつて処刑の任務を回避した結果であるらしい。
娘は無責任と実の父親を責めるが、父親の行為は娘が狐を射殺できないのと同じことなのではないか、と作者は婉曲的に主張する。恐らくロングショットで捉えられる車の中で彼女はそう思っているにちがいないという余韻を以って全編が終了する。
既にお解りのように、本作のアングルとは執行の実務を背負う者から反死刑を訴えるということで、ほぼ全ての反死刑映画が処刑される側の立場から描いた(反死刑を目的とはしていないものの、邦画「休暇」(2007年)が執行側の人間を主人公にしていた)のとは極めて対照的である。
遺族に近い人が出て来るは第三話だけで、それとてその遺族感情は愛する恋人が師とも慕っていた人物の処刑に手を染めたことへの苦悩が軸である。
執行者の苦痛という点において、第一話の執行者は事務的に処理するが、あるいは処刑される者を見ていないから出来ることかもしれない。
第三話と第二話は同じ状況ありながら任務を果たした者と果たさなかった者という違いがあり、どちらにしても処刑を実行する一般的人間は苦悩すると映画は示す。
第四話は第二話の未来のようなお話で、任務遂行を回避できてもその一生に影を落とすのではないか、しかしその選択に誤りはないという主張と読み取ることが出来る。つまり、死刑制度さえなければこうした苦痛を味わう人々はいなくなるということなのだ。
以上を勘案すると、この題名は、恐らく “死刑に値する” 悪は存在せず、という意味であると僕は解釈する。
また、演出部分より脚本を買いたい。一年遅れベスト10の脚本賞候補に入れておきます。
従姉の息子が刑務官をしている。昨年末に叔父(義理)の一周忌で従姉に会ったら今単身赴任していると言っていた。多分普通の刑務所での仕事で、死刑には携わっていない(日本では死刑囚が収容されているのは拘置所)のだろう。
2020年ドイツ=イラン=チェコ合作映画 監督モハマッド・ラスロフ
ネタバレあり
2020年度のベルリン映画祭の最高賞 “金熊賞" を受賞した力作。公式には日本劇場未公開作に当たる。監督はイラン人で、合作映画扱いだが、実質的にドイツ映画。こんな内容の映画をイラン当局が認めるわけがないのだ。
死刑反対を主題とする映画は幾つも作られてきた。しかし、4話構成のオムニバスである本作のようなアングルは珍しい。舞台は勿論、全てイラン。
第一話。妻と小学生の娘と多少の口論もするが好人物らしい中年男性が夜になって仕事場に向かう。部屋に入ってランプの色が変わると、彼はボタンを押す。その瞬間多数の死刑囚の一斉絞死刑が行われる。
第二話。兵役についている若者はその役目の一つである死刑囚の踏み台を外すのに堪えられない。他の兵士たちにその任務を避けようとすることを非難された彼は、死刑囚を護送する最中に監視兵から銃を奪って基地から脱走、事前に打ち合わせていた恋人とまんまと逃亡する。
三日間の休暇を得る為に政治犯を処刑する任務を果たした若者が、その政治犯が恋人とその家族にとって大事な人であったと知り、恋人と共に苦悩するというのが第三話。
第四話。父親と暮らすドイツから帰国した20歳くらいの女子大生が、父親の親友という男とその妻に迎えられる。その目的は肺病で死が迫った彼が娘の実の父親であると打ち明けること。彼が娘を友人に託し何にもない山奥にいるのはかつて処刑の任務を回避した結果であるらしい。
娘は無責任と実の父親を責めるが、父親の行為は娘が狐を射殺できないのと同じことなのではないか、と作者は婉曲的に主張する。恐らくロングショットで捉えられる車の中で彼女はそう思っているにちがいないという余韻を以って全編が終了する。
既にお解りのように、本作のアングルとは執行の実務を背負う者から反死刑を訴えるということで、ほぼ全ての反死刑映画が処刑される側の立場から描いた(反死刑を目的とはしていないものの、邦画「休暇」(2007年)が執行側の人間を主人公にしていた)のとは極めて対照的である。
遺族に近い人が出て来るは第三話だけで、それとてその遺族感情は愛する恋人が師とも慕っていた人物の処刑に手を染めたことへの苦悩が軸である。
執行者の苦痛という点において、第一話の執行者は事務的に処理するが、あるいは処刑される者を見ていないから出来ることかもしれない。
第三話と第二話は同じ状況ありながら任務を果たした者と果たさなかった者という違いがあり、どちらにしても処刑を実行する一般的人間は苦悩すると映画は示す。
第四話は第二話の未来のようなお話で、任務遂行を回避できてもその一生に影を落とすのではないか、しかしその選択に誤りはないという主張と読み取ることが出来る。つまり、死刑制度さえなければこうした苦痛を味わう人々はいなくなるということなのだ。
以上を勘案すると、この題名は、恐らく “死刑に値する” 悪は存在せず、という意味であると僕は解釈する。
また、演出部分より脚本を買いたい。一年遅れベスト10の脚本賞候補に入れておきます。
従姉の息子が刑務官をしている。昨年末に叔父(義理)の一周忌で従姉に会ったら今単身赴任していると言っていた。多分普通の刑務所での仕事で、死刑には携わっていない(日本では死刑囚が収容されているのは拘置所)のだろう。
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