映画評「ドクター・ドリトル」(2020年版)

☆☆(4点/10点満点中)
2020年アメリカ=イギリス=中国=日本合作映画 監督スティーヴン・ギャガン
ネタバレあり

ヒュー・ロフティングの有名な児童小説をベースにした冒険ファンタジー。世間では実写映画化と言っているが、これほど大量にCGを使っている映画について実写映画化と称するのは僕には些か納得しきれない。

ところで、四半世紀くらい前にエディ・マーフィーが主演した同名映画がある。当時はエディ・マーフィー人気に乗ったものと単純に思った(勿論それも事実であろう)が、今から思うと、原作で白人のドリトル先生役に黒人の彼を起用するという発想がポリ・コレ映画の走りのように見えないこともない。実際、20世紀末には既に、群像劇等では有色人種を必ず出すことという紳士協定みたいなものがハリウッドにはあったと記憶する。

閑話休題。

冒険家の愛妻リリー(カシー・スムートニアック)を失って以来、動物に囲まれた屋敷に引き籠っているドリトル先生(ロバート・ダウニー・ジュニア)が、女王が瀕死の重態になって困った英国王室から派遣された少女レディ・ローズ(カルメル・ラニアド)と、怪我をしたリスを持ち込んだ少年トミー(ハリー・コレット)とが屋敷に紛れ込んだことから、重い腰を上げ宮廷に出かける気になり、彼独自の能力でタコから女王が倒れた原因が側近の仕込んだ毒によると聞き出すと、解毒すべく、リリーの残した日誌を盗んだ上で、それを基にエデンの園から秘密の果実を得る旅に出る。

というお話で、動物やトミー少年と一致協力して、リリーの父親で海賊のラソーリ(アントニオ・バンデラス)の城からその日誌を盗む冒険談や、早々に悪人の正体を現す側近マッド・フライ(マイケル・シーン)の攻撃に立ち向かうアクションが賑やかに繰り広げられる。

今回は、CGを最大限に利用して動物たちの活躍を目立ち、人間が寧ろ添え物のようにさえ感じないでもない。何だか賑やかさに閉口した「マダガスカル」シリーズを観ているような気持ちになったデス。

お話のバランスも悪い。エデンの園に至るまでの二段構えの挿話が長く、果物を獲るエデンの園の描写は全くなく、肩透かしを食らう。省略するアイデアは寧ろ積極的に認められるべきだが、呼吸が悪くてその省略がピンと来ない為、バランスが実際以上に悪く感じられてしまうのである。

省略と言えば、大昔へのタイムスリップにおける言葉の問題について甥A(近くにいる兄の息子のほう)とつまらん議論をした時、彼は「クレヨンしんちゃん」のそれ――多分「嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦」について、登場人物の衣服がいつの間にか和服になるところで観客が置いてけぼりを食らう、などと言った。これもまた例によって思いつきだけで口から出た考えの足りない発言で、実際には作者が期待する省略の効果を、大した想像力のないごく一部の観客が理解できないだけの話。こういう省略は積極的にやらないと、映画は説明的に過ぎてつまらなくなり、長くなるだけである。平均的な想像力があれば、この程度のことは容易に理解できるはず。彼は、映画は9割の人々の為に作られるべきと主張しながら、同時に1割の人々の代言をしている。つまり理論が破綻しているのだ。

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック