映画評「DUNE/デューン 砂の惑星」
☆☆☆★(7点/10点満点中)
2021年カナダ=アメリカ合作映画 監督ドニ・ヴィルヌーヴ
ネタバレあり
原作となったフランク・ハーバートの有名なSF小説は、長らくSFから遠ざかっていたので当然読んでいないが、1984年にデーヴィッド・リンチが映画化した「砂の惑星」を見て結構楽しんだ。初見印象ではドニ・ヴィルヌーヴがメガフォンを取った本作より面白味を感じた。リンチ版の低い世評は、多分ぐっと通俗的かつダイジェスト的になったため原作ファンなどから邪険に扱われた為ではないかと勝手に憶測する。
本作は、邦題では全く解らないが、原題を見れば解るように第一部(前半?)に過ぎない。
遥か未来。アトレイデス家は、宇宙帝国の皇帝により砂の惑星ことアラキスを統治することになるが、豊富な鉱物の産地である一方、砂虫という巨大生物が砂漠の下に潜んでいて、原住民フレメン以外はやり過ごすことができない。また、外には灼熱で水分が殆どないので移動には重装備が必要である。
宿敵?のハルコンネン男爵(ステラン・スカルスゴード)の陰謀で、当主のレト公爵(オスカー・アイザック)が殺され、室ジェシカ(レベッカ・ファーガスン)と息子ポール(ティモシー・シャラメ)も逃亡の憂き目に遭うが、相手を言いなりにさせる超能力を操る女系部族の出身であるレベッカと訓練半ばの息子はその力を使って辿り着いた岩場に巣食うフレメンの群盗を味方に引き入れる。
第一部はおおよそこんなお話で、リンチ版よりぐっと丁寧に進むので、それだけでも大向うの評価は高まるだろう。まして、視覚面でスペクタクル性が極めて高く、大スクリーンで見れば満足感が生まれる筈である。が、逆に僕のようにTVで見るとその利点が制限されるので、嫌でもお話の面白味の程度に関心が集中しがちになる。
ヴィルヌーヴは哲学的な映画を作るのを得意とするので、哲学的な小説と言われる原作にする本作に打ってつけなのだが、哲学を云々する前に映画として「スター・ウォーズ」の二番煎じ(実際は勿論こちらの原作が「スター・ウォーズ」に影響を与えた)のように見える部分は余り有難くない。ヴィルヌーヴならスペース・オペラに走らず、もっと低回的に思惟を巡らしたくなるような内容を期待するのが、初期から彼をご贔屓にする人間の本音であろう。
皇帝を中心とする多民族国家観は神聖ローマ帝国みたいである一方、砂漠の民はベドウィン族を想起させる。実際、原作者ハーバートは彼らの精神世界を参考にしているらしい。総合的には後編を観ての判断となるが、この前編は画面が断然優勢の作品と言うべし。
カナダにはレーサーで有名なヴィルヌーヴ一家もいる。因みに、1990年代くらいからフランス語への意識の高い人が d の発音に対しドゥという表記を導入し始めた。ジャック・ドミーがジャック・ドゥミになった。しかし、僕は小さなゥの存在が却って母音を強く意識させてしまうと思うので、相変わらずドを用いている。それ以前からカトリーヌ・ドヌーヴをそれらしい発音で呼ぶ人もチラホラいたが、相変わらず表記はドヌーヴであり、マルキ・ド・サドである。一方、新しい人はセシル・ドゥ・フランスであり、ドゥニ・ヴィルヌーヴなのだ。統一感がないなあ。僕だけが頑なにドニと書いている(笑)
2021年カナダ=アメリカ合作映画 監督ドニ・ヴィルヌーヴ
ネタバレあり
原作となったフランク・ハーバートの有名なSF小説は、長らくSFから遠ざかっていたので当然読んでいないが、1984年にデーヴィッド・リンチが映画化した「砂の惑星」を見て結構楽しんだ。初見印象ではドニ・ヴィルヌーヴがメガフォンを取った本作より面白味を感じた。リンチ版の低い世評は、多分ぐっと通俗的かつダイジェスト的になったため原作ファンなどから邪険に扱われた為ではないかと勝手に憶測する。
本作は、邦題では全く解らないが、原題を見れば解るように第一部(前半?)に過ぎない。
遥か未来。アトレイデス家は、宇宙帝国の皇帝により砂の惑星ことアラキスを統治することになるが、豊富な鉱物の産地である一方、砂虫という巨大生物が砂漠の下に潜んでいて、原住民フレメン以外はやり過ごすことができない。また、外には灼熱で水分が殆どないので移動には重装備が必要である。
宿敵?のハルコンネン男爵(ステラン・スカルスゴード)の陰謀で、当主のレト公爵(オスカー・アイザック)が殺され、室ジェシカ(レベッカ・ファーガスン)と息子ポール(ティモシー・シャラメ)も逃亡の憂き目に遭うが、相手を言いなりにさせる超能力を操る女系部族の出身であるレベッカと訓練半ばの息子はその力を使って辿り着いた岩場に巣食うフレメンの群盗を味方に引き入れる。
第一部はおおよそこんなお話で、リンチ版よりぐっと丁寧に進むので、それだけでも大向うの評価は高まるだろう。まして、視覚面でスペクタクル性が極めて高く、大スクリーンで見れば満足感が生まれる筈である。が、逆に僕のようにTVで見るとその利点が制限されるので、嫌でもお話の面白味の程度に関心が集中しがちになる。
ヴィルヌーヴは哲学的な映画を作るのを得意とするので、哲学的な小説と言われる原作にする本作に打ってつけなのだが、哲学を云々する前に映画として「スター・ウォーズ」の二番煎じ(実際は勿論こちらの原作が「スター・ウォーズ」に影響を与えた)のように見える部分は余り有難くない。ヴィルヌーヴならスペース・オペラに走らず、もっと低回的に思惟を巡らしたくなるような内容を期待するのが、初期から彼をご贔屓にする人間の本音であろう。
皇帝を中心とする多民族国家観は神聖ローマ帝国みたいである一方、砂漠の民はベドウィン族を想起させる。実際、原作者ハーバートは彼らの精神世界を参考にしているらしい。総合的には後編を観ての判断となるが、この前編は画面が断然優勢の作品と言うべし。
カナダにはレーサーで有名なヴィルヌーヴ一家もいる。因みに、1990年代くらいからフランス語への意識の高い人が d の発音に対しドゥという表記を導入し始めた。ジャック・ドミーがジャック・ドゥミになった。しかし、僕は小さなゥの存在が却って母音を強く意識させてしまうと思うので、相変わらずドを用いている。それ以前からカトリーヌ・ドヌーヴをそれらしい発音で呼ぶ人もチラホラいたが、相変わらず表記はドヌーヴであり、マルキ・ド・サドである。一方、新しい人はセシル・ドゥ・フランスであり、ドゥニ・ヴィルヌーヴなのだ。統一感がないなあ。僕だけが頑なにドニと書いている(笑)
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