映画評「PITY ある不幸な男」
☆☆☆(6点/10点満点中)
2018年ギリシャ=ポーランド合作映画 監督バビス・マクリディス
ネタバレあり
「籠の中の乙女」「ロブスター」の脚本家エフティミス・フィリップの、例によって不条理劇だが、映像に移した監督はヨルゴス・ランティモスではなく、若手バビス・マクリディス。
老人殺しの遺族をケアする弁護士ヤニス・ドラコプロスは、妻エヴァ・サウリドウが昏睡状態に陥ったのが悲しくてたまらない。アパートの隣人や近隣の人々から同情されるうちに、悲しいことが快感になって、ピアノを習う息子パヴロス・マクリディスにも暗い曲を強要する。謂わば、悲しみ依存症である。
ところが、妻が蘇生して調子が狂う。隣人にはそのまま昏睡状態にあることをしておくが、いつまでも続かない。愛犬を消してもまだ足りず、彼は自ら殺人事件を再現、父と妻を別々に殺してしまう。
単に不条理という以上にブラックであるが、 IMDb はコメディーとしていない。ここに本作を語る上での難しさがあろうか。
3か月前僕が大昔の日本にタイムスリップして言葉が通じてしまう出鱈目について甥Aに問題提示をした時に、彼は “映画は1割の人の為に作られるのではない(この言い方は余りに曖昧で、その真意は1割くらいの人しかそれを問題と考えない、であろう)”と言った。その真意自体は正論なのだが、言葉の問題は衣食住に等しいと考える僕は “それは月で普通に生活するのを見せるに等しい、 即ち何でもありに等しい大問題なのだ”と反論したところ、彼はいつもの伝で勢い余って “何でもありで結構” という問題発言をした。
これほど程度の低い話は無い。僕は映画の外の常識の話をしているのである。常識という基準がなければ、小説を読んだり映画を観ても面白いわけがない。死が怖いという常識があるから殺されないかというサスペンスが生まれ、死が悲しいという常識があるからお涙頂戴が生れ、通常人のできないことができる非常識な能力を持つからスーパーヒーローに喝采を送る。月で普通に生活できる描写はコメディーで初めて成り立つ。常識を外しているからお笑いになる。非常識は常識に立脚する。
何でもありは何にもないに等しいわけで、彼が本気で言ったのだとしたら、彼に映画を語る資格はない。それは言い過ぎとしても、出来上がった映画のみを語る彼は僕の語る映画外の土俵(映画を語る基礎)に入って来ないので、食い違いが生じる。それが理解できないのが彼の足りないところだ。
何でこんな話をしたかと言えば、人間の幸福に関する常識を持っていない人には本作の怖い不条理が理解できない故に。
言うまでもないだろうが、本作における常識は【人は愛する家族が死の淵から蘇れば喜ぶ】である。愛する妻が蘇って喜べない。そこに不条理があり、ブラックさがある。
ランティモスに似て、マクリディス監督は、時にゆっくりした移動やズームを使うも固定カメラで突き放したように描く。固定カメラの冷たい感覚がこの手の不条理劇には似合っているが、IMDbがコメディーと表記するのを回避するくらい喜劇味は抑えられている。せいぜい音楽の大袈裟さが笑わせるくらいか(主人公の表情を殆ど変えない顔のアップは、鑑賞者の意識次第で喜劇的とも取れる)?
余りに喜劇的にするのもどうかと思うが、ブラック・コメディーと容易に理解できるような作り方にした方が、少なくとも、現状より好意的な大衆の評価を得ることは出来ただろう。
息子の弾くピアノ曲の変調はピアノが下手になったのではなく、親父が夜にピアノの鍵盤を壊したのである。それはそのまま父親の頭脳の変調を暗示する。
愛さない家族を殺す映画はいっぱいありますがね。
2018年ギリシャ=ポーランド合作映画 監督バビス・マクリディス
ネタバレあり
「籠の中の乙女」「ロブスター」の脚本家エフティミス・フィリップの、例によって不条理劇だが、映像に移した監督はヨルゴス・ランティモスではなく、若手バビス・マクリディス。
老人殺しの遺族をケアする弁護士ヤニス・ドラコプロスは、妻エヴァ・サウリドウが昏睡状態に陥ったのが悲しくてたまらない。アパートの隣人や近隣の人々から同情されるうちに、悲しいことが快感になって、ピアノを習う息子パヴロス・マクリディスにも暗い曲を強要する。謂わば、悲しみ依存症である。
ところが、妻が蘇生して調子が狂う。隣人にはそのまま昏睡状態にあることをしておくが、いつまでも続かない。愛犬を消してもまだ足りず、彼は自ら殺人事件を再現、父と妻を別々に殺してしまう。
単に不条理という以上にブラックであるが、 IMDb はコメディーとしていない。ここに本作を語る上での難しさがあろうか。
3か月前僕が大昔の日本にタイムスリップして言葉が通じてしまう出鱈目について甥Aに問題提示をした時に、彼は “映画は1割の人の為に作られるのではない(この言い方は余りに曖昧で、その真意は1割くらいの人しかそれを問題と考えない、であろう)”と言った。その真意自体は正論なのだが、言葉の問題は衣食住に等しいと考える僕は “それは月で普通に生活するのを見せるに等しい、 即ち何でもありに等しい大問題なのだ”と反論したところ、彼はいつもの伝で勢い余って “何でもありで結構” という問題発言をした。
これほど程度の低い話は無い。僕は映画の外の常識の話をしているのである。常識という基準がなければ、小説を読んだり映画を観ても面白いわけがない。死が怖いという常識があるから殺されないかというサスペンスが生まれ、死が悲しいという常識があるからお涙頂戴が生れ、通常人のできないことができる非常識な能力を持つからスーパーヒーローに喝采を送る。月で普通に生活できる描写はコメディーで初めて成り立つ。常識を外しているからお笑いになる。非常識は常識に立脚する。
何でもありは何にもないに等しいわけで、彼が本気で言ったのだとしたら、彼に映画を語る資格はない。それは言い過ぎとしても、出来上がった映画のみを語る彼は僕の語る映画外の土俵(映画を語る基礎)に入って来ないので、食い違いが生じる。それが理解できないのが彼の足りないところだ。
何でこんな話をしたかと言えば、人間の幸福に関する常識を持っていない人には本作の怖い不条理が理解できない故に。
言うまでもないだろうが、本作における常識は【人は愛する家族が死の淵から蘇れば喜ぶ】である。愛する妻が蘇って喜べない。そこに不条理があり、ブラックさがある。
ランティモスに似て、マクリディス監督は、時にゆっくりした移動やズームを使うも固定カメラで突き放したように描く。固定カメラの冷たい感覚がこの手の不条理劇には似合っているが、IMDbがコメディーと表記するのを回避するくらい喜劇味は抑えられている。せいぜい音楽の大袈裟さが笑わせるくらいか(主人公の表情を殆ど変えない顔のアップは、鑑賞者の意識次第で喜劇的とも取れる)?
余りに喜劇的にするのもどうかと思うが、ブラック・コメディーと容易に理解できるような作り方にした方が、少なくとも、現状より好意的な大衆の評価を得ることは出来ただろう。
息子の弾くピアノ曲の変調はピアノが下手になったのではなく、親父が夜にピアノの鍵盤を壊したのである。それはそのまま父親の頭脳の変調を暗示する。
愛さない家族を殺す映画はいっぱいありますがね。
この記事へのコメント