映画評「白い牛のバラッド」

☆☆☆☆(8点/10点満点中)
2020年イラン=フランス合作映画 監督ベタシュ・サナイハ、マリヤム・モガッダム
ネタバレあり

日本に輸入されるイラン映画は例外ないと言って良いほど質が高い。尤も、その多くは純粋なイラン映画にあらず。中国映画でもそうだが、本国に都合の悪い映画はよその国の資本を得て、その資本提供国で作られるものが少なくない。映画製作絡みでイランを逃げ出し、それをテーマに作品を作った監督もいたっけ。あるいは逆に国外への移動を禁じられている監督もいる。
 イランの現実を切り取って見せた本作もその類で、本国では上映禁止。珍しくも何ともない。

本作の通奏低音になっている白い牛は、受け売り情報によりますと、一つは生贄のこと、転じて冤罪を暗示する。一つは中東に長く息づく “目には目を” の論理での復讐を示す。これを前提に梗概に入りましょう。

1年前に夫を死刑で失った未亡人ミナ(共同で脚本と監督を兼務するマリヤム・モガッダム)の許へ、被害者の友人と称する中年男性レザ(アリレザ・サニファル)が現れ、事件が冤罪であることが確定したと伝え、色々と親切にする。彼を迎え入れたことを理由にアパートを追い出され、未亡人である為に新しい住居探しに難儀するミナになかなか豪華な家を探し出してくれる。
 レザがここまでするのは、実は彼こそ彼を死刑の判決を言い渡した判事の一人で、良心による慚愧に堪えなかったからである。しかし、彼は、次第に親しんでくる聾の娘ビタ(アーヴィン・プールラウフィ)同様ミナとの距離感が近くなればなるほど、真相を言えなくなる。
 が、ビタの親権を巡って争う義理の弟が親権争いに敗れた時に、彼に代わって真相を告げる。それを知ったミナは涙を流す。

この涙は複雑と言うべし。敢えて一言で言えば、運命の残酷に流す涙である。そこで問題となるのが一見両義的な幕切れの理解の仕方である。
 しかし、映画技法的に考えれば両義的でないのではないか。最近やってみたいが実行できないことを事前に見せて次にその実際を見せるというショットの繋ぎが世界的に流行っていて、その伝で解釈すると、彼女はレザに白い牛と関連付けたくもなる牛乳を飲ませるところまでは本当にあったことと考えられるが、その後の椅子から転げ落ち苦しむレザは幻想である。彼女が家を出ていく時に見るレダは居眠りしている(倒れたレダを椅子に戻したと解釈できないこともないが、娘ビタの向後の人生を考えると実際に殺すのは無理である)。彼女が飲ませたのは適量の睡眠薬であろう。
 複雑な涙を流したミナには、感謝と憎しみの交わった複雑な心境で、彼のおかげで勝ち取ったビタを連れて家を出るしかないのである。

死刑の多いイランならではの内容だが、先般観た「悪は存在せず」と違って、死刑制度を批判するというよりは、冤罪による死刑をめぐる被告の遺族たる妻と判事の心情の絡み合いを見せたドラマという解釈が正解に近いだろう。結果的に社会派の面はあるが、所謂社会派映画ではないし、心理の葛藤のあっても心理サスペンスではない。即ち苦しむ人を見つめたドラマである。

レダが車を降りて水を買いに出ている間に助手席にいるミナに義弟から残酷な電話がかかってくるショットの扱いが秀逸。
 ショットを切らずに見せたのが秀逸なのではなく、画面が彼女から離れて外の風景を映し出す間に彼女の反応を想像させる扱いが優れているのだ。アルフレッド・ヒッチコックが「フレンジー」(1972年)でカメラを殺人が行われようとしている家から外に出して殺人を想像させることで恐怖を醸成した手法を想起させる。見せないことによる効果を利用しているのである。

かの地では独身女性、未亡人は住む場所を提供されにくいらしい。イスラム圏の理解しにくい論理。今回の選挙で一部野党も言っているように、男女同権・平等は国家の発展に繋がる。僕が若い時、歴史を俯瞰してこれに気づいた。自民党右派は国の発展を妨げることをやり、少なからぬフェミニストは平等と公平とを混同している。

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