映画評「ハッピーアワー」
☆☆☆☆(8点/10点満点中)
2015年日本映画 監督・濱口竜介
ネタバレあり
日本の単独ドラマ映画としては最長の部類である。318分なり。勤め人に比べ時間のある人間とは言え、これを一日で見るほど暇があるわけでもないので、二日に分けて観た。
濱口竜介監督の最新作「ドライブ・マイ・カー」も面白く観たが、二つ前のこちらを先に観ていたら寧ろ物足りなく感じたのではないだろうか? 「旅芸人の記録」を初めて、というよりテオ・アンゲロプロスを初めて観た時のような衝撃を受けた。
離婚経験のある看護婦あかり(田中幸恵)、公務員を夫に持つ専業主婦桜子(菊池葉月)、編集者を夫に持つ学芸員芙美(三原麻衣子)、科学者の夫と離婚裁判中の純(川村りら)という、37歳近辺の友人4人組の行状を描く一種の群像劇である。
芙美に誘われて、他の三人が “重心について” という奇妙なワークショップに参加する辺りまでは仄々としたムードで進むが、その打ち上げでの話から、離婚裁判中の純の話へ移行、以降映画の関心は彼女たちの夫(あるいは他の男性)に関する秘めたる思いについて深く深く掘り下げていく。
「ドライブ・マイ・カー」よりもっと全編的にセミ・ドキュメンタリーである。そもそも起用された俳優たちが演技ワークショップの人々らしい。余り感情を籠めない、世間で俗に言う棒読みに近い口跡が、却って真実味を醸成する。
世間一般は棒読みに対して批判的であるが、限界を超えない程度の棒読みこそ僕は本当らしいと思っている。友達や近所の人との会話を思い出せば分かるように(?)、僕たちは立派な口跡を誇る俳優のようには絶対喋っていない。それだけは確実に言える。
本作には、通常の映画観で測れば冗長であると決めつけるであろう、長いシーンが二つある。前半のワークショップと後半の女性作家による朗読会である。それぞれ多分20分くらい延々と続く。
ところが、これが全然退屈ではないのである。理由は色々あるであろうが、中途半端に場面やショットを切らないことで観客が正にその場に居合わせる緊張感を覚えるからと思う。
前半の打ち上げが関係者の人生観吐露の場となったのに続いて、二番目の打ち上げはもっと激しい人生観・結婚観吐露の場となって行く。その緊張を予期して長い朗読会そのものにも退屈しないのかもしれない。
二回目では、芙美と夫も居合わせているので、殆ど修羅場と化す。桜子が告白するように、頭の良い人の会話には凡人たる我々はなかなかついていけない。このような微妙な問題に正解などないということだけが解る。
全ての家庭がこのまま壊れてしまうのかと思わせつつ、芙美の夫が交通事故で意識を失ったまま運び込まれたあかりの病院の屋上での場面を見ると、案外、純を含めて、旧に復するような予感さえ覚えさせる。「ドライブ・マイ・カー」でもそうであったように、濱口監督は割合楽観主義者なのかもしれない。
演技陣について。4人の女優たちに2022年度女優賞を進呈することになると思う。1時間ほど観ていてそんなことを考えていたら、なるほどロカルノ映画祭の審査員たちも同じ事を考えたらしく、4人併せて(あくまで一人の女優であるかのように)彼女たちに女優賞を進呈したのだった。そう言えば、数年前どこかで、そんなニュースを読んだ記憶がある。この映画だったのか、と納得した。
演技賞は一人に与えられるという映画祭の常識を覆した映画。それだけでも価値があるだろう。
2015年日本映画 監督・濱口竜介
ネタバレあり
日本の単独ドラマ映画としては最長の部類である。318分なり。勤め人に比べ時間のある人間とは言え、これを一日で見るほど暇があるわけでもないので、二日に分けて観た。
濱口竜介監督の最新作「ドライブ・マイ・カー」も面白く観たが、二つ前のこちらを先に観ていたら寧ろ物足りなく感じたのではないだろうか? 「旅芸人の記録」を初めて、というよりテオ・アンゲロプロスを初めて観た時のような衝撃を受けた。
離婚経験のある看護婦あかり(田中幸恵)、公務員を夫に持つ専業主婦桜子(菊池葉月)、編集者を夫に持つ学芸員芙美(三原麻衣子)、科学者の夫と離婚裁判中の純(川村りら)という、37歳近辺の友人4人組の行状を描く一種の群像劇である。
芙美に誘われて、他の三人が “重心について” という奇妙なワークショップに参加する辺りまでは仄々としたムードで進むが、その打ち上げでの話から、離婚裁判中の純の話へ移行、以降映画の関心は彼女たちの夫(あるいは他の男性)に関する秘めたる思いについて深く深く掘り下げていく。
「ドライブ・マイ・カー」よりもっと全編的にセミ・ドキュメンタリーである。そもそも起用された俳優たちが演技ワークショップの人々らしい。余り感情を籠めない、世間で俗に言う棒読みに近い口跡が、却って真実味を醸成する。
世間一般は棒読みに対して批判的であるが、限界を超えない程度の棒読みこそ僕は本当らしいと思っている。友達や近所の人との会話を思い出せば分かるように(?)、僕たちは立派な口跡を誇る俳優のようには絶対喋っていない。それだけは確実に言える。
本作には、通常の映画観で測れば冗長であると決めつけるであろう、長いシーンが二つある。前半のワークショップと後半の女性作家による朗読会である。それぞれ多分20分くらい延々と続く。
ところが、これが全然退屈ではないのである。理由は色々あるであろうが、中途半端に場面やショットを切らないことで観客が正にその場に居合わせる緊張感を覚えるからと思う。
前半の打ち上げが関係者の人生観吐露の場となったのに続いて、二番目の打ち上げはもっと激しい人生観・結婚観吐露の場となって行く。その緊張を予期して長い朗読会そのものにも退屈しないのかもしれない。
二回目では、芙美と夫も居合わせているので、殆ど修羅場と化す。桜子が告白するように、頭の良い人の会話には凡人たる我々はなかなかついていけない。このような微妙な問題に正解などないということだけが解る。
全ての家庭がこのまま壊れてしまうのかと思わせつつ、芙美の夫が交通事故で意識を失ったまま運び込まれたあかりの病院の屋上での場面を見ると、案外、純を含めて、旧に復するような予感さえ覚えさせる。「ドライブ・マイ・カー」でもそうであったように、濱口監督は割合楽観主義者なのかもしれない。
演技陣について。4人の女優たちに2022年度女優賞を進呈することになると思う。1時間ほど観ていてそんなことを考えていたら、なるほどロカルノ映画祭の審査員たちも同じ事を考えたらしく、4人併せて(あくまで一人の女優であるかのように)彼女たちに女優賞を進呈したのだった。そう言えば、数年前どこかで、そんなニュースを読んだ記憶がある。この映画だったのか、と納得した。
演技賞は一人に与えられるという映画祭の常識を覆した映画。それだけでも価値があるだろう。
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