映画評「巴里の空の下セーヌは流れる」

☆☆☆☆(8点/10点満点中)
1951年フランス映画 監督ジュリアン・デュヴィヴィエ
ネタバレあり

ジュリアン・デュヴィヴィエがフランスに帰って漸く彼らしい感覚を発揮した群像劇である。
 IMDbに行ったところ、何と9点を進呈していた。が、今回は観終わって複雑な心境に至ったことなどから★一つ分少なくした。

群像劇と言ったものの、実は都市小説ならぬ都市映画であり、人物はパリを構成する要素として扱われている。だから、登場人物の扱いは概ね冷徹であり、ペシミスティックなデュヴィヴィエらしさが大いに発揮された一編となっている。

Allcinemaは、モデル(クリスチアーヌ・レニエ)と、彼女に頼ってパリにやって来た田舎娘デニーズ(ブリジット・オーベール)を中心にしている、と書いているが、僕の考えでは、重心は殺人鬼の彫刻家(レイモン・エルマンティエ)にある。
 何となれば、彼の接した人物が幸運派と不運派に分かれ、さらにその先に繋がって行くからである。
 清純な子供が好きなこの彫刻家は、親が怖くて家に帰れない幼女(マリー=フランス)に希望を見出して酒場に入る。しかし、酒場で遭遇した女性は売春婦で彼を罵る。再び孤独に陥った彼は、友人の為に町に出たデニーズを切り殺してしてしまう。男を追った警察に撃たれるのが、やっとストから解放されて銀婚式の待つ家に帰る途中の労働者(ジャン・ブロシャール)。結局、彫刻家は警察に射殺される。
 一方、町を彷徨している幼女を家に帰してあげた猫好きの老婆(シルヴィー)はそのお礼に念願の猫の餌を貰うことができる。重態の労働者を助けたのはモデルの恋人である臆病なインターン(ダニエル・イヴェルネル)。彼は新聞に大きく取り上げられる。

前回9点を付けたのは、恐らく写生的に並行描写していた中盤を過ぎ、残り30分くらいから人物の交錯が一気に激しくなって度肝を抜かれたからだろう。今回観て思うに、彫刻家が殺されるのは仕方がないにしても、デニーズが殺されるのは残酷すぎる。デュヴィヴィエが運命の分岐点を強烈に描こうとする上で必然だったのだろうが、やり過ぎのような気がした。マイナスの第一点。

2015年にイエジー・スコモリフスキが作った「イレブン・ミニッツ」はこの作品の着想を極端にした感じで、1950年頃には珍しかったであろうこの手のアイデアは今や少なからず観ることができる。

マイナスの第二点は、双葉十三郎先生のご意見を参考にした。師曰く、偶然(の連続)が肯定されるのは喜劇に限られるのではあるまいか、と。
 なるほど、それまで別々に行動していた人物が余りに調子よく強引に結び付けられたとしても喜劇なら苦笑して済ますことができる(苦笑が喜劇性に吸収される)が、シリアスなものでは作品の性格と対比的にならざるを得ない、ということだと思う。演劇・映画論として実に示唆に溢れるご意見と膝を打った。

とにかく、デュヴィヴィエが、パリを事実上の主人公或いは神として、人々の営為を鳥瞰する姿勢で作品を構成したことを僕は評価したい。パリの風景の捉え方が抒情的であり、人々の行動を生活詩的に捉える手腕もさすが。
 戦後の作品で一番デュヴィヴィエらしいのは本作であろうし、出来栄えもそれに伴っている気がする。

子供のころ主題曲がお気に入りだった。いやいや、同時代ではありません。もう作品が作られてから20年くらい経っていましたよ!

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