映画評「サマーフィルムにのって」
☆☆☆(6点/10点満点中)
2020年日本映画 監督・松本壮史
ネタバレあり
【W座への招待状】が二週続けて青春映画。最古参のWOWOW契約者としては大いに困惑している。この作品もまた監督も出演者も知らない。
高校の映画部所属の時代劇好き女子高生ハダシ(伊藤万理華)が、文化祭に上映する作品に落選したものの未だに映画化を諦めていない時代劇「武士の青春」の主役俳優を探しに難儀する日々を過ごしている。ある日、時代劇を観に行った映画館でイメージに合う若者・凛太郎(金子大地)を発見、追い廻して延々と出演を口説き続け、ある理由があって出演を拒んでいた彼も漸く応諾する。
かくして親友のビート板(河合優実)とブルーハワイ(祷キララ)を助手に、特技を持つ男子生徒たちをスタッフに、そして主人公の仇役におじさん顔のダディボーイ(板橋駿谷)を抜擢して撮影開始。近くでは同じ部員の花鈴(甲田まひる)が部の公式映画に選ばれたキラキラ青春映画を撮ってい、しばしば彼らの撮影を邪魔する。
映画中盤で判る驚くべき事実は、凛太郎は未来から来た若者で、大物監督になっていたハダシ監督の唯一観られない監督デビュー作を探しにこの時代にやって来た、ということ。
その作品とは勿論「武士の青春」である。彼が出演を拒んだのはその為だが、その作品を抹消してしまえばタイムパラドックスは発生しないという仕組み。先週の「君が落とした青空」は何ちゃってタイムループものだったが、本作は本当のタイム・トリップで、パラドックスについて作品内外で一生懸命考えているところは実に微笑ましい。
最近の若者向け青春映画には時間の絡む映画がやたらに多いということが解った、この数年でござる。
ハダシは結末において、友情を抱いた仇同士に斬り合いをさせるかどうかで大いに悩む。何度も変更を重ねる。しかも完成後、お情けで可能になった上映を中断してまで、上映現場で遂に斬り合いをするラスト・シーンを撮る。
但し、斬り合いは愛の告白である、否、愛の告白は斬り合いであるという解釈をつけ、ハダシ自ら未来へ帰って行く凛太郎と斬り合うという内容に変えて。
この最後の大変化球ぶりを認めれば小傑作と言って良い映画であるし、青春ロマンスっぽい甘い幕切れと考えれば“九仭の功を一簣に欠く”と言いたくなるわけで、僕としては両者の間で結論が出ていない。どちらかと言えば、甘さを感じていようか。
未来の若者が “自分の時代には映画はない” と言う発言が、現在の社会に対して示唆的である。現在の若者が多く映画も音楽も消化物と考えているらしく、早回しや飛ばしたりして見たり聞いたりする傾向があると新聞でも話題になっていた。
僕は退屈であったり、意味が薄そうな場面も当然そのまま見る。退屈であるのも評価の一部であり、その意味では意味をなさない場面などない。冷静に考えて不必要な場面であると批判できるのも、その場面が存在するからである。
とにかく、世間の話題に乗り遅れない為に音楽や映画に触れようとするからこういう現象が起きる。しかし、それは鑑賞ではなく、消化に過ぎない。分野を問わず、自分の為に作品に触れよ、と僕は主張したい。
閑話休題。
その延長にあるのが凛太郎の暮らす未来社会で、1分なら長編なのだと言う。映画の中でタイム・パフォーマンス問題に言及しているのが実に興味深いが、既に僕は映画にも音楽にも暗澹たる思いを抱いている。
アデルがLPの曲を(i-tuneなどで?)バラバラに取り込まないように対策を講じた、と聞いた。彼女のようなヴォーカル系が、昔のロックのようにアルバム主義を主張したのは嬉しい。
2020年日本映画 監督・松本壮史
ネタバレあり
【W座への招待状】が二週続けて青春映画。最古参のWOWOW契約者としては大いに困惑している。この作品もまた監督も出演者も知らない。
高校の映画部所属の時代劇好き女子高生ハダシ(伊藤万理華)が、文化祭に上映する作品に落選したものの未だに映画化を諦めていない時代劇「武士の青春」の主役俳優を探しに難儀する日々を過ごしている。ある日、時代劇を観に行った映画館でイメージに合う若者・凛太郎(金子大地)を発見、追い廻して延々と出演を口説き続け、ある理由があって出演を拒んでいた彼も漸く応諾する。
かくして親友のビート板(河合優実)とブルーハワイ(祷キララ)を助手に、特技を持つ男子生徒たちをスタッフに、そして主人公の仇役におじさん顔のダディボーイ(板橋駿谷)を抜擢して撮影開始。近くでは同じ部員の花鈴(甲田まひる)が部の公式映画に選ばれたキラキラ青春映画を撮ってい、しばしば彼らの撮影を邪魔する。
映画中盤で判る驚くべき事実は、凛太郎は未来から来た若者で、大物監督になっていたハダシ監督の唯一観られない監督デビュー作を探しにこの時代にやって来た、ということ。
その作品とは勿論「武士の青春」である。彼が出演を拒んだのはその為だが、その作品を抹消してしまえばタイムパラドックスは発生しないという仕組み。先週の「君が落とした青空」は何ちゃってタイムループものだったが、本作は本当のタイム・トリップで、パラドックスについて作品内外で一生懸命考えているところは実に微笑ましい。
最近の若者向け青春映画には時間の絡む映画がやたらに多いということが解った、この数年でござる。
ハダシは結末において、友情を抱いた仇同士に斬り合いをさせるかどうかで大いに悩む。何度も変更を重ねる。しかも完成後、お情けで可能になった上映を中断してまで、上映現場で遂に斬り合いをするラスト・シーンを撮る。
但し、斬り合いは愛の告白である、否、愛の告白は斬り合いであるという解釈をつけ、ハダシ自ら未来へ帰って行く凛太郎と斬り合うという内容に変えて。
この最後の大変化球ぶりを認めれば小傑作と言って良い映画であるし、青春ロマンスっぽい甘い幕切れと考えれば“九仭の功を一簣に欠く”と言いたくなるわけで、僕としては両者の間で結論が出ていない。どちらかと言えば、甘さを感じていようか。
未来の若者が “自分の時代には映画はない” と言う発言が、現在の社会に対して示唆的である。現在の若者が多く映画も音楽も消化物と考えているらしく、早回しや飛ばしたりして見たり聞いたりする傾向があると新聞でも話題になっていた。
僕は退屈であったり、意味が薄そうな場面も当然そのまま見る。退屈であるのも評価の一部であり、その意味では意味をなさない場面などない。冷静に考えて不必要な場面であると批判できるのも、その場面が存在するからである。
とにかく、世間の話題に乗り遅れない為に音楽や映画に触れようとするからこういう現象が起きる。しかし、それは鑑賞ではなく、消化に過ぎない。分野を問わず、自分の為に作品に触れよ、と僕は主張したい。
閑話休題。
その延長にあるのが凛太郎の暮らす未来社会で、1分なら長編なのだと言う。映画の中でタイム・パフォーマンス問題に言及しているのが実に興味深いが、既に僕は映画にも音楽にも暗澹たる思いを抱いている。
アデルがLPの曲を(i-tuneなどで?)バラバラに取り込まないように対策を講じた、と聞いた。彼女のようなヴォーカル系が、昔のロックのようにアルバム主義を主張したのは嬉しい。
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