映画評「選ばなかったみち」
☆☆☆★(7点/10点満点中)
2020年イギリス=スウェーデン=ポーランド=スペイン=アメリカ合作映画 監督サリー・ポッター
ネタバレあり
春先に観た「ファーザー」に一見似ている。少なくとも認知症患者の内面に踏み込んでいる点で共通する。
ローラ・リニーと離婚したメキシコ移民の作家ハビエル・バルデムは認知症を患い、仕事に忙しい妙齢の娘エル・ファニングとヘルパーが介護している状態。娘と接している最中も、彼の頭は過去をベースにした幻想の中を彷徨している。
映画は、元作家が歯科と眼科医にチェックしてもらう一日を取り上げ、多分にケアする家族が一般的に遭遇する現象を描出する。
しかし、本作の本領はそこにあるのではない。頭が彷徨っている父親が何を考えているか理解できず(仕事も棒にふってぶつけようなのない怒りを抱えた)娘が、長い一日を終え、父親から初めて自分の名前を呼んで貰ったことで、それまでやってきたことが正しいと思えてき、かつ、父親を理解できた心境になるという心情の部分にある。
僕の両親は認知症の類を患うことなく亡くなったが、もしこのヒロインのような状況に陥ったら、彼女のような心情になると思え、じーんとした。
他方、ぐっと映画的なアプローチとして、そういう現実的な部分を離れ、随時、彼の頭の中の映像が画面に現れる部分を指摘しなければならない。
この映像は全き心象風景であって、これが実際にあった過去なのか、過去の事実に基づく幻想なのか全く曖昧で、その狭間を観客に歩ませようとする、文芸的な試みである。
頻繁に現れ先妻のように扱われる、ドロレスという名のメキシコ女性(サルマ・ハエック)は、(アメリカ人の前妻の言うように、単なる)初恋の女性という可能性が高い。これを実際とした場合も興味深い展開があり、交通事故で死んだ息子の名を犬の名にしたと判明するところなど感動的ではあるが、これも実際には逆なのかもしれない。逆というのは、犬の死が存在しない息子の死という幻想を生んだ可能性をも、僕は否定できないということである。
つまり、彼の見る心象風景は両義的なのであるが、曖昧であるのをマイナスと考えるには及ぶまい。
彼が夢の中で小説の結末の選択をギリシャを旅する女性観光客(杉咲花をそのまま西洋人にした感じ)に尋ねる場面が象徴するように、本作の文学的アプローチは “選択” を基礎とする。夢(もしくは幻想)の中で死んだ父親が夢から覚めた時に自分の人生の選択を正しいと認め、その結果ヒロインの名を呼ぶことに繋がったのではないか。
映画の幕切れは、父親の横にいるエルと、ドアから出ていくエルとを映す。これもまた選択を暗示しよう。選択をベースにしたが為に、彼女が父親の介護を仕事に優先するという選択が正しかったという心境に至る結末が余計にじーんとするわけである。
この映画はもう少し高く評価されて良い。
「これが私の選ばなかったみち」という曲はありません。
2020年イギリス=スウェーデン=ポーランド=スペイン=アメリカ合作映画 監督サリー・ポッター
ネタバレあり
春先に観た「ファーザー」に一見似ている。少なくとも認知症患者の内面に踏み込んでいる点で共通する。
ローラ・リニーと離婚したメキシコ移民の作家ハビエル・バルデムは認知症を患い、仕事に忙しい妙齢の娘エル・ファニングとヘルパーが介護している状態。娘と接している最中も、彼の頭は過去をベースにした幻想の中を彷徨している。
映画は、元作家が歯科と眼科医にチェックしてもらう一日を取り上げ、多分にケアする家族が一般的に遭遇する現象を描出する。
しかし、本作の本領はそこにあるのではない。頭が彷徨っている父親が何を考えているか理解できず(仕事も棒にふってぶつけようなのない怒りを抱えた)娘が、長い一日を終え、父親から初めて自分の名前を呼んで貰ったことで、それまでやってきたことが正しいと思えてき、かつ、父親を理解できた心境になるという心情の部分にある。
僕の両親は認知症の類を患うことなく亡くなったが、もしこのヒロインのような状況に陥ったら、彼女のような心情になると思え、じーんとした。
他方、ぐっと映画的なアプローチとして、そういう現実的な部分を離れ、随時、彼の頭の中の映像が画面に現れる部分を指摘しなければならない。
この映像は全き心象風景であって、これが実際にあった過去なのか、過去の事実に基づく幻想なのか全く曖昧で、その狭間を観客に歩ませようとする、文芸的な試みである。
頻繁に現れ先妻のように扱われる、ドロレスという名のメキシコ女性(サルマ・ハエック)は、(アメリカ人の前妻の言うように、単なる)初恋の女性という可能性が高い。これを実際とした場合も興味深い展開があり、交通事故で死んだ息子の名を犬の名にしたと判明するところなど感動的ではあるが、これも実際には逆なのかもしれない。逆というのは、犬の死が存在しない息子の死という幻想を生んだ可能性をも、僕は否定できないということである。
つまり、彼の見る心象風景は両義的なのであるが、曖昧であるのをマイナスと考えるには及ぶまい。
彼が夢の中で小説の結末の選択をギリシャを旅する女性観光客(杉咲花をそのまま西洋人にした感じ)に尋ねる場面が象徴するように、本作の文学的アプローチは “選択” を基礎とする。夢(もしくは幻想)の中で死んだ父親が夢から覚めた時に自分の人生の選択を正しいと認め、その結果ヒロインの名を呼ぶことに繋がったのではないか。
映画の幕切れは、父親の横にいるエルと、ドアから出ていくエルとを映す。これもまた選択を暗示しよう。選択をベースにしたが為に、彼女が父親の介護を仕事に優先するという選択が正しかったという心境に至る結末が余計にじーんとするわけである。
この映画はもう少し高く評価されて良い。
「これが私の選ばなかったみち」という曲はありません。
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