映画評「写楽」

☆☆☆☆(8点/10点満点中)
1995年日本映画 監督・篠田正浩
ネタバレあり

東洲斎写楽は化政文化が本格的に花開く前に突然現れ、1年足らずで消えた浮世絵師である。とは言え、化政文化に属しそれを代表する人物であることは間違いない。

幸か不幸か、9カ月前に観た「HOKUSAI」と主たる時代が重なるので、再鑑賞という印象が薄い。主たる化政文化に絵師、作家は重なって出て来るが、こちらには柳亭種彦は出て来ない。その代わり、種彦に相当する重要人物として十返舎一九(片岡鶴太郎)が登場し、その他に鶴屋南北(六平直政)、太田南畝(竹中直人)、山東京伝(河原崎長一郎)が出て来る。
 四半世紀前は化政文化の担い手総登場の感に舞い上がって、何と☆☆☆☆☆を付けてしまった。厳密には★一つはIMDbでの平均点が少しでも上がるようにおまけしたのだが。さすがに調子に乗り過ぎたと反省して、今回は映画的完成度も重視して上記採点とする。それでも、化政文化担い手による群像劇としての面白味にどうも傾いてしまう。

大老松平定信が退廃的な文化を取り締まり始めた頃(寛政5年=1793年=くらいか)、歌舞伎の脇役の斎藤十郎兵衛(真田広之)が足の甲を道具に潰されて引退、女座長おかん(岩下志麻)の情人として大道芝居の一員になりつつ頻々に小屋に出入りして絵を描いているところを、手鎖から解放されたばかりの版元・蔦屋重三郎(フランキー堺)に認められ、役者絵師・東洲斎写楽として大いに売り出すが、欠点を余すところなく描写する為に世間にも役者にも受けが悪く、思ったように売れない。
 蔦屋は失意のうちに亡くなり、写楽は、自分にはない才能を妬んだ美人画の大家・喜多川歌麿(佐野史郎)に追い出しを謀られる。

しかし、この映画の歌麿は悪人ではない。入れ込んでいる花魁・花里(葉月里緒菜)が名前も知らぬ十郎兵衛に傾倒しているのに気づいて一緒に逃れ出させる粋(いき)を見せる。そこはかとなく味わい深いではないか。

写楽の正体がはっきりしないことから生まれた歴史の謎を背景にした群像劇である。写楽一人を描こうとした映画ではないから、その人物造形などを描く伝記ものとして見ると期待外れであろうし、つまらないということになりかねない。太田南畝という名前に触れるだけで喜んでしまう僕などは、化政文化そのものが主役であると考えるので、きちんとした美術・セットを得て大いに楽しめゴキゲンになってしまう次第。

故双葉十三郎先生は篠田正浩監督が「天井桟敷の人々」を意識していると仰る。その意見に乗れば、写楽がバチストであり、おかんがガランスである。人物の配置的にもそうかもしれないと思わせる。

この映画では、蔦屋が十郎兵衛の“しゃらくせい”から写楽の名前を生んだことになっている。父親の“くたばっちめえ”から二葉亭四迷は自分のペンネームを生んだというエピソードを思い出させる。双葉先生は、確か、トム・ソーヤーをひっくり返しペン・ネームを生み出したのだった。ソーヤー⇒ソーヨー⇒双葉(そうよう)、トム⇒トミー⇒十三(とうみ)、という具合。

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